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第一話 転生しても無能でした

抹茶iceと申します。なろう系始めました

気軽に読んでいただければ幸いです


「ったく、本当に使えねえなお前! この無能が!」


 四十代、独身。住宅設備関係勤務。特にこれといった特技も趣味もない、ただの中年会社員。

 自分を毛嫌いしている上司からいつものように、いつもの言葉を浴びせられている。

 それが今の自分を形作る全てだった。


 いきなりこんな罵声を浴びせられたのは、千二百項目ほどある管理物品の入力データの数字が、全てズレてしまっているのが発覚したからだ。しかも社用ネットワーク内の管理データだったおかげで、器用な編集機能といったものは一切なく、一項目ずつ全部の数字を手打ちで直さなくてはならない。つまり、とても地味で面倒な作業が山のように積み上がってしまったのだ。


「いいか、今日中にデータを全部修正して使えるようにしとけ! 死んでも明日の棚卸に間に合わせろよ!」


 分厚く重いファイルをこっちに投げ付け、吐き捨てるように言いながら上司はさっさと帰ってしまう。

 高校、大学時代にラグビーで鍛えた体格と押しの強さで、幹部までのし上がってきた人物だ。彼の口調はいつも高圧的で、部下の手柄は自分のもの、自分のミスは部下の責任という具合である。組織の中で上手く出世していくには、こういう強引さや狡猾さも必要なのであろう。真似したくは無かったが。


(データの入力間違えてたのはあんたでしょうが……)


 こうやって彼の尻拭いをさせられるのも、毎度の事だった。

 そしてそれに言い返す気力も度胸も、すでに自分には残っていなかった。

 最初は仕事を覚えることに必死で、慣れてきたら新しい仕事を次々に回され、気付けば手に余る量の仕事に追われる日々。毎日くたくたに疲れ、なにか新しいことを始める気力もなく、ただ自宅と職場を行き来して一日が終わる。そんな生活を続けているうちに、気付けば社会に出て二十年も過ぎてしまっていた。


(俺だっていつかは……こんな会社辞めて一人で……)


 いつものように同じことを思い、同じ所で考えるのをやめる。

 誰もいないオフィスの中、一人だけパソコンに向かって数字のずれたデータを打ち直す作業。

 単純で退屈で、それでいて目も頭も疲れる作業を、ただ黙って黙々と続けること数時間。

 データの最終確認を終えた頃には、窓ガラスの外に見える街の灯りさえ少なくなっている。このままデスクに突っ伏して朝を迎えようかとも思ったが、せめて一時間でも職場から切り離されたい、自分だけの空間に戻りたい。そんな思いで立ち上がると、死人のような足取りで彼は職場を後にした。


 時間はすでに終電ギリギリである。道を歩く人の姿もまばらで、自分の歩く音がやけに耳に付く。昼間は掛け持ちした現場へ足を運んでは次の現場へ行き、オフィスに戻れば地味なデータ修正作業の山。すでに身体も頭も疲労でフラフラ、まっすぐ歩いているつもりが電柱にぶつかりそうになったりを何度も繰り返しながら、駅の手前の歩道橋に辿り着く。ここを乗り越えれば駅は目の前だが、足に力が入りきらず、なかなか登れない。一歩ずつ、一歩ずつ、溜息を吐くように重い身体を持ち上げながら階段を上っていく。やっとの思いで上まで登り切った所で、またフラフラと歩き始めたが、それと同時に口から言葉がこぼれた。


「あぁ……いつからこうなったんだろうな……こんなに働いても、毎日無能呼ばわりされて……くそっ」


 その言葉がいつも脳裏に引っ掛かる。毎日をやり過ごすのに必死で、他人に自慢できるような特技も、他人を楽しませるような話術も、時間を忘れて没頭するような趣味もない人間。ならば本当の自分とは一体なんなのか。なんのために生きて存在しているのか。そんな考えが膨らんで弾けそうになる。


「今に見てろよ……! お、俺だって……俺だってなあ……っ!!」


 誰に言うでもなく、思わずそう叫んだ瞬間だった。足元の手ごたえが無くなり、身体がガクンと落ちる。いつの間にか辿り着いていた下り階段を踏み外し、バランスを崩した後は頭から宙を舞っていた。何かを考える暇もなく、頭や背中、手足に硬いものがぶつかり、抗いようもない衝撃が全身を駆け巡る。もはや思考すらできない肉の塊は二度と動くこともなく、静かに血が流れ出ていくだけだった。


 それを目撃していた者は誰もいない。沈黙の中でコンクリートの上に横たわる身体は、音もなく光の粒となって消え去ってしまった。





「……」


 冷たくて硬い感触が頬に伝わってくる。肌触りはつるつるしていて、よく磨かれているようだ。やがて周囲からコツコツと、誰かの足音がいくつも現れ近付いてきた。


「目覚められよ、転生者どの」


 威厳のある、低い声だった。声はよく通り、ホールのような響きまで加わっている。そんなことを思っていると手足の感覚が戻り、瞼もゆっくりと開き始めた。少しぼやける視界で周囲を見渡し顔を上げると、目の前には王様がいた。


「……え?」


 貫録を感じさせる四、五十代くらいの顔つきに、映画やアニメで見るような黄金の冠を被り、真っ白で立派な髭をたくわえ、宝石をあしらった赤いマントを羽織った、どこからどう見ても王様としか言えない姿の男が目の前にいた。


「王宮の魔術師が予兆を感じ取ったのだ。久方ぶりに我が城で転生者が現れるとな」


 じっと自分を見下ろしながらも、王様は確かな口調でそう告げる。意味の分からない単語もそうだが、それ以前に彼の格好が気になって仕方がない。


「あ……え? だ、誰? これ、なにかのイベント?」


 いつの間に自分はコスプレかアニメ番組のイベント会場に来たのだろうか。そんな風に首を傾げていると、王様はさらに続けた。


「わしはこの国、ストームサングの王ダレルと申す。転生者どの、名はなんというのだ?」

「え、えっと……ヒロシ……ですが」


 いつまでも床に這いつくばってもいられず、彼は身体を起こしてその場に座り込む。妙に疲れていて、足に力が入らない。


「ヒロシどのか。さっそくではあるが、そなたの『能力』を見極める儀式を執り行わせてもらう」

「の、能力? あのー、これは一体……なにかの番組?」

「転生したばかりで混乱していると思うが、じきに慣れる。そのままじっとしているがよい」


 ダレルと名乗った王様が右手を上げて合図をすると、近くにいたいかにも魔法使いといった風体の、フードを目深に被った人物が目の前に近付き、ヒロシの目の前に手をかざして呪文を唱え始めた。やがてその手がぼんやり光り始めたかと思うと、光はヒロシの身体に移り、頭のてっぺんからつま先まで波のように移動しては消えていくという動きを繰り返した。しばらくして魔法使いは困惑したような声を上げ、近くにいた王様になにかを耳打ちした。


