河童(カッパ) ─参、
未ダ止マラヌ天ノ怒リト
積ミ上ガリ行ク弍人ノ不滿
駁螺圍ミ耳ニシタルハ
人ノ業ト鬼ノ色
果タシテ今宵走リ出スハ
源三郎カ し乃雪カ
先に風呂を出たは駁螺、し乃雪達…否、源三郎はし乃雪を落ち着かせるべく、暫し風呂の中に押さえ付け落ち着かせ、彼の呼吸が整った辺りに誘った。
むすり、不機嫌なままのし乃雪。桜色が濃く映る白肌が殊更怒りを際立たせており、僅かに恐怖すら感じた源の字。しかし、上がり際。
「…… 済まぬの、源」
小さく漏らされたそれが、彼が決して源三郎に対し怒っていると言う訳では無い事を現しており、胸を撫で下ろしたのは先程の事だ。
…… 相変わらず、外は止む事の無い土砂降りの雨、風、雷。
もう晴れる事は無いのでは無かろうか……まるで世の末の如き音を近く耳にしながら、白狼に促され辿り着いたは大広間。
中よりきゃあきゃあと楽しげな女達の声。何と無しに襖の向こうが想像し得、し乃雪の前に立つ源三郎も、呆れの溜息と共に襖を開ける。
…案の定。駁螺は膳を食いながらも女郎達を侍らせ、楽しそうに笑っている。女の膝に頭を預けてごろごろと甘えている所で、女郎の一人が「あ!し乃雪兄さん……、」とばつの悪そうな声を上げ、瞬時に静まり返った。
ごろごろ、ざぁざぁ……
間を、嵐の音が割って入る。
「お前達、」
源三郎の背後にて、低いし乃雪の声。途端、ピクンと女達の身が跳ね、顔が強張る。
「御免なさい、兄さん」
「わっち達、只「御持て成ししなさい」って旦那に」
「構わぬよ、良うしてくれたわえ。
さあ、もう戻り遣れ。後は俺達が持て成そう」
ふわん、と笑んだその顔に、遊女達ですら敵わぬ様子。そそくさ、し乃雪達の傍を会釈しながら出て行き、最後の遊女がちらと源三郎を見遣り。
「ごゆっくり、」
にこ、と作り笑顔にて、襖が閉められた。
三人だけとなった、広い広い座敷。
さて……振り向いた二人の目前に、残りの飯を口の中へと掻き込む駁螺。その隣にはしっかりとあの箱が置いてあり、それを指す間も無く駁螺は箸を置き、笑う。
「ほれ、座れよ兄ちゃん達。わしの話が聞きたいんだろう?え?」
顎にて、前を指し示す、駁螺。
こいつ…。ム、とした源三郎を、しかし今度はし乃雪の手が柔らかく彼の肩に触れ、誘う。
ちらと合った目が、何時ものし乃雪だ。気を取り直したらしい、しかし不安が残りつつも、源三郎は彼に続いて駁螺の前に座った。
畳が、冷たい。
「んで?何故にお前みたいな奴が一人生き残ったのじゃ、」
飯を下品に頬張る駁螺は、少しは食わしてくれよ、嗚呼酒呑むか?と軽く文句を垂れつつ、しかし少々嬉しげに口を開く。
「いやね、実はわし一人助かったんじゃなく、わしが狙われておるんでさ」
「お前が?」
「ああよ」
「雷様にか、」
「ふへへ……や、厳密にゃ違うがね」
「じゃあ何じゃ」
「さぁねぇ……でもアレでさ、でっかぁい牛だか虎だかの様な影が、雲の奥からこっちを睨むんだぜ?それも、まるでわしを追い掛けるように雲を引き連れて、大雨ぶちまけながらね」
「何時からじゃ、」
「お?まさか、こんな嘘みてぇな話を信じるのかい?」
「嘘か如何かはお前を外に放りゃ直ぐ分かる。違うか、」
「それは勘弁してくれよぉ……」
「でかい動物の影……」
し乃雪と駁螺の問答合戦の中、源三郎の呟きが間を割る。二人が振り向いた先には、珍しく真面目な顔で考え込む源三郎の姿があった。
「如何した源、」
「いや……一刻も早くこの雷様に消えて欲しいだけさ」
「わしがおる限り止まりませんよ、」
「聞かれた事を答え遣れよ。で無ければ直ぐにでも摘み出してやろうかえ」
「へいへい、」
……こいつ、段々態度がでかくなってやがる……そう心の内に思ったのは果たしてし乃雪か源三郎か。しかしその時、二人とも表情に陰りを落としていた事に間違いは無い。
「それで、何時から?」
「丁ー度一年前かねぇ……
