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アヤカシ太夫♂とイロオトコ  作者: 駿馬
襖幽霊(フスマユウレイ)
3/12

襖幽霊(フスマユウレイ) ─弐、

鷄叫ビ明クル朝

呼バレタオ天道顏ヲ出ス

冰ノ色シタ遊女ヲ見ツケ

目覺メサセタハ禿ノ悲鳴


闇ニ住マウ者共サヘモ

埜次馬押シ競押シ退ケテ

 



 翌日、星消え霧晴れぬ早朝の事。

 あれから結局一晩中話に花を咲かせ呑み明かした源三郎であったが、しかし明けに見合わぬ騒ぎの声にて微睡の中よりうっすらと目を覚ました。

 人の騒ぐ声、走る音。未だ明け六つじゃ無えか…寝惚けながらもそう思った時だ。ぬくぬくと温かい布団と肌の狭間をひんやりとしたものがするり這い、その冷たさに身がビクンと跳ねた。


「っ冷てッ!」


 寝耳に水ならぬ、寝首に冷え手。ぼんやり視界定まらぬ目を横切ったものは白くほっそりとした手、その先に自分を覗き込む白き天女の柔らかな笑顔があった。し乃雪だ。


「源三郎様、お早う御座いんす」

「し乃雪、手前ェ…」


 何て起こし方をしやがるんだ、と喉元まで出掛るも、自分にのみ向けられた余りに美しい微笑みに怒りは一瞬で何処かへ吹き飛ばされ、グゥと唸りに変わる。


「何だよ、未だ陽も出て無ぇのに」

「外も内も騒がしゅうて起きてしもうた。黒町屋の花魁が一人、奥の溝にて浮いておるのだと」

「…何だと?」


 ほんのり残っていた眠気が、その一言にて総て吹き飛ぶ。良く耳を澄ませば、どうやら野次馬が真っ先に現場へと向かっている様子。噂を聞きつつ時折この見世の前にて立ち止まるらしく、遠くより続く声と足音がこの周辺にて弱まったり止まったりする気配も少なくない。

 ふと横を見遣るとさっさと男物の着流しに身を包み外へ出んとするし乃雪の姿があった。どうやら野次馬の中へ混ざろうとしているらしいが、反射的に「おい、」と声を投げる。


「何じゃ、」

「見に行くのか?」

「嗚呼。源の字、行かぬのかえ?」

「起きたばかりだ、身支度するからちょっと待てよ」

「なればさっさと動きなされ、片付けられてしまうわえ」


 表情は殆ど変えぬが、その眼はらんらんと輝いている。痩せ我慢の様に見得たそれがほんのり可愛くすら感じたが、しかし向けられている相手は"死"だ。不謹慎な、と言う言葉が喉元まで来たものの、彼はそれを口にする事はせず、代わりに自分の着物を手に取った。源三郎自身、この騒ぎが気になっていた故だ。



 * * * * * * * * * *



 黒町屋がある揚屋町より暫し歩き、吉原を囲う壁伝いに流れる"お歯黒溝"。騒ぎに気づいて目を覚ました人々は皆一様に其処へ集まっており、少し遅れて到着した源三郎とし乃雪、目の当たりにした人の壁に暫し口を噤んだ。


「…… この遠さでは見えぬな」


 ざわめきの中、漸くぽつり言い放つし乃雪。しかしそれ以上前へ進もうとはしない。


「さほど遠くは無いぞ、し乃雪?よもや目は悪い方か?」

「この目は今のお前さん位までしか見えぬ。それに、今の刻は酷く眩しい」

「何だ……詰まる所、お前さんに茶室へ呼ばれるまで俺の顔は見えなかったのかよ……」

「お前さんだ、と言う事は分かっておったぞ?故に呼んだのさ」

「嗚呼そうかよ……」


 思わぬ事を知り、がっくりと肩を落とす源三郎。が、今はそれどころでは無いとすぐさま気を取り直す。


「なら、近くに行かねば分からねぇな?行くぞ、」

「人だかりは苦手じゃ」

「此処まで来てそれを言うのかよ?分かり切った事であったろう、」

「けど、なぁ…」


 渋るし乃雪の手を源三郎はぐいと握り、強く引く。「痛い、おい源痛いって」となよりしなるし乃雪の身は引っ張られ、無理矢理にその中へ。「ちょいと御免よ、」と声掛けしつつやがて源三郎が、人一人分遅れてし乃雪が、漸く奥の開けた所まで辿り着いた。

