河童(カッパ) ─壱、
櫻散リテ訪レタ 初夏ノ足音若葉ノ息吹
今年モ豐作願ウ夜 囃子ト共ニ練リ歩ク
今宵弌人ノシ乃雪ハ ハテサテ浮カレテ何處ヘ行ク
その日、し乃雪は起きてからずっとそわそわと落ち着きが無い。
まるでばったの如く布団より飛び出し、さっさと身支度を済ませた彼は、源三郎が酒残った薄ら眼にてゆるり起きた時には既に彼の枕元に正座していた。
「……幾ら何でも早過ぎるぞ、」
事情を知れども、起き掛けで掠れた声には呆れ色。それに、し乃雪は何食わぬ顔にてしれっと返す。
「何がじゃ、」
「まるで子供の様だ、そんなに祭りが楽しみか?」
「別に楽しみでは無いわえ」
「強がるなよ。昨日からもう落ち着かなかったじゃ無えか、」
寝間着を脱ぎながら言えば、し乃雪はほんのりとだけ頬を赤く染め、「違わい、」と強がりを零した。
今日より三日間、吉原近くの神社にて祭りが行われる。
この界隈、初夏にあるこの祭り、そして秋にある遊廓内の社にある祭りには、普段は見ぬ女や子供も含めて賑わう。
娯楽の少ない遊女達も楽しみに心踊らせる時期ではあれど、彼女達は遊廓の外に出る事は適わない。
「なればお前は如何なんだ?」
落ち着きの無いし乃雪に源三郎がそう訊いた所、酷く簡潔な返答にて彼は納得した。
「俺は遊女では無い故にな」
「嗚呼、……」
そうであった。
その容の美しさ故に、又忘れかけていた源三郎。途端、尚落ち着かぬし乃雪の姿が少年のそれに見得、妙に可愛らしく映ったらしい。
「昔の俺もそうだったなぁ、」
「何が」
「祭りとなりゃあ真っ先に縁日へ突っ込んで行ったものよ。
あれは如何してああも心躍るモンなんだろうな?」
「まあ、……神々が民の心を沸き立たせる節もあるのやも知れぬ故にな……
しかし、お前さんは今は違うのかえ?」
「昔程じゃぁ無くなったな…俺も歳を取ったのかねぇ、」
何気無くそう口にした源三郎であったが、それを聞きそっぽを向いてしまったし乃雪の心中を察し、ぺしんと額を叩いた。
初夏の、暖かな日差し。今日は青空が広がり、雨降る気配は微塵も感じさせない。
源三郎とは吉原の前にて別れ、今はし乃雪独り。あの男、この祭りに毎年何らかの形で参加しているらしく、今日は特に外せないのだと言う。
からっとした空気の中、そう言えば既に遠く神社の方より喧噪が聞こえ、すれ違う人の多さも相まって、し乃雪の顔は知らずの内に微笑みを浮かべた。
何時もなれば余り人が訪れぬその神社へ辿り着けば、昼下がりだと言うに既に人の海となり、活気が心地良い。
祭りとは何と華やかで美しきものよ…にこにこと笑みを浮かべ、酷く心を躍らせながらも一つ目の大鳥居の隅を潜る。
今日のし乃雪は、お気に入りの菖蒲柄の着物に小花文様の巾着、遊郭ならぬ場所故に化粧は抑え目。…しかし、そもそも女形にて揃えたのがどうも裏目に出たらしい。
「よお、別嬪さん!」
「綺麗だねぇ!何処へ行くんだい、」
ちらりとだけ目が合った男より声を掛けられ、し乃雪は又溜息を漏らした。これでもう五度目…どうやら、と言うよりも間違い無く、周囲の目にはまごう事無き女であると見得ている様子。
数歩歩く毎にこれでは一向に境内へ辿り着けぬ、不服ながらもやはり野郎帽子を着けてくれば良かったかえ……思いながらも無視すれば、男達は大抵憤慨してその白く細い手を掴みに掛かる。し乃雪は其処に指二本にて目潰しを食らわせ、転げ回る男を後目に何事も無く歩き出すのである。
しかし、又少しすれば同じ事の繰り返し。流石の彼もとうとう疲れ果て、狛犬像の足下にへなり座り込んでしまった。
嗚呼、詰まらぬ。