ほら、此処より西に大きな森があるだろう?あそこにな、散歩をしに行ったのさ。
其処で大きな大きな物の怪に出くわしてよぉ、」
「物の怪、」
「鵺、さ」
"ドォン!……ゴロゴロゴロゴロ……"
ビクン。源三郎の身が弾むは、恐らく雷の所為。顔面を蒼白にした彼が恐る恐る外の方へ顔を向ける姿を、し乃雪はクスリ笑いながら横目で見遣る。
「源三郎、落ち着け。案ずるなよ」
「ああ、…嗚呼…」
し乃雪の手が、そっと後ろへ回る。駁螺の見得ぬ位置にてゆっくりと源三郎の背にあてがわれ、うっすら湿ったその背より幾許か力が抜けた。
「雷、怖いんですかい?旦那、」
「源の事は構うな。
それより、鵺とな」
「嗚呼、左様さ。知っておるかい?」
食い終わった椀をコロンと膳に転がし、ずいとし乃雪へと寄る。
黄色の歯を見せびらかしながら、血走った眼が彼の白い姿をはっきりと映した。
「どうやらあの森にゃ鵺を祀る祠があるらしい。
偶々其処へ踏み込んだら、鵺の逆鱗に触れちまったらしくてねぇ……
それから一年、ずっとあの調子でわしを探しては追いかけて来おるのさ。
……とは言え、此処まで酷いのは初めてだ。使いみぃんな死んじまって、わしはこれからどうやって仕事をして行けば良いのやら……」
わざとらしい泣き真似にて肩を揺さぶる駁螺。
「……他に、その鵺とやらの逆鱗に触れた事に心当たりは無いのか」
落ち着いてきた源三郎が、漸く言葉を紡ぐ。
「無いね」
「真にか、」
「嗚呼、無い無い。
わしは清廉潔白だよ?何も、殺しちゃあいないし盗んでもいない。そんな男に見えるか?」
「よもや、その箱の中身を狙うておる……その様な事も無いのであろうな?」
再び上げられたし乃雪の声。
「随分と大事にしておる様子……見せ物にする為の妖の子でも抱えておるのかえ?」
ぴく……
駁螺の頬が震える。
「有り得ないよ、そんな物は。
これはな、わしの大事な大事な商売道具さ。見るかい?」
声が少し上擦っている。しかし、側にある箱を自分へと寄せ、その小さな背に迫る大きな箱の側面をすぅと引き抜けば、成る程確かに。其処には針箱や鋏、吹き矢、小さな壷、綿の詰まった袋……何に使うのか良く分からぬ道具類が詰められている。
「だろう?こんなものしか」
「其処じゃ無かろうて、」
「へ?」
「その、奥…じゃ。その箱には未だ余地があろうて」
「何の事だか、」
「上の蓋を開け、中身を見せ遣れよ」
駁螺の頬に、一滴の汗が流れる様を、源三郎は見逃さなかった。彼の目にも、確かに今の駁螺は焦っている様に見得、口を開かぬながらすと目を細める。
「如何した?早う」
「……河童の木乃伊しか入って無ぇよ、」
「早う、」
強まるし乃雪の声。
漸く、駁螺はゆっくりと動き出した。確かにその木箱は上の蓋が取れる仕組みとなっているらしい、カコンと小さな音を立てて外され。
ゆっくりと駁螺の上半身が中へと入り、そっと取り出された、それ。
……猿の様な毛と顔に額を剃られ、背に亀の甲羅を背負わされた、一見すると酷く粗末な作りの木乃伊。見た事がある…それは、あの見世物小屋の奥方にて人魚と一緒に飾られていた、あの河童の木乃伊だ。
「……ふぅん、残念」
詰まらぬ素振りで溜息を漏らす、し乃雪。それを源三郎が「もう良いだろう、」と小声で制す傍ら、駁螺はそそくさと木乃伊と道具を仕舞い箱を背負って立ち上がり。
「今日はもう疲れたわい……
あの白狼さん、親切だねぇ?寝床を用意してくれたよ。
今宵はお言葉に甘えてお泊まりするとしよう……」
小さな背が、大きな箱に隠れている。横に揺れる歩き方にて襖までよたよた歩いた後。
ふと振り向き、し乃雪の方へと目を向ける。
「……嗚呼、そうだ。白い兄ちゃん、」
「何か、」
「あの物の怪が何故わしを狙うのかは分からねぇが、止め方は知っておるよ。
ただな、条件がある」
「、」
「あんた、わしと一緒に全国を回らねぇかい?