「な……なんだと! それは本当なのか!?」


 ダレル王は驚きの表情を浮かべたまま、しばらく言葉に詰まった様子であったが、やがて眉間に皺を寄せて口を開いた。


「にわかには信じがたいが……転生者どの、そなたには『能力』が無いらしい」

「……え? あの、さっきからその『能力』って一体なんなんです? というか家に帰りたいんですけど」

「残念ながら、それは叶わぬ。しかし転生者が『無能』などと……本当にそんなことがあり得るのか……」


 チクリと刺さる言葉を耳にして、ヒロシは思わず声が出てしまう。


「ちょっと、初対面の相手に失礼でしょう。大体さっきから意味の分からないことばかり……からかわないでくださいよ」


 そういったヒロシに対し、ダレル王は厳しい目つきに変わり言った。


「転生者とは、遥かな彼の地よりこの世界に召喚されし特別な人間のことだ。そして転生者はいずれも『能力』を天より授かり、我らが持ち得ぬ偉大な力をその身に備えておる。目の前の例外を除いてな」

「……えっ」

「転生者はその偉大な『能力』を世のため人のために振るい、この世に平和と安寧をもたらす存在……そのはずであった。だが、そなたには天より与えられしはずの『能力』が無いのだ!」

「は……え?」

「此度も転生者どのは我らの力となってくれると期待していたものを……国民になんと説明すればよいのか、ええい」

「いや、そんなこと言われても……とにかく家に帰らせてもらえます?」


 噛み合わない会話に少し疲れたヒロシが立ち上がると、ダレル王の両脇に立っていた鎧姿の二人組が、手にした槍の先端を突き付けてきた。


「うわっ!?」

「残念だが……ここはそなたの知っている世界ではない。家に帰りたいという望みは諦めるのだな」

「ちょ、ちょっと……目が怖いんだけど本気ですか?」

「前代未聞の出来事だが、致し方あるまい……ストームサング王の名において、転生者ヒロシは『無能』であると判断した! 『能力』なき転生者を人目に晒し、国民を落胆させることまかりならん。兵よ、この者を捕らえ牢へ!」

「う、嘘だろ……ちょっと待っ――!?」


 両脇の兵士たちは「はっ!」と声を揃え、ヒロシを捕まえ縛り上げてしまう。そしてヒロシは自分の置かれた状況が一切分からないまま、薄暗い牢屋の中へと連れて行かれてしまった。


 鉄格子に隔てられた牢屋の中は暗く、かび臭く湿った空気が澱んで喉や鼻を刺激する。牢屋の中には大きめの壺がひとつと、床に無造作に敷かれた布切れがあるばかりで、明り取りの窓すらない。ヒロシは何度も外に出してくれと頼んだが、その度に槍の石突きで小突かれ、騒ぎ立てれば舌を切り落とすとまで言われてしまった。


「うう……なんだってこんな事に……というか、そもそもここはどこなんだ? 転生者だの能力だの、わからない事だらけじゃないか。ゲームやアニメの世界じゃあるまいし……」


 暗い牢の中で一人考えて見ても、さっぱり状況が理解できない。不安や疑問をぶつける相手もいないまま、ただ時間だけが過ぎていく。気が付くとヒロシは、気休め程度に置かれた布の上で眠りこけていた。奇妙な出来事が起こる前は、身も心もくたびれるまで残業をしていたのだから、その疲れが一気に出てきたのだ。そうして夜が明けるまで、ヒロシは眠った。



「起きろ! 王の命である、外に出ろ!」


 耳鳴りがするような大声で看守の兵隊が叫ぶ。くすんだ鉄兜と鉄の鎧を身に纏った、これまたいかにもファンタジー世界の兵隊という姿である。ヒロシが両耳を抑えて起き上がると、がちゃりと鍵が外される音がして鉄格子が開く。奥からは同じ格好をした別の兵隊二人がやってきて、ヒロシの前後に立って付いてくるように言った。もちろんヒロシの両手には枷がはめられ、縄で繋がれたままだった。石造りの階段を上って質素な雰囲気の廊下を歩き、ヒロシは屋外にある大きな門の前に立たされた。門の両側には見上げるほどの大きな壁がどこまでも続いており、終わりが見えない程に続いている。ヒロシがきょろきょろしていると、いつの間にか先日見たダレル王が姿を現していた。


「来たか、無能の者よ」

「だからその言い方……ともかく、俺を自由にしてくださいよ。なんの権利があってこんなことするんだ」

「昨日はわしも戸惑いがあった、そのことは認めよう。ゆえにひとつ確かめさせてもらうぞ」

「あの、俺の話聞いてます?」

「万に一つの間違いだったという可能性もある。転生者であれば、実戦でこそ『能力』を開花させることもあろう」

「いやだから、なにを言って……実戦?」


 門の前には荷馬車があり、ヒロシは数人の兵士と共に荷車に乗せられた。荷車にはリンゴやニンジン、その他の野菜の入った樽や、穀物が詰められていると思われる袋などもいくつか一緒に置いてあった。やがて門が開くと馬車が動き出し、ヒロシはガタガタと揺られながら門の外へと出た。


「……!?」


 眼前に広がる景色に、ヒロシは言葉を失った。どこまでも続く草原と、遥か彼方に見える巨大な山脈。まばらに見える森は鮮やかな緑に染まり、見慣れた灰色のビルやコンクリートの地面は、どこにも見当たらなかった。


「な、なんだこの景色……こ、ここは一体どこなんだ!?」


 空は青く、空気は澄んでいてどこまでも自然は豊かである。だが、それはヒロシが知っている景色とは、あまりにもかけ離れた別世界そのものであった。


「別の世界……異世界……バカな……本当に俺は異世界に……?」


 そんなものは時々目にした漫画やアニメの世界の話であって、実在するわけがない。そんな考えがまさに今、根底から崩れようとしていた。そしてその後押しをする出来事は、すぐそこまでやってきていた。


「そろそろだな。枷を外してやるが、命が惜しければいきなり逃げ出すんじゃないぞ」


 馬車が小さな森の中へと差し掛かった時、兵士の一人がヒロシの両手に嵌められた枷を外してくれた。急にどうしたのだろうと思っていると、不意に森の茂みがガサガサと音を立てざわつき始めた。


