河童(カッパ) ─四、
森羅萬象
魑魅魍魎
戰々恐々
小人間
淺キ梦見シ
泥ノ底
ざばり。
二人分の湯が盛大な湯気を立てて風呂の枠より溢れ出し、薄暗い風呂場の視界を奪う。
先日に引き続き使ったシャボンの粉臭い香りと桧の香りが混じり、隣にて目を閉じくつろぐ美しい男も居り、この湯は随分贅沢だ、と、源三郎は大きく息を吐く。
「色男との風呂は、良いねぇ」
隣の美人が笑う。
「女達のぽてぽてした身や若衆の肉付きは流石に見飽きたわえ」
「お前、女と共に入るのか?」
「普段はそうじゃの、女達の中に放り込まれるのさ。
男共が俺と共に入るは気が引けるのだと」
詰まらなさそうに漏らすし乃雪に、成程、源三郎は妙な納得を感じた。
「ところで、なぁ。し乃雪」
柔らかな湯気をじぃっと見詰め、暫し無言が流れた後。
源三郎は何気無く先程の出来事を思い出し、ぽろり言葉を漏らす。
「んー、」
「お前は、凄いな」
「何がじゃ、」
「あんな妖や幽霊を目の前にしても顔色一つ変えねぇ」
「物心付いた頃より妖と共に居ればこうもなるわえ」
物心付いた頃より?
源三郎が、聞き返す。し乃雪は彼の方を向かぬまま、ゆっくりと宙を仰ぐ。
さら、…と、銀の髪が絹を晒したかの如く湯に流れ、ほんのり透けている。
「……昔話をしよう」
「嗚呼?…嗚呼、」
ゆっくり、紅い眼が瞼に隠れる。
充血した唇が牡丹色に染まり、小振りなそれはぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始める。
「……昔ぁし昔、北の国に若い夫婦が居た。
何であったか、幕府膝元にて吉凶を占う役目をする寮の、里だと聞いたな。
その夫婦は、その中でもとある祠を奉る役目を担う家系であったそうじゃ」
「ふん、で」
「その祠にて祀るは、鬼であったのだと。
しかし、ある日、御神体が消えた」
「ふん」
「一番にそれを知ったのは、日課の掃除に参じた、夫婦の、妻の方であったそうだ。
必死で探す妻の目前に、その鬼は現れた」
「ふん、」
「鬼は言うたそうじゃ。
「今まで大事にしてくれた礼だ」、と。
その手が妻の腹に触れた。
妻の腹は見る間に膨らみ、たったの十日後。
白い髪に紅い目の赤子が、生まれたそうじゃ」
沈黙の間に、湯気が流れる。
頬を伝う汗が何のものか分からぬまま、ゴクリと喉を鳴らす源三郎。
それを横目で見た、その瞳が、殊更紅く思えた。
「……つまり、何だ。
お前さんは、」
「さあ?分からぬ。この話も嘘か真か」
「……」
「しかし、この眼は真じゃ」
「、」
「この眼は、人の世はぼぉんやりとぼけて見える。光も、人より眩しく感じるらしい。
が、妖の姿には酷く敏い。
故か否か、妖に懐かれ易いらしゅうての……
よもやこの俺すらも、人の世の者では無いのやも知れぬよ?」
にこ、と、微笑む、し乃雪。
その美しい笑みが、しかし途端にとても遠退いて見え、源三郎は思わず細い二の腕をぐと掴んだ。
「ん?」
「雪」
「ん、」
「何故に言わなかった?」
「聞かれなかった」
「言わねば良いと言うものでは無い」
「知らぬが仏と言う諺もある」
「なぁ雪、」
両の手にてし乃雪の肩を持ち、自分の方へ向かせる。
華奢な肩だ。それは其処にまさしく存在しており、呼吸と共にゆっくりと息衝く感触が、伝わり来る。
し乃雪の眼は少々の驚きに見開かれ、其処に源三郎の真っ直ぐな眼差しが映った。
「真面目な顔して、如何した?」
「お前が心配なんだよ。
もう妖沙汰を持ち込むのはよそうぜ、お前も余り関わらぬ様にしろ」
「お前さん、何を申す?