その綺麗な姿で蛇の一匹でも食えば、きっとお客さんはびっくりするだろうて…なぁ?」
にぃやり。並びの悪い歯を何時も以上に見せ、しかし眼は笑っていない。
何か返そうとしたし乃雪であったが、しかしその様な間も無く、駁螺は少し開けた襖の隙間よりするりと出て行き、パタンと閉められた。
「……怪しいな、あの男よ」
源三郎が、腕を組み独りごちる。
「絶対、何かを隠していやがる。このままでは雨続きで更に死人が出るぞ。
そもそも、止める方法があるなればさっさとやれば良いものを」
「やりたくない、のであろうて」
ぽつり返された声に、源三郎が振り向く。
見れば、立ち上がった気配も無いのに火のついた煙管をくゆらせ、ふぅと紫煙を吐く遊女の如き顔がある。
「やりたくない?」
「商売道具を手放す事となる。
故に、と、俺に"新たな商売道具になれ"と言うて来た、と言う所か」
「……未だ、見得ぬが」
「察し遣れ、朴念仁」
ちかり、し乃雪の眼のみが源三郎へと向く。
「あの木乃伊、妖じゃ。それも未だ死んでおらぬ」
「……はぁ?」
頓狂な声に、雷の唸りが重なる。自分の声が雷様に聞こえたか…びくびくと身を震わせ、少し小声となる源三郎。
「妖…物の怪等、存在し得ぬだろうよ?お前は信じておるのか、」
「赤猫を見て尚、良くも宣えるのぉ?」
「あれは絡繰であろう?」
「……クク……そうかえ、そうかえ。
あの木乃伊が何の妖かは皆目検討も付かぬが、小さな小さな声で助けを求めておった。
空に居るは、はてさて何の妖か……」
「本当に居ると言うのならよ。鵺、じゃあ無えのかい?」
"ゴロゴロゴロゴロ……"
「ほぉ?鵺は信じるのかえ?」
「鵺を知らぬのか?神社がある程名のある物の怪だ。信じる信じないはともかく、名は知っているさ」
「ふぅん……先にあの見世物小屋に居った時、空に黒いものが横切ったな…あれやも知れぬの」
「……真に居るのか……しかし、何故にその鵺どんはあの木乃伊を追うのやら」
「人も同じじゃ。愛する者の為なれば、例えそれが髑髏であろうと取り返しに来る。
聞いた事があるかえ?昔々、酒呑童子と言う鬼が首を跳ねられたが、その首を茨木童子と言う鬼が取り返しに来ると言う話を」
「それは首じゃあ無え、自分の腕だろう?」
「それとは別じゃ、知らぬかえ?首を大江山へ埋めた者が茨木童子であったのじゃぞ?」
「聞いた事無えがなぁ……。
まぁ、それは良いけれどよ。詰まり、」
"ヒュウゥゥ……ガタガタガタ"
「……つッ 詰まり、だ。
駁螺は森に入り、あの木乃伊を"見世物に出来る"と持ち帰った所、森の主である鵺どんがあの木乃伊を追いかけて来た、と」
「もう少し酷いやも知れぬぞ?道具の中に吹き矢があった。
……しかし。考えられるは、そんな所かの……」
ふぅ……。
宙に吹いた紫煙はゆるりと弧を描き、しかし何処かしらより鳴動し舞う風によりふわり掻き消された。その様を眺めつつ、しかし良い加減身が冷えたらしい源三郎。羽織っていた襦袢をぐいと手繰り、胸元を仕舞った。
「あの木乃伊を鵺どんに返せば、それで一件落着か?」
「もっと簡単な方法があるわえ」
「何だ、」
「駁螺を箱ごと外へ放れば良い」
「……おい、それはいかんだろう?」
「此処に置いては置けぬわえ、吉原が雷様に黒こげにされる」
「駁螺の命が危ないだろう!」
「……お前さんな、」
漏らされた溜息が、少し白い気がする。この時期には珍しく、随分空気が冷えているらしい。
向けられた呆れ目すら艶めかしいし乃雪であるが、しかし源三郎の真っ直ぐな瞳の前では何の役にも立たぬ様子。
「そもそも何故に自らの身を危険に晒してまで助く必要がある?大勢を死なせる位なればこの男を差し出せば良い事……。