膨れ面にてゆるり周りを見渡し、溜息を付きながら。源三郎が暇であればもう少し面白かったのであろう……ほんの少しの不運を悔やんでいたその時、遠くよりしゃんしゃんと軽快な音が聞こえ、し乃雪は顔を上げた。
人混みの向こうよりちらりちらり見得る、唐草緑。し乃雪の視界にはぼんやりとだけその様が見得たが、法被と鉢巻の男数人に連れ添われて現れるは、見事な獅子舞である。
時折子供に睨みを利かせ大泣きさせつつ、しかしそれはゆっくり、ゆっくり、此方へ。この狛犬の側を通り境内へ向かうのだろう。特段気にもせずに居たが、どうやら少し違うらしい。気付けば、獅子舞は自分へと向かって来る様子。ガチンガチンと歯を鳴らしながら、金の目はし乃雪の紅い眼とかち合った。
おいおい、この姿は獅子舞まで呼びおったかえ……半ば無視しつつも見ていれば、獅子はし乃雪の目と鼻の先。それはガバリと口を開け、し乃雪の頭をすっぽりと飲み込み。
「よぉ、し乃雪太夫」
闇の中に、見慣れた顔があった。源三郎だ。
「……源の字!」
鉢巻を締め、酷く酒臭いが、どうやら然程酔ってもいない様子。ニッ、と笑った彼に、し乃雪は再び心が躍ったらしい。
離れようとした獅子頭の歯をぐいと手繰り寄せ、その唇に自分のそれを重ねた。彼にとっては挨拶に過ぎぬものであったが、驚いたらしき獅子は慌て、し乃雪の丸い額をがこんと噛んでしまった。
「痛って!……」
色気の欠片も無い悲鳴。星飛んだ眼を再び獅子へと向ければ、足のみ見得る彼は既に背を向け、ゆっくり、ゆっくり、し乃雪より離れて行く。
ほんのり桜色に染まった額をさすりつつ、し乃雪には笑顔が戻っていた。
* * * * * * * * *
縁日のにおいは夜の方が芳しい。
陽が沈み提灯の揺らめきが柔らかく人波を照らすその様を、先程落ち合った源三郎の手を引きつつ、し乃雪は笑顔にて味わう。…しかし、少しばかり気まずい心持ちもする。理由は、源三郎の膨れ面だ。
「……全く、驚いたのはこっちの方だ」
不機嫌に漏らす源三郎だが、今宵の直会には出ぬつもりらしい。「お前さんのお守りの方が大事だからな」と言う一言が、その怒りが本物では無いと言う事を表してはいれども。
「故に、済まぬと言うておろうて?ちょっと唇が触れた位じゃあ無いかえ、」
「何処がちょっと、だ!そう言う事は俺じゃあ無く客にやれってんだ!!」
「ほら、口直しに飴細工を食おうぞ?あすこの飴は綺麗でのぉ、」
「要らねえよ、」
「……ねぇ、源さん?機嫌を直しておくれ?ねえってば、」
「おい、泣き真似は卑怯だぞ!……嗚呼分かった、分かったから!」
外見が美しいとはどれ程得なのか。泣きすがる真似をするし乃雪を振り払おうとすれば、周囲より集中する冷たい視線の雨。ほとほと困り果てし乃雪をなだめ始める彼に、ぺろりと舌を見せる美人の笑顔。
「覚えておれよ、狐太夫め」
「覚えておれば何をくれるかの?」
「……全く、お前って奴は……」
人の不幸は我の幸。少女の様な笑みを見せながら、し乃雪は思い立って飴屋へと駆ける。毎年世話になる、馴染みの飴屋だ。挨拶がてら鳳凰の飴と龍の飴を買い、不満げな顔の源三郎へ龍の飴をそっと差し出した。
「詫びのつもりか、」
「否、お前さんに食わせて見たかった故にの。旨いぜ、」
言いつつ、し乃雪は鳳凰の尻尾を躊躇無く口に含む。薄く伸ばされたそれはやんわりと口の中で溶けていき、柔らかな甘みと僅かな香ばしさが広がる。
「……んふ…美味し」
ふわり浮かんだ笑顔。少女か、大人の女か…まっこと旨い物を口にした時にだけ見せる表情だ。
ふと見れば、源三郎がぼぅっと自分を見ている。「ねぇ?如何したえ、」と声掛ければ、はっと我に返った源三郎は慌てて龍の頭にかじり付く。頬が、少しだけ赤い。し乃雪にはそれが面白く、脇腹を軽くつついた。
