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落ちた子は帰ってくる

作者: シガ
掲載日:2026/01/21

 浅間山の北麓、鬼押出しの溶岩原から少し外れたところに、小さな火口があった。地元では「小浅間」と呼ばれ、観光地図にも載っていない。直径は十メートルほどで、縁に立つと底が見えないほど深い。昔から「落ちたら二度と戻れぬ」と言われ、子供たちは近づくことを禁じられていた。


 その日、大学三年の佐藤澪は、一人でその火口の縁に立っていた。


 彼女は地質学を専攻し、卒業論文のために浅間山の第四紀火山活動を調べに来ていた。指導教官は「小浅間はただの風穴だ」と笑ったが、澪は違った。古い文献に、江戸時代にこの火口から「青い火」が立ち上ったという記述を見つけたのだ。しかもその直後、山麓の村で原因不明の失踪が相次いだという。


 風が冷たかった。十二月の半ば、雪はまだ積もっていないが、息は白く凍る。

 澪はリュックからロープを出し、火口の縁に生えた枯れ松にしっかりと巻きつけた。腰にハーネスを装着し、ヘッドランプを点ける。底までの深さは測った限りでおよそ四十メートル。単独下降は危険だが、誰かを誘うと必ず止められる。


「論文のためだ」


 自分に言い聞かせるように呟いて、彼女は体を反転させた。

 ロープが軋む音だけが、静寂を切り裂いた。


 十メートル、二十メートル。


 壁面は予想外に滑らかだった。まるで巨大なドリルで穿ったように円筒形をしている。火山ガスで削られたのか、それとも。


 三十メートルあたりで、澪は足を止めた。いや、止まらざるを得なかった。

 ロープが、そこで終わっていた。


 切られたわけではない。先が、ただ、消えている。まるでそこから先は別の空間につながっているかのように、きれいに途切れているのだ。


 澪は息を呑んだ。

 その瞬間、底の方から声がした。


「上がっておいで」


 女の声だった。年老いた、しかしどこか懐かしい響き。

 澪は反射的にヘッドランプを下に向けた。

 光の先に、着物を着た老女が立っていた。白髪を高く結い上げ、顔だけが闇の中で浮かび上がる。年齢は八十、いや百を超えているかもしれない。

 老女はにこりともせず、ただ静かに言った。


「お前は、昔ここに落ちた子だろ」


 澪の背筋に、冷たいものが走った。

 澪は喉の奥が勝手に鳴るのを感じた。そんなはずはない。自分がここを訪れたのは今日が初めてだし、幼い頃の記憶にも“小浅間”の影など一度もない。なのに、老女の声には抗いがたい確信が宿っていた。ロープの先が消えた空間の向こうから、微かな温気が流れ上がってくる。それは火山の熱ではなく、誰かの吐息のように生温い。

 澪は思わずロープを握りしめた。老女は動かない。ただ闇の底で、澪の名前さえ知っているかのような目で見上げていた。


「違う……私、初めて来たんです」


 声が震えた。ヘッドランプの光が小刻みに揺れ、老女の顔が一瞬、別の誰かの輪郭に重なったような気がした。

 老女は首をわずかに傾けた。


「初めて?そうか?そうだったかねぇ?」


 その途端、ロープがふっと軽くなった。澪は慌てて手を伸ばしたが、指先が空を掴む。ハーネスごと宙に浮いた。重力が、逆さまに働いた。


 次の瞬間、彼女は落下していた。


 でも、落ちる方向が上だった。


 頭が下、足が上。髪が逆立ち、リュックが顔にぶつかる。叫び声を出そうとしたが、肺の中の空気が全部抜けて、音にならない。


 そして、暗転。


 どれくらい経ったのか。澪は固い床の上で目を開けた。鼻の奥に、焦げた硫黄と湿った土の匂いが残っている。視界はぼやけていたが、やがて焦点が合う。そこは小浅間の火口の底――ではない。