昼間に死んだ見世物小屋の幾人は、駁螺一人が犠牲になれば助かっておったのでは無いかえ?」
「どの様な屑だとすれ、人の罪は人によって裁かれるべきではあるまいか?」
「人が犯した妖への罪は妖が裁くべきじゃ」
「住まう世が違う!」
「違う世に手を出した方が悪い」
「しかし!」
じっと、源三郎を見遣っていたし乃雪の目が、不意に地へと落ちる。瞼の奥へ隠れ、暫しそうして冷たい空気を吸い込んだ後。
「…あやつを助け話してかたを付けるにせよ、あやつを盾にせねば鵺とやら様は取り合うてもくれぬよ?」
「しかしだ、もしそうだとすれ」
「見ず知らずの俺やお前さんでは消し炭にされておしまいじゃて」
「……雪?」
"ゴロゴロゴロゴロゴロ………"
「嗚呼、お前さんの言葉に負けたよ…源三郎」
伏せた紅玉の眼が、今一度源三郎を見遣る。
少し濡れたその瞳、何故だろう。源三郎には、酷く慈悲を湛えたものに見得、美しい。
源三郎は、し乃雪へと向き直り、胡座をかき直し。
深く、頭を下げた。
「恩に着る」
「……ふふ……甘いのぉ、お前さんも。
俺も、な……」
そう言えば、外に轟いていた雨音と雷鳴が、少し遠くに離れた様な気がする。
漸く安堵の欠片を見出した源三郎の、ふぅ、と漏らされた溜息。その背を、白い手は再びすすすと撫でた。
温かい手が、今日は殊更心地良い。
* * * * * * * * * *
翌日も、朝より雨。
雷鳴にて目が覚めた源三郎、ふと隣を見遣れば既にし乃雪の姿はおろか、布団までもしっかりと片付けられている。
嗚呼、疲れて随分寝坊してしまったのだろうか……呆れながらも背を伸ばし、ゴキリ、と節が鳴った。
空気が、変わらず冷たい。
ほんのりとし乃雪の甘い香が漂えど、しかし自分一人しか居ないこの空間は酷く閑散とし、単調だ。
何故であろう。ほんのりと寂しさを覚え、同時に昨晩のやり取りを思い出し、源三郎は布団より這い出て立ち上がった。何時でも動き出せる様、着替える為だ。
す、と、不意に襖が開く。褌一枚の源三郎、慌てて手にしていた着物を羽織り振り向けば、其処に佇むはし乃雪。外に出る気は余り無いらしく、何時も見る黒猫色と紅の振袖に身を纏い、顔に朱が入っている。見慣れた天女、はんなりと笑んだその顔に、安らぎを覚える。
「お早う、源の字。丁度良う起きてくれたの」
「いきなり開けるなよ、」
「俺の部屋に居って何を申す?それに、この襖を無言にて開けるは俺とお前さんのみじゃ」
その肌を拝めるは俺、この肌を拝むはお前さん……歌う様に言の葉に乗せ、窓辺に腰掛ける。木戸がしっかり閉められているにも関わらず、それは恐らく癖なのだろう。
「ところで、のぉ源三郎」
きゅ、と帯を締めた源三郎に、その様子をじっと見詰めていたし乃雪が口を開く。
「ん?」
「先程白狼から聞いたのだが。
駁螺が何時の間にやら居なくなっておったそうじゃ」
「そうか……って、何だと?」
血相変わった源三郎に、彼はクスクスと笑み、機嫌良さ気だ。
「箱は、」
「箱も、じゃ」
「行き先は誰も知らねえのか、」
「暫し聞いて回ったが、どうやら誰も知らぬ様子であった。
このまま鵺様ごと江戸より去ってくれれば重畳、重畳……」
ゆら、ゆら、揺れながら、髪をさらさらと流しながら。
しかし、し乃雪の側へ寄り、木戸を少し開けた源三郎、外の様子を垣間見つつ、呟く。それは偶然にもし乃雪の耳元にて、低く甘い声が彼の耳を擽った。
「……し乃雪よ、雨も雷も止んでおらぬぞ?」
「そうじゃの、」
「例えば、だ。このまま駁螺の行方が知れぬまま、あの男が何処かの家の床下にでも潜み続けたとしよう。
鵺も又このまま居座り続け、死人は増える一方じゃあ無いか?