「来たぞ! 全員配置に付け! 陣形を崩すなよ!」


 兵士たちは荷馬車から飛び出し、素早く武器を構え荷馬車を背中側に囲むようにして立つ。ヒロシも馬車から外に引っ張り出され、一本の剣を投げ渡された。見た瞬間は玩具かと思ったが、鉄製のそれはずしりと重く、玩具や小道具ではない事を物語っている。


「いいか、死にたくなければ持ち場を離れるなよ! 勝てぬ相手ではないが、奴らは数が多い!」

「ちょ、ちょっと、さっきからなにを言って……」


 状況がさっぱり分からないヒロシが尋ねようとしたその瞬間、茂みから影が飛び出してきた。


「ゲケーッ!」


 奇怪な叫び声と共に姿を見せたそれは、子供くらいの背丈に粗末な衣服、緑色の肌、尖った鼻に不潔な牙、そして黄色い目をぎらつかせてナイフを手にした怪物『ゴブリン』であった。最初の一匹が姿を見せたのを皮切りに、次々に周囲の茂みから姿を見せたゴブリンたちは、ざっと見ただけでも十五匹かニ十匹くらいも居た。


「あんた、転生者サマなんだってな。それなら授かった『能力』とやらで、こいつらをパパっと片付けちまってくれよ!」


 兵士の一人はそういいながら、槍の先端を振るって近付こうとするゴブリンたちを牽制する。ゴブリンたちも武装した兵士たちに正面から挑むのは腰が引けるのか、間合いを保ったままなかなか近付こうとはしない。


「う、嘘だろ……? ゴブリンなんて、こんなの完全にゲームかなにかの世界じゃないか。よく出来た作り物とかじゃないのか……?」


 未だに目の前の状況が信じられず呆然とするヒロシの姿は隙だらけで、それをゴブリンたちが見逃すはずもなかった。ろくに構えも取っていないヒロシに向かって、一匹のゴブリンが飛びかかった。



「ギシャーッ!」

「ひっ……!?」


 なにもできず呆然と立ち尽くすヒロシに向かい、ナイフの刃が迫る。だがナイフがヒロシを切りつけるより先に、隣にいた兵士の槍がゴブリンの胴を貫くのが先であった。兵士は絶命して地に落ちたゴブリンの死体を蹴ってどかしながら叫ぶ。


「おい、ボーっとしてるんじゃない! 戦わなければ死ぬんだぞ!」


 だが、目の前の出来事に理解が追いつかないヒロシには、その言葉も虚しく吹き抜けるだけであった。目を見開いたままその場から動けない、動こうとしないヒロシの死角から、また別のゴブリンが迫っていた。


「ギギイッ!!」


 不意を突いたゴブリンは長い爪の伸びた足で地面を蹴り、ヒロシに飛びかかる。気付いた時にはすでに遅く、反射的に突き出した右腕にはゴブリンの牙が深々と食い込んでいた。


「うわああああっ!?」


 腕に走る激痛にヒロシは剣を落とし、そして無様な悲鳴を上げた。ゴブリンは小さいながらも噛みつく力が強く、スーツの袖はみるみる出血して真っ赤に染まっていく。


「あああ痛いッ! いたい痛い痛いッ!!」


 肉を裂く激しい痛みに、ヒロシはすっかりパニックに陥ってしまった。ゴブリンの頭や顔を押しのけようとしても、食い込んだ牙から伝わる痛みが余計に増すばかりである。苦痛に顔を歪め、ヒロシは叫ぶ。


「嫌だッ! 助けてくれッ! 痛い痛いッ! いやだあああああっ!」


 痛みと恐怖に悲鳴を上げ、涙と鼻水を垂らしながら、ヒロシは足をもつれさせて荷馬車の中へ転がり込んだ。まだ外にいれば他の兵士に助けてもらうことも出来ただろうが、完全に裏目に出る行動であった。ゴブリンは腕に噛みついたまま馬乗りになり、曲がった爪の生えた腕で暴れるヒロシの顔や頭を引っ搔き始め、すぐに傷から血が滲み出してきた。


「わああああああっ!? ぎゃあああああっ!」


 情けない悲鳴しか出てこないヒロシは夢中で手足をじたばたさせてもがくが、ゴブリンは離れない。暴れた拍子に野菜の樽が横倒しになり、辺りにジャガイモやニンジンなどが散乱する。自分の命を脅かす相手とやり合った経験など無いヒロシにとって、もうなにが起きているのかすら考える余裕は無かった。そして、たまたま左手に触れたレモンを握り、ゴブリンの顔に押し当てた。力を込めすぎて潰れたレモンの汁がゴブリンの目に入ると、ギャッと悲鳴を上げてゴブリンの嚙む力が弱まった。その隙に腕を引き抜いたヒロシは、また噛まれたくない一心で、無意識に掴んだ野菜をそのままゴブリンの口に押し込んだ。


「……ギイッ!? グギャギャギャーッ!?」


 それは房のままのニンニクだったが、口に物が入って反射的にそれを噛んだゴブリンは、突然口元を抑えて悶え始めた。ヒロシは馬車の中に転がっていた木の棒を左手で拾い、ゴブリンの頭をめがけて力の限り打ち付けた。


「来るなっ! 来るなっ! 向こうへ行けっ! うわああああああっ!!」


 何度も頭を殴られたゴブリンはさすがに戦意を失ったのか、悲鳴を上げて馬車から飛び出していってしまった。


「ひいっ、ひいっ、はあっ、はあっ……嫌だ、いやだぁ……痛いっ、死にたくないっ……! うううっ……!」


 恐怖でパニックに陥り、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしたヒロシはうわごとのように呟いて馬車の隅にうずくまったが、腕から溢れる血ばかりでなく、股間も彼の漏らしたものでびしょびしょに濡れてしまっていた。




 ヒロシが再び意識を取り戻した時、そこはまた牢の中だった。右腕がずっと痛み、全身が鉛のように重く、頭がぼんやりとして気分がとても悪かった。ヒロシは噛まれた傷が元で高熱を出し、三日ほど寝込んで立ち上がることすら出来なかった。朦朧とする意識の中、冷たく硬い床に横たわる自分の傍に、時々誰かが来ているのをヒロシは感じていた。