 石畳の廊下が続いている。灯りはなく、けれど薄明かりがどこからか差し込んでいる。空気は湿り、苔の匂いがした。まるで古い神社の裏手のような。

 老女はすぐ横に立っていた。今は背丈が澪と同じくらいに見える。


「ほら、帰ってきた」


 老女は静かに言った。


「お前が落ちたのは、明治四十二年の冬だった」


 澪は自分の手を見た。震えが止まらない。指先に、かすかに煤のようなものがついている。火山灰ではない。もっと古い、人の皮膚の垢のような。


「私は……佐藤澪。平成元年生まれです」

「名前は変わるものよ」


 老女はゆっくりと歩き始めた。石畳の先は、格子戸のある小さな部屋に続いている。障子の向こうに、ぼんやりと灯りが揺れている。


「みんな最初は『初めてだ』って言う。でもね、みんな戻ってくるの。小浅間は、落ちた子を忘れない」


 澪は必死に後ずさった。だが背後はもう壁だ。冷たい石の感触が、まるで生き物のように這い上がってくる。


「私を……どうするつもりですか?」


 老女は初めて笑った。皺の奥の目が、細く細く吊り上がる。


「どうするもこうしたもない。ただ、お前がここにいるべき場所だから、迎えに来ただけ」


 そのとき、障子の向こうから小さな足音がした。

 子どもの、裸足で石畳を歩く音。


 澪の胸が締めつけられた。振り返る勇気がない。

 子どもが障子を開けた。


 そこに立っていたのは、七つか八つの女の子だった。

 顔は、澪に瓜二つ。


 ただ、着物は煤と血で汚れ、片方の目は潰れていた。

 女の子はにこっと笑って、澪に向かって手を差し出した。


「おかえり、お姉ちゃん」


 澪は喉の奥で何かが裂けるような感覚を覚えた。目の前の少女は、かつてここに落ちた澪自身――つまり、明治の彼女なのだろうか。骨の形や笑い方の癖までも、鏡越しのように一致している。拒絶の言葉を絞り出そうとした瞬間、老女が袖をつまんだ。その手の温度は、生身ではあり得ないほど冷たい。「ほら、迎えに来ただろう?」と老女は囁いた。少女の潰れた片目が、ぴくりと小さく震えた。その涙腺から、黒いしずくが一滴だけこぼれ、石畳に落ちて消えた。澪は一歩後ずさろうとしたが、足は意志と無関係に前へ出た。石畳の下から、脈打つような低い鼓動が、彼女の足首を絡め取ってくる。まるで“戻ってきた記憶”が、体の奥でゆっくり目を覚まし始めたように。


 少女は手を差し出したまま、首だけを傾げた。


「怖がらないで。私だよ、澪」


 名前を呼ばれた瞬間、澪の頭の奥で何かが弾けた。


 ――雪の降る夜だった。母はまだ若く、父はまだ生きていた。家族三人で小浅間へ初詣に出かけた。神社の裏手で、澪はふと小さな穴を見つけた。雪が降り積もって塞がれていたが、下から温かい風が吹き上がってくる。好奇心に負けて、雪を掻き分けた。穴は思ったより深く、底が見えない。


「見ないで」


 母が叫んだ。でも遅かった。

 澪は滑り落ちた。


 落ちながら、彼女は必死に手を伸ばした。母の着物の裾に、指先がかすった。布が裂ける音がした。母の悲鳴が、遠ざかっていった。


 そして、底に着いたとき、彼女はもう一人だった。

 記憶はそこで途切れていた。ずっと、夢だと思っていた。現実感のない悪夢として。


「思い出した?」


 少女が微笑む。今度は潰れた目の方まで開いて、黒い瞳孔が澪を捉えた。


「私……落ちたんだ」


 声が震えた。自分でも驚くほど静かな声だった。

 老女が頷いた。


「落ちた子は、みんなここにいる。時間はここじゃ意味をなさない。明治も平成も、全部同じ夜だ」


 少女が一歩近づいた。差し出した手が、澪の頬に触れる。冷たくて、でもどこか懐かしい。


「ずっと待ってた。お姉ちゃんが帰ってくるの」


 澪は自分の手が、勝手に動くのを感じた。少女の手を握り返していた。指が絡まる。少女の小さな指は、骨が浮き出るほど細い。

 その瞬間、背後で石畳が鳴った。


 振り返ると、廊下の奥、闇の中から別の子どもたちが現れた。十人、二十人。みんな着物を着て、みんな片目が潰れている。年齢はバラバラだが、顔はどこか似ている。澪に似ている。