雷だけじゃあ無え、この大雨が続けば鉄砲水に病が増える……それでも良しと、お前さんは言うのかい?」
「………」
「知っていて動かぬは、し乃雪。お前の業とは違うか?」
瞳が、合う。
紅の瞳と鳶色のそれが、ほんの少しの間繋がれ、しかし冷たい空気が漂い流れ。
「……今外に出るは、死にに行くと同じやも知れぬぞ」
「自分の命で皆が生きるなれば、良い」
「それは駁螺一人と皆の命を天秤に掛けると変わらぬのでは無いかえ?」
「他人の命よりは良いさ」
す、と立ち上がり、彼は襖に手を掛ける。
「おい、」と呼び止める声に、其処で一度立ち止まった源三郎。振り向けば、し乃雪は腰を浮かせ、少しばかり心配そうな色を湛え。
「逸るなよ、源三郎!未だ、」
「今動かねば間に合わなくなる。
お前は此処に居ろ!」
そう言うが早く、色男の姿は襖の奥へと消えていった。
「…… 未だ、この茶屋を出て行ったと決まった訳では無いのだがの……」
ふぅ……。
その溜息が聞こえたのか否か。
遠くに落ちていく、階段を踏み降りる音。それとは別に、すぅ、と襖が小さく開かれる気配がした。……正面の襖にあらず、それは以前、幽霊がシミとなり現れた、押入の襖だ。
「……とは言え、"其処"に潜んでおったとは思いも寄らなかったがの」
し乃雪は、それを見て笑った。
常なる柔らかな笑みでは無い。それは、憎悪の歪みに相違無い。
* * * * * * * * * *
雨は止むどころか勢いを増し、道が水を含み切れず、川の如く流れ続けている。
外に出た源三郎は、降りしきる雨の中、先ず空を見上げた。駁螺探しに宛てが全く無い訳では無い。雲の合間にちらちらと見える、大きな黒い影……鵺と思われるあれは、駁螺を捉えている筈。それを追えば、よもやあの小さな男を見付け出せるやも知れない。そう考えていた。
ぐるり見渡し、あの影を見付けたのは、祭りのあった神社の方。
歩き出す間も無く、足下が泥にまみれた。が、その様な事にも、胸の内にて渦巻き始めた恐怖にも、構っている暇は無い。
濡れるも構わず走り出し、吉原の門を潜り抜けた。街道、川の土手、ざあざあと流れる水を跳ねながら、やがて神社のある森へと辿り着き。
気付けば、上空にて旋回していたあの黒い影が、消えている。
何処へ消えたのだろう?
ゴロゴロゴロ……唸る空を探しながら、一つ目の石鳥居を潜り抜けた、その時。
"カッ、"
空に稲妻が走り、轟音が響いた。
ビクリ、身を跳ね頭を覆う源三郎。驚きに息が切れ、震え始める手。
……しかし、こうもしておられぬ。怯えの残る目にて、顔を上げた時だ。
"ゴロゴロゴロゴロゴロ………"
眼が一点にて止まり、心の臓が冷えた気がした。
目前……直ぐ、近く。
今の一瞬まで居る筈の無かった物が、視界を塞ぎ、此方を睨み付けているのだ。
「ぅあ……!!?」
牛…否。その比にあらず。
鳥居など潜れる筈も無き、巨体。
闇色に黒い虎文様の毛皮、猿と獅子を合わせた様な顔。
蛇の如き太く長い尾をくねらせ、闇色の眼にて此方をじっ…と捉えている。
「……鵺……!!」
鵺は、何も言わず。
しかしその姿、まるで彼を獲物と見ている様に思え、源三郎はゆっくり、ゆっくり、腰に差す刀を地面に下ろす。錆び付くやも知れぬが、致し方無い。
「な、なぁ……この雨は、お前さんのものかい?」
恐る恐る、伺う。
返事は無い。
「あの、見世物小屋の雷も…火事も、人が焼け死んだも、お前さんかい?」
闇色の目に、金の瞳孔がチカリと光る。
喉が鳴るその音、まさしく轟く雷の如く。
「駁螺……あの小さな男を、狙うておるのだろう。
あの男が、お前さんに何か良からぬ事をしでかしたのか?
なればあの男に代わりこの俺が謝ろう、罪を被ろう。連れて行ってくれ。
だから……もう、罪無き人々を殺めるのは終わりにしてはくれまいか……?」
不意に、鵺はグッグッグ、と肩を震わせた。まるであざ笑うかの様な動き…源三郎の言葉は認識している様子。
震える身を抑えながら、しかし源三郎は「何故笑う、」と声を荒らげれば、鵺はゆっくりと、男の心地良い声にて言葉を紡いだ。
「"汝"が言うか?
"その口"が、人の罪を被ると?
それは正気の沙汰か?」
「嗚呼、俺は正気だ」
更なる鵺の笑いが、雨を切り周囲へ響き渡った。
その一瞬、雷鳴が共に鳴り響き、雨がひたりと止む。まるで滑稽ぞ!そう、総てが源三郎をあざ笑った。
「面白し!汝、其処まで人に肩入れするか!!」
「なぁ、鵺どん。
此処は"人の世"だ……妖は慎むものだぜ?」
「良く言えたな、汝が気に入った!