「う……うう……んっ」


 三日目の朝、小さく呻きながらヒロシは目を覚ました。全身が鉛のように重く、頭も痛い。それでも身を起こそうと力を入れた瞬間、右腕から耐えがたい痛みが走った。


「うぐっ……!?」


 表情を歪めながら自分の腕を見ると、決して質が良いとは言えない包帯が巻かれ、内側から滲んだ血が固まって赤黒くなっていた。腕は熱を持って思うようには動かせず、指先の感覚もない。自分の身体も着ていたはずのよれたスーツではなく、肌触りの良くない粗末な布の服に着替えさせられていた。


「夢じゃあ……ないのか……夢じゃ……くっ……」


 ゆっくりと、自分の身に起きたことを思い出して戦慄するヒロシだったが、ふと鉄格子の方から、かちゃりと鍵の開く音がした。顔を上げて音のした方を見ると、兵士が開けた鉄格子の向こうから、いくつかの物を乗せたトレイを持った少女が中に入ってきた。ヒロシと似た粗末な生地の衣服を身に付け、年齢は十四、十五歳くらいの若い娘だった。お世辞にも整った身なりとは呼べない彼女だったが、目を引いたのは瞳と髪の毛の色が、木の葉を思わせるような深い緑色をしている事だった。


「あ、目が覚めたんですね。あの……替えの包帯と、お薬を持ってきました」


 少女の声は透き通るように綺麗だった。彼女はそっとヒロシの傍に膝をつくと、慣れた手つきで汚れた包帯を外していく。時々固まった血が引っかかって剝がすときに痛んだが、さほど苦も無く包帯は全て外すことができた。自分の右腕に目を落としたヒロシは、噛まれた跡が膿んでぐちゃぐちゃになり、それを雑に糸で縫い合わせた光景が目に飛び込んできて、思わず顔をしかめる。少女は嫌な顔もせず、膿で汚れた傷口をガーゼで拭き、瓶に入っていた薬品らしい液体を塗ると、また慣れた手つきで包帯を巻いてくれた。


「……き、君は?」


 ヒロシが尋ねると、少女は目を見開いて小さく身体を震わせた。急に話しかけて驚かせてしまったのかもしれない。


「あの、わ、私は……傷の手当てをしろって言われただけ……だから……」


 少女はいそいそと古い包帯や使い終えた道具をトレイに乗せて片付け、小さな皿に乗ったパンと水の入ったグラスを置いて、牢屋から出て行ってしまった。彼女の後姿をただ眺めていると、背後の暗がりから突然声がした。


「ケケケ、やっと目が覚めたと思ったら小娘のケツを眺めてるなんざぁ、アンタなかなかのスケベだなあ」

「うわっ! だ、誰だ!?」


 目を凝らして声がした方をよく見ると、壁に寄り掛かった格好の何者かの姿があった。だが、その姿を見てヒロシはまたも息を呑む。二本ずつの手足と身体つきは人間と変わらなかったが、その頭部は大きなネズミのそれだったのだ。本物のネズミよりは人に似たような顔つきではあるものの、まさにネズミとしか言いようのない顔である。


「ネ、ネズミ……人の形をしたネズミが喋って……!」

「あん? なんだオメェ、失礼な奴だな。ラット人なんざ別に珍しくもねえだろ」

「いや珍しくないって、そんな馬鹿な……それ、作り物とかじゃないのか?」

「……なるほど、転生者ってのは人間しかいない世界から来たって聞くが、噂は本当らしいな」


 ネズミ顔の男は呆れたように言い、壁にもたれかかったまま続ける。


「こっちの世界じゃ、俺みたいな亜人は別に珍しくもねえんだ。ま、俺は海より心が広いから許してやるけどよぉ、他の連中に今みたいな口の利き方するんじゃねえぞ。短気な奴も多いからな」

「う……わ、悪かったよ。ところで、君の名前は?」

「へっ、よくぞ聞いてくれました。俺様はラット人のガンバってんだ。一族の英雄様にあやかって付けられた名前なんだぞ」

「そ、そうなのか……俺はヒロシ。ここがどこなのか、なにが起きたのかさっぱり分からなくて……知ってることがあれば教えてくれ、頼む」


 ガンバと名乗るラット人――とかいうネズミ男は、半目でヒロシをジロジロと眺めてから再び口を開く。


「俺だって別に詳しいわけじゃねえが、あらかたの話はもう聞いてんだろ。アンタは転生者で、この世界に呼ばれたってよ」

「だから、そこがもう意味不明なんだよ! そもそも転生者ってなんなんだ一体」

「……言葉通りさ。アッチの世界で死んだヤツが、どういうわけかコッチの世界で生まれ変わるんだとよ。特別な『能力』とやらを授かってな」

「死んで……生まれ変わる……? そ、そうだ、確か俺は残業が終わって家に帰ろうとして、それで歩道橋から……ぐっ!?」


 あの日、自分の身に起きた出来事を思い出そうとしたヒロシは、突然頭に刺すような痛みを感じて呻く。思い出そうとすればするほど痛みが強くなるため、ひとまず記憶を辿るのは諦めるしかなかった。


