落ちた子は帰ってくる
浅間山の北麓、鬼押出しの溶岩原から少し外れたところに、小さな火口があった。地元では「小浅間」と呼ばれ、観光地図にも載っていない。直径は十メートルほどで、縁に立つと底が見えないほど深い。昔から「落ちたら二度と戻れぬ」と言われ、子供たちは近づくことを禁じられていた。
その日、大学三年の佐藤澪は、一人でその火口の縁に立っていた。
彼女は地質学を専攻し、卒業論文のために浅間山の第四紀火山活動を調べに来ていた。指導教官は「小浅間はただの風穴だ」と笑ったが、澪は違った。古い文献に、江戸時代にこの火口から「青い火」が立ち上ったという記述を見つけたのだ。しかもその直後、山麓の村で原因不明の失踪が相次いだという。
風が冷たかった。十二月の半ば、雪はまだ積もっていないが、息は白く凍る。
澪はリュックからロープを出し、火口の縁に生えた枯れ松にしっかりと巻きつけた。腰にハーネスを装着し、ヘッドランプを点ける。底までの深さは測った限りでおよそ四十メートル。単独下降は危険だが、誰かを誘うと必ず止められる。
「論文のためだ」
自分に言い聞かせるように呟いて、彼女は体を反転させた。
ロープが軋む音だけが、静寂を切り裂いた。
十メートル、二十メートル。
壁面は予想外に滑らかだった。まるで巨大なドリルで穿ったように円筒形をしている。火山ガスで削られたのか、それとも。
三十メートルあたりで、澪は足を止めた。いや、止まらざるを得なかった。
ロープが、そこで終わっていた。
切られたわけではない。先が、ただ、消えている。まるでそこから先は別の空間につながっているかのように、きれいに途切れているのだ。
澪は息を呑んだ。
その瞬間、底の方から声がした。
「上がっておいで」
女の声だった。年老いた、しかしどこか懐かしい響き。
澪は反射的にヘッドランプを下に向けた。
光の先に、着物を着た老女が立っていた。白髪を高く結い上げ、顔だけが闇の中で浮かび上がる。年齢は八十、いや百を超えているかもしれない。
老女はにこりともせず、ただ静かに言った。
「お前は、昔ここに落ちた子だろ」
澪の背筋に、冷たいものが走った。
澪は喉の奥が勝手に鳴るのを感じた。そんなはずはない。自分がここを訪れたのは今日が初めてだし、幼い頃の記憶にも“小浅間”の影など一度もない。なのに、老女の声には抗いがたい確信が宿っていた。ロープの先が消えた空間の向こうから、微かな温気が流れ上がってくる。それは火山の熱ではなく、誰かの吐息のように生温い。
澪は思わずロープを握りしめた。老女は動かない。ただ闇の底で、澪の名前さえ知っているかのような目で見上げていた。
「違う……私、初めて来たんです」
声が震えた。ヘッドランプの光が小刻みに揺れ、老女の顔が一瞬、別の誰かの輪郭に重なったような気がした。
老女は首をわずかに傾けた。
「初めて?そうか?そうだったかねぇ?」
その途端、ロープがふっと軽くなった。澪は慌てて手を伸ばしたが、指先が空を掴む。ハーネスごと宙に浮いた。重力が、逆さまに働いた。
次の瞬間、彼女は落下していた。
でも、落ちる方向が上だった。
頭が下、足が上。髪が逆立ち、リュックが顔にぶつかる。叫び声を出そうとしたが、肺の中の空気が全部抜けて、音にならない。
そして、暗転。
どれくらい経ったのか。澪は固い床の上で目を開けた。鼻の奥に、焦げた硫黄と湿った土の匂いが残っている。視界はぼやけていたが、やがて焦点が合う。そこは小浅間の火口の底――ではない。
石畳の廊下が続いている。灯りはなく、けれど薄明かりがどこからか差し込んでいる。空気は湿り、苔の匂いがした。まるで古い神社の裏手のような。
老女はすぐ横に立っていた。今は背丈が澪と同じくらいに見える。
「ほら、帰ってきた」
老女は静かに言った。