しかしならぬ、ならぬ!」
又、ゴロゴロと空が鳴る。
立ち上がった鵺にズシン!!とそれは落ち、バチバチと青白いものを纏った身が、毛がざわざわと逆立った。
源三郎の足が、竦む。
「我を、我の片割れを返せ!!
我等の住処に足を踏み入れ、吹き矢を射て浚ったはあの男!!」
「"片割れ"、だと……!?」
「我を盗んだ彼奴が憎い!!
我を傷つけ晒し上げた彼奴が憎い!!
我を指さし嘲笑う人間が憎い!!!」
"バチィィン!!!"
突如飛び来た稲妻を避ける隙等、微塵も無かった。
衝撃が走り、その身が痙攣した。
何が起こったのか分からぬまま、その一瞬、意識が白く飛び。
………
ほんの一瞬であった筈なのに。
気付けば、源三郎は川の如く水が流れる地面に突っ伏していた。
身が酷く冷え、ブルブルと震える。先の直撃の所為もあろう。
未だ痺れる身を漸く起こし、しかし。
「……」
"片割れ"、そして"吹き矢"。
駁螺が犯した罪の全貌が漸く見えた気がし、泥まみれの顔を拭いながら、ポロリ言葉が漏れる。
「し乃雪の、言う通り……
妖に裁かせるべき罪も、あるのやも知れねぇな」
……この雨は怒りのみにあらず……。
それを何処と無く知り得た源三郎、しかしふと嫌な予感が過ぎり、顔を上げた。
黒町屋に一人置いてきた、し乃雪。
まさか……。
踵を返し、遊廓へと戻る。
そう、あの小さな男は、あの体にこの大雨で遠くへ行ける筈が無い。
白き天人を酷く気に入っていた……
「居なくなったんじゃ無ぇ……"見えなかった"だけか!?」
泥を跳ね上げ、源三郎は走った。
* * * * * * * * * *
"ざあざあ……
ざあざあ……"
雨を叩く音が、耳をしっかり塞ぐ。
この雨音では泣けど叫べど、誰も聞きやしないであろう。
その様な事はとうの昔に承知してていた。故にこの期を狙った訳であるのだが、それが無くともし乃雪は身動き一つしようとしない。
両手両足縛られど、見知らぬ男達に担がれど、籠に放り込まれた時ですら。彼は只の一つも抗わなかったし、声すら立てる事は無かった。
駁螺は、籠の上に居る。
小さなその身なれば、人二人が運ぶ籠の上に乗っても大した重さでは無い。
蓑と笠にて、しかしまるで大きな蓑虫の如き塊は、真下に居る中身に向かって声を張る。
「もしかして、なぁ兄ちゃん!遊廓を出たかったんじゃあ無えのかい?」
無言。
「あんな狭い街に押し込められるよりゃぁ良いもんなぁ!
色んな所に連れて行ってやるよォ、色んな祭りがあるでな!
大ッきな海も、広ォい野っ原も、氣持ち良いからな!」
雨音と、籠屋の足音のみ。
只、空耳であろうか……僅かな息遣いが、屋根に触れる駁螺の短い脚へと伝わって来る様な心地。
それだけで、ソワリと身を何かが走った。
何なのかは分からぬ。が、気持ちの悪いものでは無く、自身が妖に追われている身である事すら忘れる程に、それに意識が引っ張られる。
堪らぬ。
駁螺はくるりと身を翻し、器用に籠の簾の隙間を潜った。
女物の着物を纏った、美しい陰間の姿が、不安を他所に其処に居る。
手足が汚れぬ様、綺麗な手拭いで縛ってある。少し鬱血し、青紫が鮮やかだ。
乱れた着物の隙間より、真っ白な肌が覗いている。
縛られておらぬ唇……真っ赤なそれはほんのりと笑みを作り、一つ瞬きした後、艶かしい純血色の視線が、駁螺を捉える。
「……へ…へへ……
やっぱり、綺麗だな……」
駁螺の瞼が細められる。
ぞくり……と、太腿の辺りに戦慄が走った。
「そ、そう言えば……陰間、なんだもんな」
ささくれだった手が、黒猫色をした振袖の裾をそっとめくる。
風も当たらぬ内腿……女に似て艶かしい曲線を描き、しかし男にも似て少しの筋が影を落とす。
それをするりと撫でれば、しっとりとした柔肌が手に感触を残した。
「……こんな綺麗な人も居るたぁ……世は不公平だよなァ……
な、なァ…… 陰間なんだ、もんな……」
その、時だ。
"ゴォ……!!"