と。
ふと、し乃雪は宵の宙をぐるり見回した。提灯の列をなぞる様で、しかし違う。その様をふと異質に感じた様子の源三郎、先の怒りを忘れた様に声掛ける。
「如何した、」
「……今年は来たかえ、」
「何が、」
「源、聞こえぬかえ?」
「だから、何が」
「ほれ……ほれ、見世物小屋の口上じゃ」
あちこち見回すし乃雪の眼には獲物を狙うそれが宿り、やがてぱっと歩き出す。袖を引かれた源三郎もよろけながら引かれ行き、辿り着いたのは大きな小屋であった。
蛇の体に女の頭、皿と甲羅を持つ猿、魚の尾を持つ女……古ぼけつつもおどろおどろしい絵が、壁板に描かれている。大きな入口と出口よりひっきりなしに客が往来し、古く甘い不思議なかおりと共に、入り口上方の台に座る背の小さな男がつらつらと語る口上が辺りを包み込んでいる。
はいはい
坊ちゃんからお爺ちゃん、
お嬢ちゃんからお婆ちゃんまで
さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい
お代は見てからで結構だよ
さあさあさあさあ入った入った
異形はびこるあやかし絵巻、間も無く始まるよ……
この喧噪の中、如何にしてこの声を見付けたのだろう。目を輝かせるし乃雪の側で、源三郎が少々怪訝な顔にて漏らす。
「入らずとも良いじゃねえか、化け物ならばこの前襖の幽霊を見ただろうに。
それに、お前だって」
「何だと?」
「お前だって化け物を飼っていやがるじゃねえか、と言いたかったんだよ」
「違うな」
「何が、」
くるり、源三郎の方へ向き直ったし乃雪。沢山の提灯の光を背に、それこそこの世ならざる姿に柔らかな笑顔を湛え。
「腹の内に嘘を仕込み披露する、彼奴等の愚かさが面白いのさ。
源三郎よ、お前さんは嫌いかえ?」
「ん、」
「"嘘"を直に視る事が、さ」
「この俺に怖えモン等あると思うかい?」
「嘘じゃの、」
「何だと、」
「俺が怖い、のであろうて?のぉ?」
尻尾を無くし丸っこくなった鳳凰に、し乃雪はちゅるり舌を這わせ。
「此処で待っておっても詰まらぬよ?さあ、行こうぞ」
袖をくいと引っ張れば、源三郎のへの字の口が少しだけ笑った。
相変わらず口上を続ける小さな男の側を、通る。その一瞬だけ口上が途切れたが彼等は特に気にする事無いまま、中へ吸い込まれる様に入る。
薄暗く、少しかび臭い。息の詰まる様な狭さ、しかしそれが心地良くし乃雪には感じる。
奥へと続く小道の側を、異形の剥製や木乃伊が所狭しと並べられ、此方をじっと見詰めている。外の喧噪から少し遠退いた事もあり、僅かに目眩を感じたし乃雪、何時の間にやら握っていた筈の袖を手放していたらしい。
「雪、何処だ」
大分手前の方より声が聞こえ、「此処じゃ。遅いぞ、」と返す。と、死んだ眼とは少し違う視線を感じ、し乃雪は顔を向けた。
右方だ。並ぶ木乃伊の列の中、河童、と書かれた札の後ろの木乃伊。先程外壁に書かれていたものに似、猿の様な毛と顔に額を剃られ、背に亀の甲羅を背負わされた、一見すると酷く粗末な作りの木乃伊だ。
……が、何故か目が離せぬまま、し乃雪はじっとそれを見詰め続け。
「その木乃伊がお気に入りかい?」
不意に声がした。ピクリ肩を弾ませ周囲を見回したが、誰も居ない……否、それは自分の足下に居た。
「なあ、お嬢ちゃん?こう言うものは好きかい?」
少ししゃがれた濁声にて、黄色い歯を見せて笑む、小さな男。自分の膝位しか無い身長にて目一杯見上げるは、先程入り口の上方にて口上を述べていたあの男である。
「何じゃ、」
「お嬢ちゃん、真っ白で綺麗だねぇ?神様の遣いの様だねぇ?