「お前が落ちたのは、明治四十二年の冬だった」
澪は自分の手を見た。震えが止まらない。指先に、かすかに煤のようなものがついている。火山灰ではない。もっと古い、人の皮膚の垢のような。
「私は……佐藤澪。平成元年生まれです」
「名前は変わるものよ」
老女はゆっくりと歩き始めた。石畳の先は、格子戸のある小さな部屋に続いている。障子の向こうに、ぼんやりと灯りが揺れている。
「みんな最初は『初めてだ』って言う。でもね、みんな戻ってくるの。小浅間は、落ちた子を忘れない」
澪は必死に後ずさった。だが背後はもう壁だ。冷たい石の感触が、まるで生き物のように這い上がってくる。
「私を……どうするつもりですか?」
老女は初めて笑った。皺の奥の目が、細く細く吊り上がる。
「どうするもこうしたもない。ただ、お前がここにいるべき場所だから、迎えに来ただけ」
そのとき、障子の向こうから小さな足音がした。
子どもの、裸足で石畳を歩く音。
澪の胸が締めつけられた。振り返る勇気がない。
子どもが障子を開けた。
そこに立っていたのは、七つか八つの女の子だった。
顔は、澪に瓜二つ。
ただ、着物は煤と血で汚れ、片方の目は潰れていた。
女の子はにこっと笑って、澪に向かって手を差し出した。
「おかえり、お姉ちゃん」
澪は喉の奥で何かが裂けるような感覚を覚えた。目の前の少女は、かつてここに落ちた澪自身――つまり、明治の彼女なのだろうか。骨の形や笑い方の癖までも、鏡越しのように一致している。拒絶の言葉を絞り出そうとした瞬間、老女が袖をつまんだ。その手の温度は、生身ではあり得ないほど冷たい。「ほら、迎えに来ただろう?」と老女は囁いた。少女の潰れた片目が、ぴくりと小さく震えた。その涙腺から、黒いしずくが一滴だけこぼれ、石畳に落ちて消えた。澪は一歩後ずさろうとしたが、足は意志と無関係に前へ出た。石畳の下から、脈打つような低い鼓動が、彼女の足首を絡め取ってくる。まるで“戻ってきた記憶”が、体の奥でゆっくり目を覚まし始めたように。
少女は手を差し出したまま、首だけを傾げた。
「怖がらないで。私だよ、澪」
名前を呼ばれた瞬間、澪の頭の奥で何かが弾けた。
――雪の降る夜だった。母はまだ若く、父はまだ生きていた。家族三人で小浅間へ初詣に出かけた。神社の裏手で、澪はふと小さな穴を見つけた。雪が降り積もって塞がれていたが、下から温かい風が吹き上がってくる。好奇心に負けて、雪を掻き分けた。穴は思ったより深く、底が見えない。
「見ないで」
母が叫んだ。でも遅かった。
澪は滑り落ちた。
落ちながら、彼女は必死に手を伸ばした。母の着物の裾に、指先がかすった。布が裂ける音がした。母の悲鳴が、遠ざかっていった。
そして、底に着いたとき、彼女はもう一人だった。
記憶はそこで途切れていた。ずっと、夢だと思っていた。現実感のない悪夢として。
「思い出した?」
少女が微笑む。今度は潰れた目の方まで開いて、黒い瞳孔が澪を捉えた。
「私……落ちたんだ」
声が震えた。自分でも驚くほど静かな声だった。
老女が頷いた。
「落ちた子は、みんなここにいる。時間はここじゃ意味をなさない。明治も平成も、全部同じ夜だ」
少女が一歩近づいた。差し出した手が、澪の頬に触れる。冷たくて、でもどこか懐かしい。
「ずっと待ってた。お姉ちゃんが帰ってくるの」
澪は自分の手が、勝手に動くのを感じた。少女の手を握り返していた。指が絡まる。少女の小さな指は、骨が浮き出るほど細い。
その瞬間、背後で石畳が鳴った。
振り返ると、廊下の奥、闇の中から別の子どもたちが現れた。十人、二十人。みんな着物を着て、みんな片目が潰れている。年齢はバラバラだが、顔はどこか似ている。澪に似ている。
子どもたちは無言で輪を作り始めた。澪と少女を中心に。
老女が静かに言った。