 岡っ引は未だ到着していないらしい、人だかりが途切れた向こう側、溝の岸辺に転がるは事切れた遊女の身。一人の禿が縋り付くようにそれを揺らし泣きじゃくっているが、只ゆらゆらと為すがままに揺さぶられ、虚ろに天へ向けられた眼が禿へ向けられる事は無い。


「…夕凪(ゆうなぎ)じゃな」


 ぽつり呟くし乃雪。


「土左衛門かえ…否、膨れて醜い姿となる前であった故、未だ良き方か」

「昨晩死んだのか、」

「であろうな。昨日は何時も通り張見世(はりみせ/遊女を並ばせ見せる格子部屋)に向かう姿を見た故にな」


 そうか、と小さく呟いた源三郎、泣きじゃくる禿へと近付き、何言か声を投げ掛ける。涙でくしゃくしゃになった顔を上げたその子供、そう言えば見覚えがある。昨晩し乃雪の部屋へ酒を持ち来た禿であった。


「お前、」

「その禿は名を”ねね”と言う。夕凪の禿だが、俺に酷く懐いてくれての、時々ああして手伝ってくれるのじゃ」

「ねね、…… おねね、難儀だったな。さあ、お出で」


 源三郎の優しい声に、ねねは再びぼろぼろと涙を零しながら源三郎へと這い寄り、大声で泣きじゃくった。源三郎はその小さな身をそっと抱き締め、その姿はまるで父子の様に優しい。

 その様子を眺めつつ、し乃雪は屍へと歩み寄る。ヘドロの悪臭に顔を歪める事無く直ぐ傍に跪き、違和感。


「……ん?」

「如何したし乃雪、」

「ふむ……やけに綺麗だと思わぬか?」

「屍が綺麗だと?」

「違う、着物が、じゃ。乱れが無い」

「ッてぇと、」

「……」


 言葉途切れ、再び屍へと目を遣るし乃雪。彼の向かいへ同じく跪いた源三郎、確かになぁ…と呟きつつも、何かを思い付いたらしい。ぐいと屍の腹を押した。ごぼ、とその鼻と口より少しばかり水が溢れ、しかしその様子を見た源三郎はゆるりと目を細める。


「成る程、確かにおかしい」

「今のは?」

「お前さんが気付いたもの、の裏付けだ」

「意味が良う分からぬが」

「良いかし乃雪太夫。もし…」


 言い掛けた辺り、二人は顔を上げた。遠くより岡っ引の声と走り来る気配がした故だ。

 このまま此処に留まるは少々拙い。悪事とまでは行かぬが、奉行に疑われれば面倒な事になる…察し、源三郎はし乃雪とねねを立たせる。


「し乃雪、夕凪の部屋は分かるか?」

「嗚呼。…よもや、あれかえ?襖を見に行くのかえ?」

「そうだ。それ以外の事が何か分かるやも知れぬしな……」


 言いつつ、その場を後にしようと二人の身を押す源三郎。

 今一度屍の方へと振り返った彼であった…が、一瞬だけ眼が屍の一部に止まり、細められ、又離れた。もう一つの違和感を見付けた故であったが、それをまじまじと確かめる暇は無く、彼等は再び野次馬を掻き分けて元来た道を戻って行った。