それは妖達に言うた方が早いわえ……。
向こうより飛び込んで来おる故、俺一人引き籠もったとて変わらぬ、
……のお、そうは思わぬか?」
だが、…と言い掛けた源三郎の肌を、し乃雪の指がそろぉり、撫でた。
ぞ、と肌が粟立った源三郎、反射的に身を離す。
「なんッ、」
「のぉ、まっこと良い体をしておるのぉ……」
見れば、向けられたのはあの美しき太夫の表情。化粧無きその顔でもまっこと美しい、しかしその首より下が優男の華奢な体。
源三郎には少々気味が悪いらしく、風呂に浸かりながらもその顔よりすぅと血の気が引く。
「やめろって、」
「世辞は言わぬぞ?」
「そうじゃあ無くだ、男に言われるは気分良いモンじゃ無えよ」
「おお!俺を男と宣うかえ!?」
「男だろうが!!」
其処まで言い合った後、やがてどちらからとも無く笑みが零れた。
ひとしきり笑い合い、またふんわり漂う湯気へと視線が流れ。
「お前さんがおると心強いわえ…」
独り言の如く、し乃雪は言う。
「心配と言うなれば、もっと心配しておくれ。何度でも此処へ足を運んでおくれ」
「お前な、」
「面白きこの現、楽しまねば損、損」
歌う様にそう言ったし乃雪の、その表情が、少しばかり寂しそうに、源三郎には映った。
それを察した源三郎の顔もふっと曇ったが、両手にて頬を抓られ、抱いていた何かしらの感情はあっと言う間に湯気の向こうへと消え去っていた。
「…お前と言う男は!」
源三郎は又、呆れ笑った。
* * * * * * * * * *
翌日、祭りは噂通り執り行われた。先の雨にて怒り狂った神を沈める為、やはり祭りは必要。そう、神社の神主は決断したらしい。
源三郎が昨日早く遊廓を後にしたのは、どうやら祭りの打ち合わせや準備があった故。今宵もまた源三郎が祭りに参加すると聞いたし乃雪は、先日以上に胸を踊らせ、一張羅に化粧を施し、夜の境内に繰り出した。
また幾人かに声を掛けられたが、今宵は見向きもせず、あの獅子舞を今か今かと待ちわびる。その顔はまさしく、恋をする少女そのもの。暮れ泥む光に横顔が浮かび、街行く人は皆彼に見惚れる始末だ。
しかし、それより先。し乃雪が待つ方とは少しばかり違う方向より、朗らかな女性の声が自分を呼んだ様な心持ちがした。
初めは気の所為であろうと無視していた彼。女の知り合いは遊廓の外には殆ど居ない故だ。しかし、二度、三度、呼ばれ、ようやっと気付いて右方へ顔を向ける。
「……太夫、し乃雪太夫!
嗚呼、良かった」
白地に藤柄。余り見掛けぬ着物に身を包んだ、その顔は先日見たあの鵺神と同じ顔。
しかし、その柔らかな女声にて、"彼"では無い事を察し、瞬きの間だけ言葉に詰まった。
「…あ……お お前さん、もしかして」
「お会いしとう御座いました…!