 子どもたちは無言で輪を作り始めた。澪と少女を中心に。

 老女が静かに言った。


「さあ、順番だよ。次はお前が迎えに行く番」


 澪は息を呑んだ。


「迎えに……行く?」

「そう。外の世界から、新しい子を連れてくるの。お前みたいに、好奇心に負けた子をね」


 少女が微笑んだ。潰れた目が、黒い涙で濡れている。


「私も昔、お姉ちゃんを待ってた。今度はお姉ちゃんが待つ番だよ」


 子どもたちの輪が、少しずつ狭まっていく。

 澪の足元で、石畳が波打った。まるで巨大な心臓が、下で鼓動しているように。

 澪は気づいた。


 自分が、もう逃げられないことを。

 そして、逃げたくないことも。


 彼女はゆっくりと膝をついた。少女と目線を合わせる。


「……わかった」


 少女の顔がぱっと明るくなった。

 澪は立ち上がり、子どもたちの輪の外へ歩き出した。老女が後ろから呟く。


「お前が選ぶ子は、きっといい子だ。明治の時と同じように」


 澪は振り返らずに答えた。


「うん。私が好きになった子を、連れてくる」


 廊下の奥に、新しいロープが垂れていた。今度は上へ、地上へと続くロープだ。

 澪はそれに手をかけた。

 振り返ると、少女が小さく手を振っている。


「行ってらっしゃい、お姉ちゃん」


 澪は微笑んだ。


「すぐ戻るよ」


 ロープが軋む。

 彼女は登っていく。


 十二月の冷たい風が、再び頬を撫でた。

 火口の縁には、雪が降り始めていた。


 澪が火口の縁に身体を引き上げた瞬間、風が止んだ。世界が、一拍遅れたように静まり返る。降りしきる雪の音だけがやけに大きく響く。息を整えて立ち上がると、見慣れたはずの浅間山の北麓が、どこかわずかに歪んで見えた。色彩が薄く、空気が重く、木々の影が一瞬だけ逆向きに揺れる。澪はゆっくりとロープを見下ろした。さっきまで握っていたはずの繊維が、今は新しい麻縄に変わっている。その先は、もう火口の闇にはつながっていなかった。ただの風穴のように、どこまでも黒い。


 そのとき、背後で雪を踏む音がした。振り返ると、下山道の方から人影がひとつ近づいてくる。ヘッドランプの光が揺れ、澪の名を呼ぶ声がした。聞き慣れた声だった。大学の研究室の同期、真柴だった。