何かが唸りを上げ、にわかに籠の中の空気が暑くなって行く。
一瞬の出来事だ。屋根が見る間に炎に包まれ、黒煙と白煙を入り混じらせながら、あっと言う間に燃え尽きた。
「あェ!?な、へァ!!?」
頓狂な声を上げた駁螺の顔に、大雨がザァと降り注ぐ。
思わずし乃雪にしがみつけば、しかし彼はその異変に驚く姿を見せず、くつくつと笑い始め。
「なん……何だ、何だァ!!?」
何が起こったのか微塵も分からぬまま、駁螺は籠の外へと転がり出。
泥まみれの顔にて見れば、見る見る内に青褪めた。
前を担ぐ籠屋の身が、燃えている。
それはあっという間に姿を変え、大雨を蒸気に変えながら、燃える身を持つ二足の獅子となった。
後ろを担ぐ籠屋は霜に覆われた。
ビシビシビシと雨を氷の粒に変え、パァンと弾けた其処に居るは、角を持つ三眼の人魚だ。
いつから妖にすり替わったのであろう。それ等はあっと言う間に駁螺を取り囲み、ゲッゲッゲッ、クスクスククク……と笑い、弄ぶかの如く。
「おい、何だよ!鵺の手先かよ!!?」
「違うよ」
腰を抜かした駁螺の前に、手足を縛った筈のし乃雪が、雨に濡れて立つ。
肌に貼り付く銀の髪、その奥にあるは、夜叉の形相。
見下ろした血の如き鮮やかな瞳に、すぅ…と夕日の光が流れ、駁螺の肝を穿った。
「ぎゃひ……!!なっななななな」
「のぉ、駁螺。
あの"箱"の中身が何者か、知り得ておるかえ?」
「はあァ!?」
「語ってくれたよ、あの"中身"が。
お前、西の森の中心にて、あの者が遊んでおる所を毒の吹き矢にて射止めたそうじゃあ無いか」
「あああ!!?そ、そうだろうがよ!!
生きた鵺の子供なんか見世物に出来たら暮露儲けだろうが!!」
這いずり立ち上がる駁螺の周囲を、それ以上主に近付けさせまいと、二体の異形が立ちはだかる。
しかし駁螺も窮鼠。啖呵を切るが如く、唾を吐き濁声を張る。
「そうだよォ!!そうしたらコロッと死んじまって、もう一匹は逃しちまった!!
死んだ鵺の子は直ぐに干乾びちまったから!!頭ァ剃って甲羅貼っつけて、仕方無ェ河童の木乃伊にしたんじゃねェか!!
こちとら商売なんだよォ!!オメーも、このバケモン達も!!命賭けて捕まえて飾る覚悟なんだよォォ!!」
「命賭けて、ねぇ?」
緋色の輝きが、す、と細められ。
大雨の音の中、彼の低く落ち着いた声が、不思議に地を這う。
ぞ、と身に走った冷たいもの。駁螺の啖呵は其処で途切れ、恐らくようやっと自身の立場を察したのであろう。……し乃雪がふと見遣った方向へと目を向け、そして。
駁螺は、凍りついた。
「……命、賭ける……と、さ。
さて、如何なさるかえ?」
その視線の先に、一人の姿がある。
人形の様に真っ直ぐ切られた髪、濡れても汚れてもいない真っ白な狩衣。
男とも女とも、大人とも子供とも付かぬ、人。
しかし、その眼にて、駁螺はそれを察した。
駁螺を射るその瞳……闇色の眼に金の瞳孔が、キュルと縦に裂けたのである。
「見付けたぞ……見付けたぞ!!見つけたぞ!!!」
「……ヒィ!!!」
駁螺は、引きつった様な声を出した。
それは見る間に身を破り、鵺の姿となり、
"ヒィィィーッ!!!ヒィィィーッ!!!"