もしかして、吉原界隈で噂々の妖狐太夫様かい?」
「さて、ねぇ?」
クスクス。高めの声にて綻ぶし乃雪を、男は見惚れる様な仕草にて見遣り。その辺りにて漸く源三郎が駆け寄り、し乃雪に安堵の目を向けた。
「雪!此処か、」
「……おや、来ちまったね」
残念そうに舌打ちした男。後ずさりにて少しばかり身を薄闇へうずめた後、
「明日も来るかい?
明日もおいで、独りでね…お代はおまけしてあげようね」
ニッコリ。恐らく、男にとって精一杯の笑顔なのだろう。並びの悪い歯を惜しげ無く披露した後、奥方の闇へと消えていった。
「何だ、あいつは?」
訝しげに漏らす源三郎に、し乃雪は鼻で笑う。
「大方、この俺を見世物にしたいのであろうて。
さんざこき使われた挙げ句、死んだらこの河童と同じ…皮を剥がれて剥製かねぇ?」
「やめろ、縁起でも無え」
「さて、如何だか。日の本を回れる上死後もこの身を大事にされるなれば、吉原よりは良いかも知れぬよ?」
カラカラと笑いながら、奥方へと足を動かし始めたし乃雪。あの男が奥へ消えたのはどうやら座興が始まる故らしい、あの声にて先程とは少し違う口上が聞こえてくる。
「し乃雪、おい」
「嗚呼、そうだ源の字よ」
「ん?」
「"雪"と言う呼び方、良いのぉ。近しくなれた様で好きじゃ」
さあ、行こうぞ。再び源三郎の袖を引き、し乃雪は奥へと向かう。当の彼は少し照れ臭そうにしていたが、やがて奥方の開けた場所へ出、鮨詰めとなった人の多さと口上にて二人ほぉと感嘆した。
どうやら、奥の段にて座る女が此度の座興の中心らしい。左隅の台に座るあの男が、真っ赤な着物を身に纏う彼女を差しながら一生懸命話している。
はいはい
坊ちゃんからお爺ちゃん
お嬢ちゃんからお婆ちゃんまで
さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい
一度見とけば末代までの語り草、あやかし絵巻の始まりだ
秘境の話題、南蛮の謎
尾張の国は霊将山の
遙か奥地で見付けましたるこのお嬢さん
どなたがご覧になっても凄い美女だ
俺には負けるな。ポソリ呟くし乃雪に、しっ!と制する源三郎。
ところがこのお嬢さんに蛇をあてがいますと
何が嬉しいのかニコリニコリと笑い出し
両手に掴んだその蛇を……
「旨そうじゃの、」
その言葉に驚いた源三郎、見ればし乃雪の顔は真面。
「おいおい……やめてくれよ?」
「蝮は焼けば鳥の如くと聞いたが、」
「……お前はやっぱり此処の方が良いかも知れんなぁ……」
歓声の中、源三郎は手にしていた飴を再び口にした。が、ほぼ形が変わっておらぬそれが蛇に見え、直ぐに口より離す。し乃雪はそれを指さし笑えば、遊廓に劣らぬぬるぬるとした空気がほんのり軽くなった気がした。
ゆるり、ゆるり、揺れるは提灯の灯火。
まるでその空間全てが偽りの如く、それは酷く異質にて、二人の間を心地良く過ぎ去って行った。