先日は連れの者が大変お世話になりまして……」
少しばかり息を切らせ、ほんわりと柔らかな微笑みを浮かべた、人形の如き顔。
恐らく、
「あの……河童の木乃伊どんかえ?」
「ええ、左様に御座います。
申し遅れました、名を山鹿澄澤主と申します……霞、とお呼び下さいませ」
地面に正座し三指付きそうになった所で、し乃雪は立ち上がり、それを止めた。
神様に三指を付かせる訳にはいかぬ。彼女を立たせ、しかしその着物は土埃一つ付かず綺麗なまま。
にこにこと微笑んだまま、霞と名乗った彼女は彼の隣に並び、まるで長年の友の如く、又ニコリ。
「先日は、大変有り難うございました。
お陰で大幌月宵主はあれ以上人を殺めずに済みましてございます」
「おおぼ…何?」
「大幌月宵主は、私が森にて連れ去られて以来、血眼になり、元来の御役目を忘れてかの男を追い回しておりました。
ようやっとかの男を捕まえる事が出来、大幌月宵主も喜んでおります」
長ったらしい名前をすらすらと口にしながら、溢れる柔らかな感情をし乃雪に伝えて来る。
その姿、顔は瓜二つなれど纏う雰囲気は全くの真逆であり、暮れた空に浮かぶ提灯の明かりも相まって、不可思議な違和感。
少し戸惑いつつ、しかしし乃雪は一番の疑問を恐る恐る口にした。
「駁螺は、連れ去ったのであろう?今何をしておる、」
「かの者は……ウフフ……お知りになりとうございましょうか?」
顔色一つ変えぬ問い返しが、恐ろしい。
「……良い目には遭っておらぬのであろう。もう良い」
これ以上訊けば後悔しそうな心持ちがした。
嗚呼、毎年の風景。
先程買った鳳凰の飴を口に含みながら見れば、夜と昼が混ざり合うその景色は心地良く目前を流れ行く。
安堵に浸りながら、ふと、し乃雪は霞を見遣り。
「のお、霞よ」
「はい、」
「ひとつだけ、忠告せねばなるまいな」
「なんなりと」
「俺は人間の肩入れする気は無い。
しかしな……此処は人の世、罪無き人は殺めるものではない。
お前さん等がそうした様に、次は俺が斬らねばならぬやも知れん。
一度だけ申そう……俺は、人の子じゃ」
漆玉の如く純粋な黒の瞳が、瞼に隠れ。
ゆっくりと、長い睫毛を震わせながら、霞は頷く。
「……此度の事、ほんに申し訳無く思うております。
分かっておりました。しかし、大幌月宵主を止められなかったは、私の失態にございます」
「否、分かっておるなら良い」
「大幌月宵主も、ようやっと頭が冷え、反省した様子にございます。
今後は私も大幌月宵主を」
「否々、分かった分かった…済まぬ、其処まで追い詰めるつもりは……」
まるで逆の立場。
思い詰めた様に鬱ぎ込んで行く霞を、し乃雪が宥め。
……周囲の視線が痛い。嗚呼、あの時の源三郎はこう言う気持ちであったか……軽く後悔を感じた、その時だ。
遠くより、祭り囃子。見れば、先日と同じ様にガチガチと歯を鳴らしながらゆっくりと境内を練り歩く獅子舞の姿があった。
嗚呼、漸く来たかえ。思いながら見ておれば、案の定し乃雪を見付けた獅子は、彼等が居る灯籠へと近付いて来る。
「ほれ、霞よ。獅子舞が来たわえ」
「あら、ほんに」
「あれをな、今宵も友人が演じておる筈じゃ。お前さんを助くに協力してくれた御仁よ」
しかし、今宵は少々勝手が違った。
源三郎は獅子頭ではなく、尻の方であったらしい。唐草の布の横からひょいと顔を出し、
「よぉ雪!今日も此処で待っていてくれたのか、」
と満面の笑み。
「ああ、待ちくたびれたわえ……早く終わらせて縁日を回ろうぜ、」
「生憎今日はもう少し時間が掛かるが……待っていてくれるか?」
「何故に、」
「明日は最後の日だろう?獅子と神輿の奉納がな……"こいつ"と少々打ち合わせをせねばならん」
獅子頭を持ったまま待つ者を、源三郎は指差した。
「嗚呼、ついでに紹介しておこうか。祭りじゃいつもこいつと獅子をやるのさ。出て来いよ、」
言われ、それはゆっくりと獅子の中から顔を出し。
背後に居る霞と瓜二つの顔を、し乃雪へと向けた。
紛れも無い……その男は。
「………… あぁ!?お前さん……」
「朧、と申します。以後、お見知り置きを」
驚きを隠せない様子のし乃雪に、人形の様な黒髪を上一つに束ねたその男が、わざとらしく頭を下げた。
「何だ雪、知っておるのか?