 二人の手を引く源三郎の横顔が凛々しく男前で、男姿のし乃雪が女の笑みでそれを見詰めていた事を、当の本人は知る由も無い。



 * * * * * * * * * *




 し乃雪がいつも暇を持て余しているあの茶屋の、後ろに位置する建物。この黒町屋と言う見世は他の見世とは少々勝手が違い、見世より茶屋へ花魁が迎えに行く時は待たせずに済むが、代わりに黒町屋が抱える花魁の花魁道中が余り無い。それは建物が内部で繋がっている故であり、此度も茶屋の玄関を潜ったし乃雪は絢爛豪華な廊下をすすすと歩み、奥へ奥へ。その後ろを着いて歩く源三郎、装飾の美しさに暫し事件を忘れていたが、やがて立ち止まったし乃雪の身に軽くぶつかり我に返った。


「おっと!」

「何じゃ、呆けたか?眠たいか、」

「じゃ無ぇよ。お前にはこの派手な廊下が似合うなぁと」

「褒め言葉じゃの?」


 ふふ、と笑み零した男姿のし乃雪も又、美麗。見惚れ掛けたが、否々と首を軽く振り。

 そう、この男は男だし、今はそれどころでは無い。

 そう言えば、し乃雪が立ち止まった其処は鳥居の如き赤漆の柱と金の装飾で囲まれた木戸があり、夕霧の間、と彫られた木板が上部に掛けられている。いかにも花魁の逢瀬部屋…好奇心と見えぬ壁が、源三郎を僅かに戸惑わせる。


「で、…この部屋か?」

「そうじゃ」

「そう言えば、夕凪は散茶であったよな。黒町屋で上の方か、」

「”花魁”だけ、なれば二番じゃな。一番には眞鶴(まつる)が居る」

「花魁だけじゃ無ければ、」

「太夫と呼ばれるこのわっちに言わせる気かえ?」


 向けられた笑みが僅かに恐ろしい。コホン、と咳払いにて場を濁しつつ、彼はし乃雪を押し遣って木戸へ手を掛け、開いた。

 金銀錦にて彩られた、眩しい部屋。木彫りの龍が天井を飾り、屏風より鳳凰が溢れ、贅を極めた部屋だ。源三郎には少しばかり馴染みあるその光景、しかし部屋に敷かれた布団が乱れており、逢瀬の生々しさが垣間見える。

 二人はそうしてぐるり見渡した後、異変に気付き同じ方を見た。襖だ。


「…おお…、」


 し乃雪が、嬉しそうに声を上げる。


「見事じゃのぉ…これなれば噂にもなるわえ」


 其処にあったのは、し乃雪の背程もある大きなシミだ。

 成る程、噂通り。まるで戸板に張付け川に流されたお岩の如く、ざんばらに撒いた黒髪から悶え苦しむような表情、顔貌、そして着物の柄まではっきりと見て取れる。間違い無く、見るものが見れば先日に死んだたえ葉に見得、恐れおののくであろう。

 し乃雪はその濃く浮き立ったシミへと近付き、細くしなやかな指でするり撫でる。不気味にて妖艶なその仕草に怯えたのだろうか、そう言えば源三郎の背後にねねは隠れ、彼の帯を引っ掴んでぷるぷると震えている。


「ん?…ふふ、おねね。怖いかえ?」


 気付いたし乃雪が声を掛ければ、ねねはちらとだけ源三郎の影より顔を出した。が、直ぐに引っ込む。


「そりゃあそうだろう。し乃雪、今のお前さんはそのシミ位恐ろしい顔をしておるぞ?」

「何じゃ、俺は妖かえ?」

「ねねには少なくともそう見得るんだろうよ」


 ぷぅと頬を膨らませるし乃雪、くつくつと笑う源三郎。やがて彼はねねの前に背を向けてしゃがみ、小さな体を背負った。ねねは大人しく背負われ、少しばかり嬉しそうにすり寄る。