「だがアンタ、どうやら転生者としては相当な変わり種らしいなあ。いや、落ちこぼれの方が正しいか? なんでも『能力』を持たない無能らしいじゃないか」

「ぐっ、また無能って……! おいっ、ちくちく言葉は人の心を抉るんだぞ! もっとオブラートに包んで優しい言葉で言えッ!」

「言い方なんざどれも一緒だろーがよー。聞いた話じゃお前さん、その傷はゴブリンにやられたんだってな」

「……!?」


 ゴブリンという言葉に、今まで忘れていたあの恐怖が脳裏に蘇る。


「腕を噛まれてみっともなくわめき散らして、しまいにゃ小便まで漏らして気絶してたって聞いたぜ。ぷっ、くくく……!」

「うぐ……っ!」


 ガンバは笑いをこらえ、ヒロシはかあっと熱くなった顔と感情の行き場が分からず、ただ震えるしか出来なかった。


「ま、逆に清々しいじゃねえか。いきなりもう落ちるとこまで落ちたんだ。これ以上失うモンもねえし、少しは気も楽になるだろ」

「それ、励ましてるつもりなのか……?」

「へへ、俺っていい奴だろ」

「……」


 悪びれもせずに答えるガンバに呆れるヒロシだったが、ふと気が付いて尋ねる。


「そういえばガンバ……だっけ。あんたはなんでここに居るんだ?」


 ヒロシが言うとおり、この場所は牢屋の中である。ガンバは痛い所を突かれたらしく、視線を泳がせた。


「……ちっ、気づきやがったか。まあなんだ、ちょっとドジ踏んじまってよ、へへへ」

「つまり、なにか悪いことをしたんだな?」

「ほんのちょっと食い物やら銭を恵んでもらっただけさ。本物の悪党に比べりゃ可愛いもんだぜ、なあ?」


 これ以上ガンバと会話をしていると頭痛が悪化しそうだと思い、ヒロシは話題を変えることにした。


「ところで、さっきの女の子は……?」

「ああ、アイツは王宮の下女だよ。ケガしたアンタの面倒を見てたんだぜ。汚れた服も着替えさせたりしてな」

「ぐぎっ……!?」


 いきなり致命傷のような話を聞かされ、ヒロシは胸がギリギリと痛む。


「そ、その話はともかく。あの子、髪と目の色が緑色だったような……」

「ああ、あいつは木精(ドリアード)の一族なんだろ。滅多に見かけない連中だが、どうしてこんなところでコキ使われてんのかねぇ」

木精(ドリアード)?」

「ああ、俺ら獣の亜人なんかよりずっと古い歴史のある一族らしいぜ。普通なら生まれ育った土地からまず出ていかないって話だがよ。お前、あんな小娘が好みなのか?」

「いや、別にヘンな意味じゃなくて。ただ気になったというか」

「へっ。まあ飯の時間になったらまた顔出すだろ。そん時に口説いてみるんだな、スケベ」

「おいっ、人聞きの悪いことをいうんじゃないっ!」


 それから数時間が経った頃、ガンバの言う通り緑髪の少女が食事を運んできた。パンとチーズに冷めた野菜のスープと、最低限のようなメニューだったが、それでも腹に食べ物を入れられるだけでずいぶんと気分が違った。食事を受け取る時、ヒロシは彼女に話しかけた。


「ああ、その。傷の手当てをしてくれてありがとう。君は命の恩人だよ」


 急に話しかけられて驚いたのか、少女はまたしてもビクッと身体を跳ねさせ、スッと距離を取る。


「い、いえ……私は言われた通り働いただけなので……」


 真夏の木の葉を思わせるような、深い緑の髪と瞳を持つ少女は、控えめにそう答えた。不審に思われているのか、話慣れていないだけかは分からないが、無理に会話を続けない方が良さそうな雰囲気である。


「よかったら、名前を教えてもらえないかな。嫌なじゃなければ……だけど」


 自分から女性の名前を尋ねるなど、いつ以来だろうか。これまでの人生で同じ問いかけをした女性たちは、大抵が苦笑いを浮かべた顔をしていたことを思い出したので、無理に教えてもらおうとは思っていなかったが。


「メリア……です。私の、名前……」

「メリアかぁ。なんというか、綺麗な響きの名前だ。俺はヒロシ、よろしく」

「あ、は、はいっ」


 地べたに座ったまま名乗ったヒロシを、メリアという少女は珍しいものを見たような顔でじっと見つめていた。


「あ、そうだ。ひとつ聞きたいことがあったんだ」

「なんでしょう?」

「俺が前に着てた服、どうなったか知ってるかい?」


 その言葉を聞いた途端、メリアは視線をそらして居心地悪そうな仕草をし始める。


「あれ、変なこと聞いちゃったかな」

「い、いえ……あの服は血の汚れや破れがひどくてぼろぼろだったので、その……処分してしまいました」

「あっ」


 ふとヒロシはガンバの言葉を思い出して硬直する。彼によれば、衣服を着替えさせてくれたのも彼女だったはずだ。


「あの、すみません。もしかして大事な服だったのでしょうか。だとしたら私、なんて謝ればいいのか……」


 見る見るうちに悲壮な顔つきになっていくメリアに、ヒロシは慌てて両手を振る仕草を見せる。


「いや別に怒ったりはしてないよ、ホントホント! ちょっと気になっただけで、血まみれじゃあ仕方ないな!」


 乾いた笑いを浮かべるヒロシの後ろから、含み笑いをしながらガンバが割り込んできた。


「まみれてたのは血だけじゃねえだろ、なあ大将。ぷっ、くくく」

「おいっ! 余計なことを言うなよッ!」

「いでで! ヒゲを引っ張るなコノヤロウ!」


 目を吊り上げてガンバのひげを左手で引っ張るヒロシと、負けじとヒロシの髪を引っ張るガンバ。そんな二人の様子を見て、メリアの口元がわずかに緩んだ。


「……ふふっ」


 その声に気付いてヒロシが振り返ると、メリアは顔を赤くして目を逸らしてしまった。


「あ、あの、ごめんなさいっ。もう時間なので、失礼します!」


 空になったトレイを胸に抱くようにして、メリアは背を向けて牢屋の外に駆けて行ってしまった。その後ろ姿を見たヒロシは、思わず言葉が口に出ていた。


「メリア! また明日!」


 その声を聞いた彼女は一瞬足を止め、また小走りで去っていく。


「はぁ……」

「小娘相手に熱心だねぇお前も」

「小娘とか、そういう言い方はよせ。あの子だってちゃんとした人間なんだぞ。ああ、種族とかそういう話じゃなくて」

「……へっ、能無しのうえにお人よしとまで来たもんだ。そんなんじゃお前、長生きできねーぞ?」

「うるさいな、大きなお世話だ」


 用意された食事をあっというまに平らげると、ヒロシは地べたに横になった。それ以外に牢の中で出来ることもなかった。


(メリアか……あの子くらいだよな、まともに話が出来そうなのは)


 そんなことを思いながら一時間ほど過ぎた頃、再びヒロシの牢屋に近づく足音があった。硬いブーツの音が複数、カツカツと音を立てて近付いてくる。それはダレル王と警護の兵隊たちであった。


「どうやら生き延びたようだな、転生者ヒロシよ。さすがに悪運程度は持ち合わせていたか」

「……怪我人を牢屋に放り込んだままにするなんて、さすがに扱いが酷いと思いますよこれは」


 皮肉めいた口調に横の兵士が「無礼者!」と声を立てたが、ダレル王がそれを制止して続ける。


「お前たちの処遇が決まったのでな、それを伝えに来たのだ」

「処遇って、俺はなにも悪いことなんかしてないでしょうが」


 ダレル王は厳しい目つきでヒロシをじっと見降ろしたまま、低い声で言った。


「明後日、転生者ヒロシとコソ泥のガンバ、他数名を処刑する。処刑方法はゴブリンの群れをおびき寄せるための生き餌である。ゴブリン討伐の暁には、骨のひとつくらいは拾ってやろうぞ。せめて世の役に立って死ねること、光栄に思うのだな」