耳をつんざく鳴き声と共に、雷鳴が轟く。
青白い光をその身に纏い、それは周囲をバチ、バチィと弾く。
駁螺はまるで鼠の如く、総てを投げ捨て駈け出した。
バシャバシャバシャ…跳ねる水の上を、しかし青白い稲妻は千鳥の如き音を立て弾け進み。
"バチィィィッ"
「げハ……」
駁螺の身を、吹き飛ばした。
小さな身は軽々と宙に浮き、白目を剥いてバシャンと地に突っ伏し。
それきり、動く事無く、沈黙した。
"さあさあ、さらさら……"
少し、雨の勢いが收まった心地。
それは何時しか五月雨の優しさと代わり、其処に佇む者達を優しく濡らす。
鵺は、人の姿と戻っている。
じっ、と、気を失った小さな男を見遣る眼は、哀れみを含む人の眼。
し乃雪は、その前に立つ。
慌てた二体の異形がその人を護らんとしたが、し乃雪が「案ずるなよ、」と優しく声掛け、二体は不安気に身を引いた。
「退け」
白い狩衣の人が、言う。
「その者を寄越せ」
「のぉ、お前さんは鵺の姿を借りた神様じゃの?」
し乃雪が、微笑む。
「恐れぬのか、汝は?」
「似た様な者は多く見て来た故、今更…な。
お前さんの邪魔をする気は毛頭無い、こやつは差しだそう」
「、」
「代わり、良ければ話だけ聞かせておくれ、聞きたい」
し乃雪は、微笑んだ。
柔らかな、しかし其処に駁螺に対する慈悲の色は無い。
それは、この先この男が如何なるかを薄ら知り得ている様で、しかし何たる感情も無い。
狩衣の人は、すぅ、と右手を横へ。
"カタ、カタカタ、ガタン"
し乃雪と共に籠へ放り込まれて居たあの木箱が、操られる様に籠より零れ落ちた。
箱がばらりと砕け、中より転がる河童の木乃伊。……それは流れる道の川にぽちゃんと落ち、じわり、水を吸い上げ。
やがて、それは白い着物を纏った人の姿となり、苦しげに身悶えた。その顔、狩衣と瓜二つ。
「……汝、吉原遊廓の妖狐太夫か」
狩衣が、唸る様に呟く。
「只の陰間、さ」
言えば、人形の如き顔にフッと笑みが零れ。
「成程……左様か。
妖住まう異界見る眼を持つ、"鬼子"と聞く。
成程、噂に違わぬ…否、それ以上の美しさ也」
「褒めても何も出ぬよ、」
「神は世辞を言わぬ。
……クク……我は只ならぬ者を敵に回そうとしておった様だ」
ゆるり、まるで人ならぬ、柳の様な身捌きにて、白き着物の者を抱き上げる狩衣。
もう、雨は止んだ。どんよりと立ち込める重い雲を見上げ、しかし再びし乃雪を見遣る。
「良かろう、」
「、」
「知りたくば西の森の真中へ来遣れ。酒位は出そう。
……汝の様な者、面白し」
やんわりと、その笑みは更にはっきりと。
其処で気付く。凛々しき顔、この"鵺"は男の形を取っているらしい。
「……そうじゃの。
なればお前さんも黒町屋へ何時でも来遣れ。
茶でも飲みながら、その"お連れさん"と話そう」
「それも、良いな」
ゆっくりと頷いた狩衣を、一陣の冷たい風がコォと包み込む。
巻き上がった水がパァンと弾けた時、其処には狩衣の男も着物の女も、気を失っていた駁螺までもが、跡形も無く消えていた。
遠く霞んだ背後より、し乃雪の名を呼ぶ声がする。
嗚呼、胸の何処かで待ち望んでいたらしい。
ほっ、と安堵したし乃雪は、自身の中にあった僅かな恐怖をかなぐり捨て、ゆっくりと振り向く。
其処には、息を切らして駆け寄り来る源三郎の、酷く心配そうな姿があった。
「…雪!し乃雪、お前!」
「何じゃ、遅いぞ源の字」
「済まぬ、…しかし、何があった?身は大事無いか?駁螺は何かしなかったか、」
まるで子を案じる親の様。
おろおろとし乃雪の身を確かめ、大事が無いと見るや、その見事な濡れっぷりをした顔に手拭いを差し出し。
しかしそれも随分濡れており、彼は慌てて水気を絞る。
「随分濡れているじゃ無えか、風を引いちまう」
「ふむ、そう言えば寒いの」
「黒町屋へ戻れば風呂があるだろうか?又世話になるは心苦しいが」
「ふふ、又お前さんの綺麗な肌が拝めるのかえ……」
「やめろ気持ち悪い」
すっぱり切り落とされ、しかしふははと笑い零すし乃雪。
顔に張り付いた髪が露の如くきらめき、それに気付いて源三郎が空を見上げる。
嗚呼、そう言えば久しく見ていなかった。
青く輝く空と、少し悲しげに浮かぶは、二つに重なる虹の橋。
し乃雪には、源三郎には
似合わぬ空ぞ。
二人はどちらとも無く、お互いを捻た。