「似合うじゃないか、源の字?父子そのものじゃ」


 からかい返せば、「煩ぇ、」と悪態。


「可愛そうだろうが、あんなに慕っておった姉さんを亡くしたのだからよ」

「確かに、そうじゃのぉ…お前さんは優しいな、なれば俺にも同情してくれるのかえ?」

「お前さんが売られた事には同情するが、今の妖しい顔には同情出来ねぇよ」


 言いつつも、ふと源三郎は足元に広がる布団に目を落とし、場にしゃがんだ。何かを見付けたらしい、じっとその場を見詰め続ける源三郎に、し乃雪の眉根がほんのり寄る。


「ん、如何した源」

「俺には如何も、その襖幽霊が下手人(げしゅにん/殺人犯)だとは思えぬ」

「ほぉ?岡っ引気取りかえ、」

「悪いか、」

「色男じゃのぉ?」

「言ってろよ。……しかし、なればそのシミ幽霊は如何にして夕凪を殺めたと思う?」


 言葉を連ねるも、その眼はずっと足元を見詰めたまま。し乃雪も漸く気になり始めたらしく、ゆるりと襖より離れてその傍に跪いた。

 源三郎が見詰めていたのは、枕元の敷布団と畳の境目付近。良く見れば、その畳にはうっすらと頭一つ分程のシミ…しかし、敷布団をめくればその下にシミは無く、半円の形となっている。そう言えば、敷布団の方にはそのシミは見当たらない。


「ほぉ」

「何じゃ、」

「見ろよ。シミが半月だ」

「だから如何した?」

「気付かねぇなら良い。…それに、これは」


 畳に着いたシミ、その上と周辺には何か白いものがこびり付いている。そう言えばその白いものもシミそのものもうっすら薄汚れており、濡れた埃の如き繊維状のそれをつまみ上げた源三郎はふむ…と顎を擦る。何も教えてくれぬまま思いに耽る源三郎、とうとうし乃雪は痺れを切らし、パシンと肩を叩く。


「何だよ、」

「勿体ぶらずに口に出せ、詰まらぬわえ」

「お前さんも少し考えてみたら如何だい?俺は何と無く下手人が分かって来たぜ」

「分かって来た、とな?その口振り、つまる所あの襖シミの仕業では無いと」


 言えば、今度は源三郎が妖しい笑み。


「雪、」

 少々わざとらしく、源三郎はし乃雪に向けた。不意に目が合ったし乃雪、間の抜けた返事を返す。

「ん、あ?」

「その押入れの中に布団が入っておる筈だ。彼女にゃ悪いが、ちょいとその襖を開けて見てくれぬか」

「あ?嗚呼、」

 言われ、し乃雪は何の疑いもせずに押入れを開け……

「……何、だ。随分重……」

 だが、妙に襖が重く、ギギと嫌な音を立てて上手く開かない。

「こなくそッ……」

 ギギギギギ、と縁に新たな溝を作る勢いで無理矢理こじ開けた所で、中から布団が雪崩のように崩れ、し乃雪を襲う。

「うあぁ!?」

 ドドド、と潰されたし乃雪は、しかし直ぐに這い出、乱れた妖艶な姿で、しかし酷く必死な形相で叫んだ。

「冷ッて……何じゃこの布団、濡れておる!」

「成る程な、」

「源、お前……よもや知っていて俺に開けさせたか、」

「いやいや悪い悪い、まさか雪崩てくるとは思わなんだ」

「畜生、気に入っている着物なのに……シミになってしまうわえ」

 不機嫌に頬を膨らませるし乃雪、源三郎の様子を一瞥し、唸る。

「で?多大なる犠牲を払って源の字めは何か分かり得たのかいな?」

 わざとらしく話を振れば、返って来たは不敵な笑顔だ。

「嗚呼、居るぜ……怖ぇ怖ぇ『バケモン』が別にな」

「ばったもんの妖は要らぬよ?」

「お前さんが言うたんだぞ?妖話は人の業、とよ」

「ふむ、確かにそうじゃが」

「なんてな。案ずるな、俺は其処まで意地悪じゃない。

 後で酒を飲みつつ肴に謎解きでも如何だい?」


 少し不機嫌そうなし乃雪の頭を、大きな手がぽんぽんと撫でる。それが酷く温かく感じたし乃雪であったが、同時に小莫迦にされた様な心持を覚えたらしい。ぱしん、とその手を払い、膨れ面で着流しを翻し。