 重苦しい空気の中、無慈悲な言葉が牢の中にいつまでも響き続けていた。





「冗談じゃないッ! わけも分からずこんな世界に来て、いきなり処刑だなんて! し、しかもゴブリンの餌だなんて、一度助けておいてこれはあんまりだろ!」


 ヒロシは鉄格子の柵を掴んで喚いたが、その度に見張りの兵隊が棒を持ってきてヒロシを小突いた。それでもしつこく騒ぎ続けてうんざりしたのか、兵隊は姿の見えないところへ引っ込んでしまった。


「うう……嫌だ……こんな所で死にたくない……どうして、どうしてこんな目に遭うんだぁ……」


 気が動転して泣き始めるヒロシとは対照的に、ガンバは相変わらず部屋の隅にいて、冷めた目つきでじっとヒロシの様子を眺めている。


「喚いたり泣き出したり、情緒が忙しい奴だなお前も」

「そういうガンバはなんで落ち着いてるんだよ! 明後日には処刑されるんだぞ!?」

「ここでジタバタしても無駄だからな。こういう時はじっと体力を温存すんのさ」


 命の期限が迫っているというのに、妙に落ち着き払ったこの態度。ヒロシはガンバがなにかを隠していると気付いた。


「もしかして……助かる方法でもあるのか!?」

「シーッ! 声がデカいんだよバカ! 俺はこんなの慣れっこだからよ、自分一人ならやりようは色々あるのさ」

「頼む、俺も一緒に逃がしてくれよ! まだ死にたくないんだ!」

「……そういう正直な部分は、ちょっと親近感を感じちまうなぁ」

「じゃ、じゃあ……!」

「おい、甘ったれんじゃねえぜ。そう都合よくテメェだけ助かる方法があると思ってんのか。やるからには命を懸ける……人生にはよう、そういう博打に全部突っ込まなきゃならねえ時があるんだよ。お前、その覚悟はあんのか?」


 刃物のように鋭く、ドスの利いた声にヒロシは思わず唾を呑み込む。だが、このまま座して死を待つのも絶対に嫌だった。


「頼む、俺に出来ることならなんでもやるよ……だから、この通りだ、お願いします!」


 ヒロシはその場に正座をし、両手と頭を地面に付いて頼み込む。一部の隙も無い、完璧な土下座だった。


「いやまあ、見事な見苦しさだねぇ。俺よりみっともないヤツぁ始めて見たぜ」


 ガンバは心底呆れた風にため息をついてから、ヒゲをぴんと立てて言った。


「だが、死ぬ気でやりゃあチャンスはゼロじゃねえ。生き延びたいんなら、お前も逃げる算段を考えな」

「算段と言っても……相手はゴブリンの群れで、たぶん俺たちは縄で縛られたまま放り出されるんだろ?」

「だろうな。だからその中で打てる手が無いか、足りない知恵を絞って考えるんだよ」

「うぐっ、いちいち言葉にトゲのあるやつだなあ……うーん」


 ヒロシは腕組みをして考えるポーズをしてみるが、いい考えはなにも思い浮かんでこない。分かっているのは「なにもわからない」ということだけだ。


「ダメだ、さっぱり思いつかない。縄を解くにしても道具が必要だろうし、抜け出せてもゴブリンの群れがいるわけで……」

「だな、逃げおおせるならアイツらをどうにかしなきゃなんねえ」

「なあガンバ、ゴブリンの弱点とか知らないのか?」

「知るかよそんなの。俺はモンスター退治の専門じゃないぞ」

「それはこっちだって同じだよ。ああ、どうすりゃいいんだ」


 怪物どころかろくに喧嘩すらしたこともないヒロシに、いきなり怪物の対策は難易度の高い話である。しかし、急いで作戦を考えなければ、このまま処刑を待つばかりである。


(焦るな、落ち着け……少しでも手がかりがないか、思い出すんだ……!)


 ヒロシは声を上げたい気持ちをぐっと抑え、これまでの出来事をひとつずつ並べて考えてみることにした。


「ええと……見えない位置からゴブリンが飛びかかってきて、腕を噛まれた……それでパニックになって、馬車の中に転がり込んで……」


 必死ですっかり忘れていた出来事を、慎重に頭の中で紐解いていく。


「そうだ、レモンの汁が目に入ってゴブリンが怯んで……確か、そう。ニンニクだ。たまたま掴んだニンニクを口に突っ込んだ途端、ゴブリンが急に怯んだんだ」

「へえ、ニンニクねえ……」


 耳を立ててヒロシの呟きを聞いていたガンバが、言葉を挟む。


「ヒロシ、お前ゴブリンのツラを覚えてるか? ギラついた黄色い目に、長く曲がった鼻、それとあの汚らしい牙だ」

「あ、ああ、覚えてるさ。思い出すだけでもぞっとしてくるよ」

「奴らは食い意地が張っててよ、特にあの鼻は人間よりずっと利くんだ。だから遠くからでも、食い物の匂いを嗅ぎ分けて集まってくる。それで荷馬車だのを襲って、食糧を根こそぎ喰い荒らしちまうのさ」

「そうか……だからあの時、俺は馬車に乗せられてたのか」

「んで、ここからが連中のおっかねえ所でな。ゴブリンてのは繁殖力が凄いんだ。一匹見たら三十匹は居ると思え」

「うへえ、まるでゴキブリみたいだなぁ」

「満月の夜になると、栄養が十分なゴブリンは繁殖するんだよ。背中から小さい瘤が五、六個ほど飛び出してきて、そいつが新しいゴブリンになるって話だ。で、ゴブリンはすぐに成長してまた増えていく……な、悪夢みたいだろ?」

「うえぇ……そんなに。というか、どこかで聞いたような増え方だな……」

「馬鹿に出来ないんだぜ、ゴブリンってのは。食料の馬車がいつも狙われるから、あの王様も手を焼いてたんだ。だから転生者サマになんとかして欲しかったんだろうぜ」

「気持ちは分かるけど、そんなこと俺に言われてもな……」

「で、話を戻すけどよ……ニンニクを食わせたらゴブリンは取り乱したんだよな?」

「あ、ああ。変な様子と言えばそれくらいだけど、かなり慌ててたのは確かだ」

「さっき言ったよな、奴らは人間より鼻が利くってよ。てことは、だ……」

「あっ、そうか! 嗅覚が鋭いから、ニンニクの臭いがキツくて嫌がっていたんだ! つまりゴブリンの鼻をどうにかできれば……!」

「ニンニクひとつでその慌てようなら、賭けてみる価値はあるぜ」


 二人は薄暗い牢屋の中で、しばらくヒソヒソと作戦を話し合っていた。それからまた時間が過ぎた翌朝、食事を持ってきたメリアにヒロシはそっと頼みごとをした。


「メリア、ちょっと聞きたいことがあるんだ」

「はい、なんでしょうか?」

「トウガラシって分かるかな。赤くて細長くてこう、曲がった形の実で、とても辛い野菜なんだけど」

「ああ、鷹の爪ですね。それなら市場にも売ってます」

(この世界でも鷹の爪で通じるのか……)