お!霞も、久々だな!病気であったと聞いたが、具合は如何だい?」
「ええ、御陰様にてこの通りにございます」
「………… 今は知らぬ方が良いか、」
「ん?雪、如何言う意味だ?」
「後で話す!!先ずはほれ、早く終わらせて来い」
慌てて追い立てれば、二人は顔を訝しげに見合わせ、再び獅子を被る。しかし、直前に朧がニヤリと笑みを浮かべる様を、し乃雪と霞は見逃さなかった。
「かの御仁が、ご友人で御座いましたのね。
重畳にございます、とてもお優しい方にございます故」
詰まる所、この神様達はしたり顔にて時折人里へ降りて来ているのだ。
「……鵺様相手に、源は粗相などしておらぬだろうな……?」
手に汗握りつつ、揺れる獅子の尻尾を見送るし乃雪。
程無く、し乃雪と霞は仲良く縁日を回り始める事となる。
― 祭りとは、末恐ろしや。
胸の内にてし乃雪が手を合わせたのは言うまでも無い。
河童 完
* * * * * * * * * *
……
其処は、吉原より、否。
江戸よりずっと西の、深い谷の下。
其処にひっそりと並ぶ民家は、恐らく其処に住む者以外は誰も知り得ぬであろう、隠れ里。
ひゅぅ……
冷たい谷風が其処にある人手の物を撫でる中、す、と谷の縁より差し込んだ陽の光が、一際大きな中央の屋敷を差す。
其の屋根に、一人の男が佇んでいた。
短く切られた赤い髪が風にそよぐ。
悟った様な眼差しが、其れまでずっと宙の何処かを仰ぎ見ていたが、やがてついと背後へと振り返り、親しき友人へする様に微笑んだ。
「お帰りなさい、」
其処に、いつ来たのであろう。
黒装束、黒い頭巾に鉢金、黒い口布。細身ながらしっかりとした体格、男であろう。
唯一かいま見える目……鳶色の瞳が鼈甲飴の如く光に透け、ひざまずいた其処より赤毛の青年へ向けられ、しかし直ぐに下げられた頭の下へと隠れた。
「只今戻りましてございます、お頭様」
「貴方の事ですから、"ボウズ(収穫無し)"、…は無いでしょうが。
如何ですか?」
「計画通り、吉原にて発見し、近付きました。
日参しつつ様子見しております次第」
「彼の人となりは、」
「はい……酷く気紛れですが、面白い男です」
「見た目は?」
「は?」
「女よりも美しいと聞きます。如何です、惚れました?」
「や……いえ……
まさか、男であったとは気付きませんでした。
確かに、声と着物の中さえ見なければ……」
「重畳、」
ははは、と笑う、頭と呼ばれた男。
黒装束は少し気恥ずかしそうに、そしてばつが悪そうに更に頭を垂れる。
が、直ぐにくんと頭が上がり、低き声にて。
「……しかし、あの男。何者なのです?
どうやら妖を畏れず、摩訶不思議な力を持つ様子。
何故に某を、」
頭は、微笑んだまま。
「ええ、故に"あなた"に頼んだのです」
「……、」
「今は何も知らずとも良い、自ずと分かるでしょう」
黒装束に背を向け、青年は再び空を仰ぎ見る。
谷の縁にて狭い空、天辺にお天道様。
心地良さそうに目を細め、胸一杯に谷風を吸い込む。
「……鴉獄、」
「はっ」
「貴方の"正体"は、勿論知られていませんね?」
「分かりません…しかしその様な素振りは一切ありませんでした」
「重畳。
其の関係、続けて下さい。もう少し彼を調べて頂けるなれば更に結構。
其れと……」
鴉獄、と呼ばれた男に背を向け、頭はしかし声で微笑みながら、付け足す。
「"角"の在処……調査を、引き続き宜しくお願いします」
「御意、」と発し、顔を上げた鴉獄。其の時には既に、頭と呼ぶ男の姿は消え、只ひゅぅと冷たく心地の良い風が周囲を吹き抜けていた。
「………」
時は、昼。
この時間、晴れた空がこうして谷の空気を殊更かき回す、この感覚が鴉獄は好きだ。
暫し、其のまま風に吹かれながら思慮を巡らせ、やがて。
「……… チッ、」
- 男であると知っているのなれば、教えてくれれば良かったのだが。
あの青年特有の意地悪に対する不満が僅かに沸いたらしい、其れは舌打ちとなってポロリ零れ。
"ざぁ……"
人の手により整えられた木々が、沢の音に混じり木漏れ日を揺らし、鳴く。
其の時には、あの黒い忍装束の男も又姿を消し、其処にはくるくると風に舞う一枚の黒い羽根があった。
続