(三)
「何か思い出せそうか?」
紫は首を横に振る。
お腹の上で白い手を組み、おれの腕をしげしげと見つめてきた。
「私の腕や鎖骨に付いている花弁は真っ白だけど、きみのは赤が濃くて綺麗だね」
「おれも気に入ってる。︎︎でも、おれのより兄貴の集真藍は特別だから羨ましいよ」
「? なにが特別なの?」
「白い萼の集真藍は、色変化を起こす土台となる色素を持ってないんだ。集真藍の植物体の中でも珍しくて貴重だから、特別」
それを聞いた紫は何を思ったのか、自分の腕を内側に捻り、白い集真藍を毟り出した。
あまりの出来事におれは驚いて、上半身を起こし紫の両手を掴む。
「何やってるんだよ!」
「え? 取れない……?」
身体の至るところに集真藍が咲いていたら、引き剥がしたくなる気持ちもわからなくはないが、とにかく心臓に悪い。
「兄貴の大事な身体なんだから、やめてくれ」
おれの悲痛な叫びに、蚊の鳴くような声で謝られた。
記憶がないというのは、どのような感覚なのだろうか。
「明日は無理しなくていいからな」
オオカミの花と会話したくらいで、あれだけ大はしゃぎするのだから、外部の色んな情報を目にしたら、きっと疲れるはずだ。
「うん……。わかったよ。眠る前にもう一つだけ、聞いてもいい?」
「ん?」
「出窓に飾ってあった鉢植えは、何の植物が咲くの?」
うつらうつら、まどろむ目でおれに問う。
しかし、記憶を失ったばかりの相手に伝えるのは憚られて、おれは答えられなかった。
植物体の八割近くは、冬が来る前に人の形を失い、完全植物として世界を彩るために生きていく。
王に認められた優秀な植物体だけが、植物の成長を止めることを許され、完全な人体を得る。
それが植物体の運命。
*
「王の意向で、なにもかもひっくり返る」
ある日、井戸端会議をしていたウサギから、半宵の靴屋で園芸師の集会が行われることを聞きつけ、おれは人目(動物の目)を忍び様子を窺うことにした。
月明かりを頼りに、動物の代表たちがぞろぞろと店の中へ入っていく。
その中には当然、花の姿もあった。
最後の一匹が扉を閉めたのを確認して、辺りを警戒しながら靴屋の前に立つ。
細心の注意を払い、入り口の扉に耳をくっつけて、会話を盗み聞きした。
議題はやはり、集真藍の王の理不尽な命令について。
まず、声の高い園芸師が話を切り出す。
特定の果物に植物の色を変える栄養素が含まれている可能性があると告げると、動物たちのいる室内はざわめき出した。
話をよく聞くと、実際には栄養素の含有を確認している最中であり、元の色素を持たない植物への効果は期待できないらしい。
ならば、と会話の主導権が別の園芸師へ移る。
土の寝床や日々の食事内容を変えても、白以外に染まらない集真藍は、思い切って伐採するかという恐ろしい内容。
――兄だけが持つ美しい萼を、みんなが奪おうとしている。
議論が白熱する中、花の声は聞こえない。
花は集真藍の兄弟の園芸師なのに。
他の園芸師たちの話に、どうして静かに耳を傾けているのだろうか。
考えれば考えるほど、悲しくて、腹ただしくて。
気がつけば、おれは花たちの前に姿を現していた。
「園芸師だろうと、兄貴を傷つけたら絶対に許さないからな!」
「陽!」
見たこともない剣幕で花に怒鳴られ、身体がビクッと反応し硬直する。が、譲れなかった。
はじめて花と睨み合う。
すると思いのほか花が簡単に折れて、内心戸惑った。
周りの園芸師に聞こえないよう、小声で話しかけてきたので、腰を落とし前屈みになる。
それが間違いだった。
見事な速さでおれの首の後ろを噛むと、開きっぱなしの扉の前までズルズルと引きずって外に放り出す。
かなり乱暴に投げられたものだから、激しく尻もちをついた。
「いってぇ……」
花があんな奴だったなんて幻滅した。
心の中でひどく罵りながら、暗闇の中を無我夢中で走る。
兄貴に知らせないと――!
急いで家に戻り、隣のベッドで皺ひとつない布団にまっすぐな姿勢で仰向けに眠る兄を叩き起こす。
集会で起きた一連の出来事を、早口で説明するが上手く伝わらない。
しまいには涙が溢れてきて、白い集真藍が茂る腕に抱きつく。
安眠を妨害された兄は、役たたずなおれを叱るでもなく「大丈夫だよ」と頭を撫でてくれた。
夢から目覚めると、まだ夜明け前だった。
真隣で紫が寝息を立てて眠っている。
彼は寝相が悪いのか、布団を蹴りあげて床に落としていた。
――あのとき、兄と約束したんだ。
兄弟で完全な人体を手に入れようと。
そうすれば悲しいことは起きないから。
新しい朝が来ると同時に、兄の欠落した記憶も回復すればいいのに。
おれはベッドから降りて、紫の布団を拾いそっと掛け直す。
これじゃあ、まるでおれのほうが兄のようだ。
ぶつくさ文句を言いながら、いつもの寝顔に願いを託し、おれは再び目を閉じた。
*
「陽! 動物がたくさんいる!」
予想通り、街に出ると紫はリードを解かれた犬のように興奮して、目をあちこちに動かしながら飛び回る。
おれが目を離した瞬間に、迷子になりそうだ。