 などと少しだけ感心しつつ、ヒロシは話を続ける。


「それを細かく砕いて粉にしたものを、小分けにした袋に詰めて、できるだけたくさん持ってきて欲しいんだ。頼む!」

「は、はい。それくらいなら……」

「急に変なこと頼んでごめん。でも、これは俺の命がかかってるんだ」

「えっ……!?」

「詳しいことは言えないけど、頼んだよ。なるべく兵隊にも見つからないように」

「わ、わかりました……!」


 メリアは緊張した様子を悟られないよう、普段と変わらない様子に戻って牢を出ていく。それから次に彼女が顔を出すまでの時間は、ひどく不安で長いものに感じられた。昼食の時間になり、メリアが食事を持って牢の中にやってきた。だが見る限り、頼んでおいた小袋のようなものを彼女は持っていなかった。


「メリア……ええと、例のアレは……?」

「は、はい。あの……ちょっと向こうを向いててもらえますか?」

「えっ、なんで?」

「そ、それはその……すみません、お願いしますっ」

「わ、わかったよ」


 メリアの言っている意味がよく分からないまま、ヒロシは言われた通りに背を向ける。メリアは自分の方に視線が向いていないのを確かめると、服の裾をめくりあげ、両の太ももに紐で括り付けていた無数の小袋をほどいて落とす。いくら中身がトウガラシの粉とはいえ、そんなものを目に付くように持ち込めば当然怪しまれる。そこで彼女は自分なりに考え、人目に付かない方法としてこれを選んだのだ。メリアは兵士から見えないように袋を拾い集め、小声で言った。


「あ、あの……もう大丈夫です」


 ヒロシたちが振り返ると、六つの小袋をメリアから手渡された。袋の紐を緩めて中身を確かめると、真っ赤な粉がぎっしり詰まっている。これをうっかり吸い込みでもしたら、普通の人間でさえ悶絶してのたうち回るだろう。


「ありがとう、本当に……! これさえあればなんとかなるかもしれない!」

「私はこれくらいしか出来ませんけど、頑張ってください」

「ああ、恩に着るよ」


 ヒロシはトウガラシの袋を見つめ、再び考え込む。


「さて、次の問題はこれをどうやって隠すかだけど、うーん」


 すると奥で見ていたガンバが口の端を持ち上げて言った。


「あるだろ、ちょうどいい隠し場所が。これ以上ないくらいの」


 そういってガンバは、自分の右腕を左手の指でトントンと叩く仕草をする。ヒロシは包帯の巻かれた自分の右腕を見て、あっと声を出しそうになった。


「なるほど……確かにこれなら怪しまれないで済むかも!」

「怪我をした腕がパンパンに腫れるなんて珍しくもないからな。言い訳も立つだろ」

「ああ、生き延びてやるぞ、絶対に……!」


 こっそりと包帯を解いて小袋を右腕に隠すヒロシは、決意を固めその時を待つ――。




「ちょっと待ってくれ! こんなの聞いてないぞ、話が違う!」


 縄で縛られ森の中ほどに放り出されたヒロシは、思ってもみなかった状況に激しく動揺し焦っていた。自分とガンバがゴブリンの餌にされるのは分かっていたことだが、あろうことかメリアまでが同じように縛られ、放り出されていたからだ。彼女は縛られたままうなだれていたが、その表情は重く、全てを諦めたような絶望が色濃く滲んでいる。ヒロシは何度も身をよじって叫ぶが、周囲の兵士はまるで聞こえていないように、彼らの周囲にゴブリン寄せの食料を撒いている。やがてヒロシの目の前に来た兵士の一人が手を止め、こう言った。


「さっきからうるさい奴だな。お前は王様の言葉をちゃんと聞いてなかったのか? お前と、そこのネズミ野郎、そして他数名を処刑するって言ってただろう」

「ば、馬鹿な……どうしてだ、彼女が罪でも犯したって言うのか!?」

「……残念だが、今はゴブリンどものせいで食糧の確保にも苦労している状況でな。我が国は無駄に人を養ってる余裕はないんだよ」

「無駄……? 無駄だって……? これが、これが……!!」


 ヒロシが声を震わせているうちに準備は進み、兵隊たちはどこかへ引き上げて姿が見えなくなった。ほどなくして周囲の茂みからガサゴソと、覚えのある物音が近付いて来るのが聞こえ始めた。


「ううっ……!」

「落ち着け大将、とにかく今は手筈どおりにやるんだぞ、いいな!」


 隣にいたガンバはそう言うと、ヒロシを縛っていた縄を簡単に噛みちぎってしまう。


「へっ、ラット人の前歯をナメんじゃねーっての。それよりヒロシ、来るぞ!」


 一足先に自由になったヒロシだが、それと同時に茂みから飛び出してきたゴブリンの姿を見た途端、脳裏にあの時の光景がフラッシュバックする。容赦なく自分の命を奪いに来た怪物。おぞましい見た目と、腕に走る激痛。死が目前に迫るあの恐怖が心を黒く塗りつぶし、全身が硬直して足が震え、嫌な汗が噴き出してくる。


「う、ああ……っ!」


 急に喉がカラカラになり、ろくに言葉も出てこない。事前に打ち合わせた作戦も、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。


「おいコラ! なんでボケっと突っ立ってる! 早くしねえか!」


 ガンバは呆然と立ち尽くすヒロシに向かって怒鳴るが、まるで聞こえていない。


(い、嫌だ、もうあんな……!)


 脈拍が乱れ、動悸と眩暈の中で反射的にヒロシの身体が動く。だが、背後から聞こえてきた悲鳴が彼の意識を一気に現実へ引き戻した。


「きゃあっ! こ、来ないで……!」


 顔だけで振り返るとすでに、メリアやガンバにもゴブリンが迫り、次々に茂みの向こうから現れては数を増やしていく。それなのにヒロシの身体は相変わらず思い通りに動かない。


「ううっ……!」


 やっとのことで足が動いたが、すぐにもつれてヒロシはその場に手をついて倒れ込む。大量の汗が浮かぶその顔は、血の気が引いて真っ青になっていた。


(待て、待て……! 今、なにをした……? 俺は今、なにをしようと……!)