「こんなところで何してるんだよ。捜したんだぞ」


 真柴は息を弾ませながら笑った。だが澪には、彼の片目が雪明かりの中で少しだけ黒く濁って見えた。ほんの一瞬、ほんの錯覚のように。


 澪は微笑んだ。頬に触れた雪は、さっきの少女の指よりもずっと温かかった。


「……ねえ、真柴。少しだけ、下を覗いてみない?」


 真柴は眉をひそめた。


「下?この火口か?冗談だろ。危ないって」

「うん、危ないよ」


 澪は静かに頷いた。


「でも、すごく綺麗なんだ」


 澪の声には抗いがたい響きがあった。まるで昔から知っている誰かの声で、甘く、懐かしく、拒めない。


 彼はためらいながらも、火口の縁に近づいた。ヘッドランプの光が闇を裂く。


「深いな……底が見えない」

「うん。すごく深いよ」


 澪は真柴の横に並び、肩が触れた。真柴は少し驚いたように彼女を見た。いつもは冷静で距離を取る澪が、こんなに近くに寄ってくるなんて。


「なあ、佐藤……なんか今日、変だぞ。お前」

「変?」


 澪は首を傾げて微笑んだ。その瞬間、真柴の視界の端で、雪が逆さに舞い上がったような気がした。


「ほら、もう少しだけ顔を近づけて」


 澪の手が、真柴の背中をそっと押す。優しく、でも確実に。

 真柴の体が傾く。


「ちょ、待てって……!」


 真柴は慌てて手をついた。縁の岩が冷たい。ヘッドランプが火口の奥を照らす。そこに、何もなかった。ただの黒い穴。


 でも、次の瞬間、穴の奥から無数の小さな手が伸びてきた。

 白い、細い、子どもの手。


 真柴は悲鳴を上げた。体が浮く。重力が逆転する。


「佐藤!おい、佐――」


 声は途中で途切れた。

 澪は静かに彼を見下ろしていた。表情は穏やかで、まるで子守唄を歌う母親のようだった。


 真柴の体が、闇に吸い込まれていく。


 最後に見えたのは、澪の片目が、雪明かりの中で真っ黒に濁ったことだった。

 風が再び吹き始めた。


 雪は激しくなり、足跡をすぐに消していく。

 澪はロープを解き、リュックを背負い直した。


 下山道を歩きながら、スマートフォンを取り出す。電波は一本、かろうじて入る。

 研究室のグループLINEに、短いメッセージを打った。


『真柴くん、急に具合が悪くなったみたい。迎えに来てくれる? 小浅間の近くにいる』


 送信。

 すぐに既読がついた。

 誰かが返信してきた。


『今すぐ行く!どこ?』


 澪は画面を見て、くすりと笑った。

 雪が頬を打つ。


 温かい。澪はスマートフォンの画面を閉じ、そっとポケットにしまった。風が静まり、森の輪郭が濃く浮かび上がる。雪明かりが道を白く照らし、遠くで車のエンジン音が微かに響いた。研究室の仲間が、もうすぐそこまで来ている。澪はふと立ち止まり、背後の闇を振り返った。火口は雪に沈みつつあり、その奥で、子どもたちの細い手が幾本も、まるで「まだか」と催促するように蠢いて見えた。澪の片目が、ゆっくりと闇の色を帯びる。視界の中で、世界の色がひっくり返ったように揺らぐ。やがて彼女はふっと息をつき、笑った。静かな、温かい笑みだった。


「大丈夫。すぐに、連れてくるから」


 道の向こうで、ヘッドライトが雪煙を切り裂いた。車が急停止し、ドアが勢いよく開く足音が近づく。澪は両手を広げるようにして、ゆっくりと歩き出した。雪は彼女の足跡を消しながら降り続き、その白さはどこか、無数の小さな手と同じ色をしていた。


 車から飛び出してきたのは、助教の北村だった。

 三十代半ば、いつも白衣のポケットにペンを何本も突っ込んでいる、研究室で一番の常識人だ。彼は雪の中を走りながら叫んだ。


「佐藤!真柴はどこだ!?」


 澪は立ち止まり、首だけをゆっくり振った。


「落ちちゃった」


 北村は息を呑んだ。顔から血の気が引く。


「落ちたって……まさか、あの穴に?」

「うん。小浅間」


 北村は一瞬、言葉を失った。すぐに懐中電灯を手に火口の方へ駆け出そうとする。


「待ってください!危険です!」


 澪は静かに言った。その声は、まるで北村の母が諭すように落ち着いていた。

 北村は足を止めた。なぜか、言い返せない。


「大丈夫。私が連れてくから」


 北村は初めて、澪の顔をまじまじと見た。

 雪明かりに浮かぶその横顔は、確かに佐藤澪だった。でも、どこかが違う。輪郭が少し幼く、頬の線が柔らかく、唇の端に幼い頃の癖の笑みが残っている。


 そして、片目が。

 完全に闇に染まっていた。光を反射しない、底なしの黒。

 北村は後ずさった。


「……お前、誰だ」


 澪は答えない。ただ、ゆっくりと近づいてくる。

 雪が降る音だけが、二人を包む。


 北村は背後で車のドアが開いているのに気づいた。運転席から、もう一人、誰かが降りてくる。


 助手席のドアも開いた。

 後部座席も。


 四人、五人……研究室のメンバー全員が、雪の中を無言で歩いてくる。

 誰も口を開かない。誰も表情を動かさない。


 ただ、片目だけが、真っ黒に濁っている。

 北村は震える手でスマートフォンを取り出した。110番を押そうとする。


 でも、電波はもう、どこにも届かない。

 澪がすぐ目の前まで来た。手を差し出す。


「行こう、北村先生。みんな、待ってるよ」


 その瞬間、北村の視界がひっくり返った。

 雪の上に立っているはずなのに、足元は石畳。

 背後には、長い廊下。


 そして、無数の子どもたちが輪を作って待っている。

 澪は北村の手を引いて、ゆっくりと歩き出す。


「みんな、待ってるんです」


 雪は降り続いていた。

 小浅間の縁は、もう誰の足跡も残っていない。

 ただ、新しい麻縄が一本、静かに揺れているだけだった。

 遠くで、朝の光が差し始めた。

 でも、その光は、火口の底までは届かない。

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