「仕方無し、付き合うてやろう。但し」

「但し、」

「詰まらぬ謎解きであったなれば、その頬を抓ってやるからな?」


 振り向きにこりと笑った顔に、悔し紛れの痩せ我慢。

 そのまま部屋を後にするし乃雪、そして大きな背よりストンと降りて慌てて付いて行く少女の姿を、源三郎は暫し見詰めていた。時折見せる人間らしい表情が中々…一瞬たりそう思ったが、直ぐに首を横に振る。

 あの白い人を見ていると、如何も未だ女に思えてしょうがないらしい。



 * * * * * * * * * *



 少し不機嫌めに歩み行く細身の着流し姿に少しばかり着いて歩き、す、と自室の襖を開けたその様を、源三郎は当たり前の如く眺めていた。何事も無い故にそれは当然の流れ…であったが、そのままひたり動かなくなってしまったし乃雪に、暫し間を置いて漸く気付く。


「し乃雪?」


 まるで木と化したかの如きその様、訝しみつつ小さく声を投げた時だ。その呼び掛けにて何か糸が切れた様に、やがてその背の肩が小刻みに揺れ、それは笑いへと変わっていく。


「何だ、如何した?」


 源三郎とし乃雪の間に居たねねが、部屋を覗いて俄かに怯えた様子を見せ、たっと廊下へ走り去った。振り向かぬし乃雪の様子も見るに、どうやら部屋の中に何かがあるらしい。

 そっと、不気味に笑うし乃雪の横より部屋を覗き見、途端うっと声を漏らした。

 其処には何も無い。何時もの殺風景な部屋、…しかし、押入れの襖に、縦に長い大きなシミが出来ていたのである。


 “ざわり”

 シミが、動く。蟻の大群が動いているかの如く、しかしまっことそれはシミであり、やがてゆっくりと人の形となり。

 乱れた髪の、恨めしそうな死に顔が、ゆっくり、ざわざわ、し乃雪達を、……見遣った。


「…何、だ…これは、」

「嗚呼、面白いな源三郎!」


 そう言えばけたけたと笑い止まらぬ様子であったし乃雪が、漸く涙を拭きながら源三郎へと眼を向けた。濡れた紅玉の瞳は酷く美しいが、それが何故に濡れているのかを知る源三郎には趣も何も感じない。


「…あのなぁ、この一大事に良くも笑っておられるな?」

「これ程面白き事は無かろうて、このシミ幽霊は俺を女と見たのじゃぞ?」

「……幽霊が間違えるのかよ……」

「何じゃ源の字?俺を女と思うて十九両も注ぎ込んだ癖に」

「それとこれとは」

「別…とは言わせぬぞ?」


 恥ずかしそうに顔を上げた源三郎の胸元を、つるりと指が滑る。色めいたそれが何とも妖しく、ぐぅと声が漏れた。


「しかしだ、お前さんの身が危ないと言う事だろう。

 怖く無いのか?」

「何を申す?怖いさ」

「、」

「しかしな、源の字。

 お前さんは何故に危なや怖やと訊く?」

「何故にと?」


 白磁の様に白き顔に、浮かんだ笑顔が妖しく変わる。

 薄暗き部屋へ臆する事無くするり入ったし乃雪、ふわり舞う様に畳を歩み、やがて何時もの窓辺に腰を下ろし。


「このシミが真に幽霊なれば、何かを思うて出て来たと言う事。

 思いを知れば無念が晴れる、無念が晴れれば其処でお終い、となろうて?」

「そりゃあそうだが、」

「なれば、訊こう。…とはならぬかえ?」


 それを聞いた源三郎、しかし眉根が寄るばかり。どうやら言葉の意味は理解すれど、俄かに信じられるものでは無いらしい。其処で漸く彼も部屋へ踏み入り、恐る恐るし乃雪の傍に胡坐をかいた。


「訊けるなればとうにそうしておるだろう…しかし、相手はシミだし死人だぞ?