 ヒロシはずっと背中を向けていた。悲鳴を上げたメリアにも、縄から抜け出せていないガンバにも。


(ち、違う……振り返ったんじゃない……! 逃げようとした……見捨てて……自分だけ逃げようと……!)


 絶望。それしか言葉がつからなかった。他でもない、この期に及んで我が身可愛さに動こうとした、自分自身への。


(どうしてこうなんだ……いつも肝心な時に逃げ出す……! 立ち向かわない……っ! なにも出来ない、なにも……っ!)


 あまりにも情けない。あまりにも不甲斐ない。そんな自分に涙が溢れて止まらない。


(そうだ……っ! いつもこうだった……! 結局こうなるんだっ……! いつかじゃない……なにも……なにもしてこなかった! 仕事も、人生もただ流されて諦めて……遠くから眺めるだけ……いつも口先、言い訳ばかりで……なにひとつ本気で生きちゃいなかった!)


 深い絶望の底で一握りの砂を掴むような感覚。心底愛想が尽き果てた自分自身への悔しさが、硬直していた手足へと流れ込んでいく。


(動けッ! ここで一歩も動けなかったら……もう二度と自分を許せなくなる……! 死んでも、死んだ後でもだっ……!  一歩くらい自分で……必死になって動いてみろ……っ! 最後まで役立たずのまま終わって、それで……っ!)


 涙と鼻水にまみれた顔で、血が出るほど唇を嚙み、そしてついにヒロシは叫ぶ。


「動けよッ――!!」


 その瞬間、ヒロシは無我夢中になっていた。右手の包帯を乱暴に剥がし、中に隠していた袋を目の前のゴブリンたちに投げ付ける。


「ブギャーーーーッ!?」


 袋から飛び散った真っ赤な粉を浴びたゴブリンたちは、たちまち錯乱してのたうち回り、もはや獲物を襲うどころではなくなっていた。


「やっと動いたかこの野郎、ハラハラさせやがって! さっさとこっちにも袋を投げろ! 嬢ちゃんは目を閉じて、俺が合図するまで息を止めてな!」


 ガンバの声に応え、ヒロシは二人に迫るゴブリンにも同じようにトウガラシの小袋を投げつける。周囲に舞った赤い粉末を浴び、吸い込んだゴブリンたちはやはり強烈な刺激に耐え切れず、錯乱して同士討ちまで始める始末だった。


「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……!」


 手あたり次第、近付くゴブリンたちに小袋をお見舞いすると、もうヒロシたちに近付くゴブリンは居なくなっていた。森の向こうではなにやら騒がしい音が聞こえていたが、しばらくするとそれも静かになっていった。ヒロシはメリアとガンバの縄を解くのに夢中で、その音はまったく聞こえていなかった。震える指で縄を解いた所で、数人の兵士がヒロシの傍らに現れた。


「もういい、そこまでだ。それ以上やる必要はない」

「い、嫌だ……ゴブリンなんかに食われてたまるか……!」


 血走った眼で声を荒げるヒロシだったが、兵士はなだめるように続ける。


「ゴブリンはもういない。どうやったか知らんが、奴らは総崩れになった。トチ狂ったゴブリンの駆除など、実に簡単なものだったよ」

「ううっ……」

「とりあえず付いて来い。このことを王に報告しなくてはならない」


 結局、ヒロシたちは兵士に連れられ王の城へ戻されることになるのだった。






 ヒロシとガンバ、メリアは牢屋よりはマシな部屋に入れられて二日ほど過ごした後、、再び王と面会することになった。

 磨かれた大理石の床に、細かな装飾が施された窓や天井の照明。そして部屋の中央に伸びた赤い絨毯と、その先にある荘厳な玉座。ひと目で謁見の間と分かる部屋にヒロシたちは連れて来られた。玉座にはダレル王が座り、相変わらずの険しい目つきでヒロシたちを見ていたが、そこに浮かぶ感情は複雑な色をしていた。


「兵士から報告は受けている。お前たちがゴブリンの群れを混乱させたおかげで、奴らをたやすく全滅させられたと」


 ヒロシは黙ったまま、ただじっとダレル王の眼を見据えたまま動かない。


「よもやトウガラシの粉などと、そんなものがゴブリンの弱点であったとは。試しに兵たちに同じ物を持たせ、別のゴブリンどもを討伐に向かわせてみたのだが……あれほど手を焼いていた連中が、いとも簡単に駆除できてしまったのだ」


 ダレル王はしばらく難しい表情をしていたが、考えがまとまったらしく、再びヒロシに視線を向ける。


「そなたは転生者でありながら『能力』を持たぬ無能の者。だが今度の働きは素直に認めねばなるまい。よって処刑は取りやめ、我が王国での居住を許可しよう」


 それは特例と言える処置ではあったが、一度は自分たちを死地へ追いやった人物を、そう簡単には許せないのが人情というものである。ましてヒロシには、どうしても許せない理由がもうひとつあった。


「……その申し出はありがたく受け取っておきますけどね、褒美と言うんなら、こっちの頼みもひとつ聞いてもらいたいんですが」

「よい、言ってみよ」


 ヒロシは自分の隣でじっとかしこまっているメリアに顔を向け、そしてダレル王に言った。


「この子は俺が預からせてもらう。こんな薄情な城には置いておけない」

「……よかろう、好きにするがいい」


 二つ返事でメリアの身柄を預かることになったヒロシは、小声で彼女に言った。


「ごめん、勝手に大事なことを決めてしまって……」


 驚きで言葉を失っていたメリアは、ヒロシの言葉にただ目を丸くするばかりだった。ダレル王はしばらく真っ白な髭を撫でつけてから、思い出したように続けた。


「王都の一角に、使われなくなった一軒家があったはず。少々古いが修復すれば生活に問題は無かろう。そなたらはそこに住まうがよい。それともうひとつ」


 相変わらずの低い声で、ダレル王は付け加える。


「王都で暮らす以上は、定期的に税を納めてもらう。無論、普通に働いていれば払える程度の額だ。今の我が国は、働かざるものをタダで養っておく余裕はないのでな。では、わしからの話は以上だ。下がってよいぞ」


 王都ストームサングで暮らすことを許可されたヒロシは、宮殿を後にした。案内の者に連れられ、彼とその後を付いて歩くメリアは、王に約束された新しい住処へと向かうのだった。



 

第一話 おわり 

第一話、第二話は同日投稿です

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