「さあ、順番だよ。次はお前が迎えに行く番」
澪は息を呑んだ。
「迎えに……行く?」
「そう。外の世界から、新しい子を連れてくるの。お前みたいに、好奇心に負けた子をね」
少女が微笑んだ。潰れた目が、黒い涙で濡れている。
「私も昔、お姉ちゃんを待ってた。今度はお姉ちゃんが待つ番だよ」
子どもたちの輪が、少しずつ狭まっていく。
澪の足元で、石畳が波打った。まるで巨大な心臓が、下で鼓動しているように。
澪は気づいた。
自分が、もう逃げられないことを。
そして、逃げたくないことも。
彼女はゆっくりと膝をついた。少女と目線を合わせる。
「……わかった」
少女の顔がぱっと明るくなった。
澪は立ち上がり、子どもたちの輪の外へ歩き出した。老女が後ろから呟く。
「お前が選ぶ子は、きっといい子だ。明治の時と同じように」
澪は振り返らずに答えた。
「うん。私が好きになった子を、連れてくる」
廊下の奥に、新しいロープが垂れていた。今度は上へ、地上へと続くロープだ。
澪はそれに手をかけた。
振り返ると、少女が小さく手を振っている。
「行ってらっしゃい、お姉ちゃん」
澪は微笑んだ。
「すぐ戻るよ」
ロープが軋む。
彼女は登っていく。
十二月の冷たい風が、再び頬を撫でた。
火口の縁には、雪が降り始めていた。
澪が火口の縁に身体を引き上げた瞬間、風が止んだ。世界が、一拍遅れたように静まり返る。降りしきる雪の音だけがやけに大きく響く。息を整えて立ち上がると、見慣れたはずの浅間山の北麓が、どこかわずかに歪んで見えた。色彩が薄く、空気が重く、木々の影が一瞬だけ逆向きに揺れる。澪はゆっくりとロープを見下ろした。さっきまで握っていたはずの繊維が、今は新しい麻縄に変わっている。その先は、もう火口の闇にはつながっていなかった。ただの風穴のように、どこまでも黒い。
そのとき、背後で雪を踏む音がした。振り返ると、下山道の方から人影がひとつ近づいてくる。ヘッドランプの光が揺れ、澪の名を呼ぶ声がした。聞き慣れた声だった。大学の研究室の同期、真柴だった。
「こんなところで何してるんだよ。捜したんだぞ」
真柴は息を弾ませながら笑った。だが澪には、彼の片目が雪明かりの中で少しだけ黒く濁って見えた。ほんの一瞬、ほんの錯覚のように。
澪は微笑んだ。頬に触れた雪は、さっきの少女の指よりもずっと温かかった。
「……ねえ、真柴。少しだけ、下を覗いてみない?」
真柴は眉をひそめた。
「下?この火口か?冗談だろ。危ないって」
「うん、危ないよ」
澪は静かに頷いた。
「でも、すごく綺麗なんだ」
澪の声には抗いがたい響きがあった。まるで昔から知っている誰かの声で、甘く、懐かしく、拒めない。
彼はためらいながらも、火口の縁に近づいた。ヘッドランプの光が闇を裂く。
「深いな……底が見えない」
「うん。すごく深いよ」
澪は真柴の横に並び、肩が触れた。真柴は少し驚いたように彼女を見た。いつもは冷静で距離を取る澪が、こんなに近くに寄ってくるなんて。
「なあ、佐藤……なんか今日、変だぞ。お前」
「変?」
澪は首を傾げて微笑んだ。その瞬間、真柴の視界の端で、雪が逆さに舞い上がったような気がした。
「ほら、もう少しだけ顔を近づけて」
澪の手が、真柴の背中をそっと押す。優しく、でも確実に。
真柴の体が傾く。
「ちょ、待てって……!」
真柴は慌てて手をついた。縁の岩が冷たい。ヘッドランプが火口の奥を照らす。そこに、何もなかった。ただの黒い穴。
でも、次の瞬間、穴の奥から無数の小さな手が伸びてきた。
白い、細い、子どもの手。
真柴は悲鳴を上げた。体が浮く。重力が逆転する。
「佐藤!おい、佐――」
声は途中で途切れた。
澪は静かに彼を見下ろしていた。表情は穏やかで、まるで子守唄を歌う母親のようだった。
真柴の体が、闇に吸い込まれていく。