 そもそも、無理じゃあ無いのか。

 それとも、坊さんか(まじな)い師でも呼ぶのか、」

「お前さんなぁ、」


 意味深長にくつくつと笑う、し乃雪。口元隠すその仕草はゆるりと柔らかく、まるでしなやかな猫の如く。


「まぁ、良いわえ。

 のお源三郎。そう言えば何と無く下手人が見えて来たと言うておったが。

 先ずは其処から聞こうかえ?」

「話を変えるなよ、」

「物事には順番があろうて?お前さんが先じゃ、余計な事を吹き込めばややこしくなる」


 その”余計な事”を持ち出し掛けたのはお前の方じゃあ無ぇのかよ…。

 そう、し乃雪には聞こえぬ様に声に出さず呟いた時、先刻逃げて行ったねねが丁度良く入口の襖を開けた。恐る恐る、しかし足早に近付いて二人の傍へ置いた物は、酒の徳利と猪口が乗った盆である。


「おいおい、晩には早いんじゃあ無ぇのか、」

「何と、お前さんは昼は呑まぬのか?」


 し乃雪が言えば、返って来るは苦笑。


「昼間から毎日呑んでいやがると楽しみが減るからな」

「酒の飲み方すら拘るか、面倒な男じゃ」

「其処は粋だと言う所だろうが、」

「粋と面倒は紙一重じゃの?

 で、」


 窓の縁を降り、すす、と身を寄せ来るし乃雪。嗚呼そうか、これは催促の時に必ず来るものなのか…と源三郎は気付き、彼が切り出す前に口を開く。


「幽霊の前での謎解き話は少々気が引ける」

「詰まらぬ事を申すなよ。どの道何かが起きるのじゃ、構わぬであろう?

 ほら、話し遣れ。お前さんの声は心地が良い」

「しょうが無ェな…、」


 酒の代わりにねねより差し出された湯呑を受け取りながら、ふぅと息を整える。ほんのり漂った沈黙の合間を、どうもこの真下に来たらしい、瓦版屋の威勢良い声が割って入り、し乃雪の眼がふと窓の下へと向いた。どうやら花魁の連続死を面白可笑しく仕立て上げているらしく、野次馬の勢いも上々、騒がしい。


「この様な所に瓦版屋たァ、珍しいわえ」

「……」

「源三郎、如何した?」

「ふむ………」


 ふと見れば、源三郎の表情が少し曇っている。瓦版屋の不謹慎加減に呆れているのだろうか…し乃雪は勘ぐる様子でその顔を覗き込んだが、源三郎は直ぐに表情を戻し、湯呑を啜る。