最後に見えたのは、澪の片目が、雪明かりの中で真っ黒に濁ったことだった。
風が再び吹き始めた。
雪は激しくなり、足跡をすぐに消していく。
澪はロープを解き、リュックを背負い直した。
下山道を歩きながら、スマートフォンを取り出す。電波は一本、かろうじて入る。
研究室のグループLINEに、短いメッセージを打った。
『真柴くん、急に具合が悪くなったみたい。迎えに来てくれる? 小浅間の近くにいる』
送信。
すぐに既読がついた。
誰かが返信してきた。
『今すぐ行く!どこ?』
澪は画面を見て、くすりと笑った。
雪が頬を打つ。
温かい。澪はスマートフォンの画面を閉じ、そっとポケットにしまった。風が静まり、森の輪郭が濃く浮かび上がる。雪明かりが道を白く照らし、遠くで車のエンジン音が微かに響いた。研究室の仲間が、もうすぐそこまで来ている。澪はふと立ち止まり、背後の闇を振り返った。火口は雪に沈みつつあり、その奥で、子どもたちの細い手が幾本も、まるで「まだか」と催促するように蠢いて見えた。澪の片目が、ゆっくりと闇の色を帯びる。視界の中で、世界の色がひっくり返ったように揺らぐ。やがて彼女はふっと息をつき、笑った。静かな、温かい笑みだった。
「大丈夫。すぐに、連れてくるから」
道の向こうで、ヘッドライトが雪煙を切り裂いた。車が急停止し、ドアが勢いよく開く足音が近づく。澪は両手を広げるようにして、ゆっくりと歩き出した。雪は彼女の足跡を消しながら降り続き、その白さはどこか、無数の小さな手と同じ色をしていた。
車から飛び出してきたのは、助教の北村だった。
三十代半ば、いつも白衣のポケットにペンを何本も突っ込んでいる、研究室で一番の常識人だ。彼は雪の中を走りながら叫んだ。
「佐藤!真柴はどこだ!?」
澪は立ち止まり、首だけをゆっくり振った。
「落ちちゃった」
北村は息を呑んだ。顔から血の気が引く。
「落ちたって……まさか、あの穴に?」
「うん。小浅間」
北村は一瞬、言葉を失った。すぐに懐中電灯を手に火口の方へ駆け出そうとする。
「待ってください!危険です!」
澪は静かに言った。その声は、まるで北村の母が諭すように落ち着いていた。
北村は足を止めた。なぜか、言い返せない。
「大丈夫。私が連れてくから」
北村は初めて、澪の顔をまじまじと見た。
雪明かりに浮かぶその横顔は、確かに佐藤澪だった。でも、どこかが違う。輪郭が少し幼く、頬の線が柔らかく、唇の端に幼い頃の癖の笑みが残っている。
そして、片目が。
完全に闇に染まっていた。光を反射しない、底なしの黒。
北村は後ずさった。
「……お前、誰だ」
澪は答えない。ただ、ゆっくりと近づいてくる。
雪が降る音だけが、二人を包む。
北村は背後で車のドアが開いているのに気づいた。運転席から、もう一人、誰かが降りてくる。
助手席のドアも開いた。
後部座席も。
四人、五人……研究室のメンバー全員が、雪の中を無言で歩いてくる。
誰も口を開かない。誰も表情を動かさない。
ただ、片目だけが、真っ黒に濁っている。
北村は震える手でスマートフォンを取り出した。110番を押そうとする。
でも、電波はもう、どこにも届かない。
澪がすぐ目の前まで来た。手を差し出す。
「行こう、北村先生。みんな、待ってるよ」
その瞬間、北村の視界がひっくり返った。
雪の上に立っているはずなのに、足元は石畳。
背後には、長い廊下。
そして、無数の子どもたちが輪を作って待っている。
澪は北村の手を引いて、ゆっくりと歩き出す。
「みんな、待ってるんです」
雪は降り続いていた。
小浅間の縁は、もう誰の足跡も残っていない。
ただ、新しい麻縄が一本、静かに揺れているだけだった。
遠くで、朝の光が差し始めた。
でも、その光は、火口の底までは届かない。