「成る程な」

「何が成る程じゃ?気になるだろうが、」

「今に分かるさ。なれば、話そうか…

 先ず、だ。夕凪の死に場所、お前さんは何処だと思う?」

「嗚呼?そりゃあお歯黒溝であろうて?」

「如何してそう思うんだ?」

「あすこに亡骸があった、それに……… 、」


 嗚呼…!と一言漏らしたし乃雪、何かに気付いたらしい。ぺしんと自らの額を叩いた後、漏らす様に訂正する。


「そうかえ、……服が乱れておらなんだ」

「そう」

「しかし、幽霊に唆されて自ら飛び込んだとも考えられぬかえ?」

「じゃあ、逆の方より考えてみようかね。

 なあし乃雪太夫。あの部屋…逢瀬部屋、色々と可笑しき所があったであろう?」

「嗚呼」

「まず、水を零した様な跡。半円状に残った畳のシミ。濡れた布団。

 それに、畳の上に随分と白っぽいカスが残されておった」

「白い、カス?」

「何だと思う?」


 少したり考え、小さく零す。


「摩羅のかえ?」

「戯け!紙だ紙!」


 紙ィ?と、し乃雪の頓狂な声。それに頷きつつ、源三郎は一口茶を啜る。


「詰まり、…これは俺の推測だが。

 眠っておる夕凪にそろそろと水を掛けて殺める、」

「殺めるだけの水が流されたと思えぬが。普通なれば、あれだけの水では只飛び起きるんじゃあ無いのかえ?」

「知らぬよな?水はな、入る所を間違えばほんの少しばかりでも人を彼岸送りにしちまうのさ。故に何処ででも溺れ死ぬ事は出来る」

「へぇ、入る所ねぇ?」

「で、亡骸を退かして水を紙にて拭き取り布団を変える、亡骸を運びお歯黒溝へ投げ捨てる…と」

「紙にて、拭き取る?そんなたかが紙、誰でも持ち歩く事が……、」

「只の紙なら誰しも持ち歩く。問題は、"量"と"何の紙か"、だ」


 言うと、源三郎はおもむろに懐を弄り、一枚の紙を取り出した。四つ折りにされ、少々黄ばんだ紙。それは大分薄く作られ、中に書かれているであろう文字が随分と裏へ滲んでいる。


「恐らく、コレだ」

「コレ、とな…… 嗚呼!」


 自慢気に広げてみせたその紙に、し乃雪は指差して頷く。総てが合点行った所でぽんと膝を叩いたその眼、ちかりと紅玉の如く輝き、やがて笑いへと変わる。


「これ、をだ。例えば水を拭き取れる程に大量に持ち歩いていて、尚且つ怪しまれぬ奴…さぁ、誰だ?」

「成る程なぁ……見事じゃのぉ、源!お前さんは何か、その頭の”早さ”は御用聞きかえ?」

「褒めるなよ。…まぁ、御用聞きじゃあ無ぇが似た様なモンだ」

「そうかえそうかえ、なれば次は俺の番じゃの」

「何だ?お前はお前の考えがあるのかい、」


 言えば、鮮やかに塗られた小振りな唇がニッと釣り上がり、楽しそうな声を零す。


「考えじゃあ無いよ。"答え合わせ"、じゃ」

「答え??」

「推するよりも易き事。当の者に、訊けば良い」

 すぅ、と立ち上がったその姿、何処か幽霊の如く儚げに見え、源三郎が持つ湯呑みすら冷たく感じる。

「まさか、(やっこ)さんに、か?」

「いんや。"これ"、に、じゃ」


 すすと歩み寄り、立ち止まった場所。それは、あの幽霊が浮き出た衾。まるでじっとし乃雪を見詰めている様な黒いシミの眼が、トントンとし乃雪が叩いた衝撃にほんの僅か細められた様に見えた。


「……はッ、」


 源三郎が吹き出す。


「だから、よぉし乃雪太夫?先も言ったが、その衾に如何して訊くつもりだい?」

「のぉ源の字?お前さんは先程「坊さんか(まじな)い師でも呼ぶのか」、と訊いたな?」

「嗚呼、それが如何した?」

「坊さんも呪い師も要らぬが、あながち外れてもおらぬ」


 言いながら、懐より取り出したものは真っ白な紙。それを慣れた手つきにて紙縒(こよ)りにし、し乃雪は近くの行灯よりそっと火を着けた。ちりちり…と囁きながら燃え始めるそれに、何言か囁きながら…言葉は聞こえぬが、やがて蝋燭の如き火をパン、と両手で潰す。


「お?おい、」


 火傷するぞ、と言わんとした口が、しかし次の時にはあんぐりと開いたまま、鳶色の瞳がそれへと釘付けになった。

 し乃雪を、真っ赤な炎がぐるりと囲み、やがて猫か虎、若しくは人にも似た形の異形へと、形を成した故だ。

 言葉を紡ぐ事すら出来ぬ間に、それはなぁぁお!と一声嘶(いなな)いた。そして再び形を変え、し乃雪の腕へと絡みついて大きな爪の様な姿となる。


「……何だ、其りゃァ……!」

「まぁまぁ、」


 先ずは見ておれよ。そう呟くし乃雪の、大爪の如き両手が、そっと衾の中へと入っていく。水の中へ沈め行く様に波紋が広がり、爪は衾絵の中にて墨の様に黒い。

 爪は、ゆぅるりと、幽霊のシミを掴んだ、両の手にて包み込む様に、やがてそぉっと、衾より引き上げ。

 姿が衾の向こうより此方へちらり現れた瞬間、幽霊はし乃雪へと抱きついた。


「おい、し乃雪!」


 襲われたか、と身を乗り出し掛けた源三郎であったが、どうやら違うらしい。シッ、と人差し指を唇へあてがったし乃雪、やがて聞こえぬ程に小さな声にて何かを語りかけ始めた。

 ……少し離れた所より、気が気では無い様子で見ている源三郎。…そう言えば、よく見るとあの幽霊はたえ葉では無く、先刻見た屍…夕凪だ。憂いを帯びた悲しげな瞳は、やがて朧気にて美しき姿にて、源三郎に深く一礼し、すぅと消えていった。



「…… 始終、知り得たり」


 そう声を上げたし乃雪の手に、もうあの炎の爪は無い。くるり振り向き、何事も無かった様に窓の縁に腰を下ろす。

 対し、状況が分からぬままの源三郎は少々立腹したらしい、眉を吊り上げダンと畳を殴った。


「…何が始終知り得たりだ!」

「んッ?」

「腕が燃えたり幽霊に抱き付かれたり、驚かせやがって!取り憑かれておらぬだろうな!?火傷は無いのか!?」

「驚いたかえ?」

「嗚呼驚いたさ、お前が如何にかなるんじゃあねぇかとな!」


 その言葉にて、し乃雪は眼をまぁるくした。驚いたらしい、暫しそのまま源三郎を見詰め、やがて少し狼狽した様に頬を染め僅か目を逸らした。その仕草が若いおなごの様で、源三郎も拍子抜けした様子で茶を口に含む。


「…… 何だ、急に赤くなりやがって」

「言われ慣れぬ言葉であった」

「そうか?」

「俺が、如何にか、か……フフ」

「嬉しいか、」

「大抵は妖扱いじゃ。その驚いた様が面白うて意地悪しておったが、…お前さんは稀有じゃのぉ」


 喉元を擽られる猫の様に目を細め、擦り寄って来た身を、しかし源三郎はするり交わす。「いけず、」と笑ったし乃雪の鼻を、浅黒く太い指がぶにと押し上げた。


「ふがッ」

「そんな事より、し乃雪!」

「何じゃぁぁ」

「知り得た事、教えろよ!あすこまでして何か得たのだろう?気になるだろうが、」


 尚押し上げ続ける指を掴んだし乃雪、先刻とは違う不敵な笑みを浮かべる。女の妖しさと男の大胆さが混じり、不思議な魅力が源三郎の胸を叩き。


「ご名答であったよ、源三郎。

 ついでに下手人の目的も、夕凪達の意図も知れた」

「おおお?」

「まぁまぁ、しかし終わってからでも遅くはなかろうて」

「と、言うと」

「お伽話の裏側は幕が閉じた後の方が面白い、……違う、かえ?」


 そうほくそ笑みながら、ふとし乃雪は表を見た。

 窓の外に居る、先刻より其処に居た、者。以前よりじっと此方を見詰めてくるそれと、目が合った。

 し乃雪は、笑った。はんなりと笑む華の如き笑みは、しかしその奥底に毒を含んでいる様で、酷く美しい。



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