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蠱(コ) ─壱、

 


毒ニ犯サレ逝クカノ如ク

日ヲ追フ毎ニ痩セ行ク體


星輝ク度恐怖ガ降リテ

今宵モ恐ロシ闇ノ蛇


 

 


 ず


 ずず


 ずずず



 明かり一つ無い、闇の中。

 何時も訪れる、夜。


 丑三つ時。

 畳の上をゆっくり這い回る、複数の鱗の音。



 ずずず


 ずず



 まどろみの中よりぞくりと悪寒を感じ、浮き上がった意識。

 体温で温もった布団の中に、それは入り込み


 脚に、触れた。



 ず


 ずずず


 ずず



 動かぬ体。


 ぐるり、ぐるり

 巻き付いて


 脚から、腕から、首元から

 着物の中へ



 血の気が引いていく、手。

 見開いているのに、何も見えない、目。

 流れていく、冷たい汗。



 二又の舌が、唇をちろちろと舐めた。

 荒くなり行く胸の動きを、胸に巻き付いた太い胴が押さえつけた。

 風も当たらぬ肌の上を艶めかしく滑り、



『ず、』



 腹へ、割り入った。



 脳天までそのえもいわれぬ感覚が響き、

 しかし、声どころか息すらもまともに出来ず。


 誰か

 誰か、助けて


 涙を流しながらそう思うた時。



 腹の中で、それは大きく口を開いた。

 恐ろしく不快な感覚に、上げた悲鳴が漸く声となった。


 嗚呼

 また、何時もの様に


 それは、自分を

 内より食い破るのだ。





 * * * * * * * * * *




「ひっ!! …………、」


 がばり。

 自分が上げた声で我に返り、し乃雪は飛び跳ねる様に起き上がる。

 息が詰まっていたらしい。冷たい空気が急に胸中へと入り込み、肌を珠の様に流れる汗と共に熱く火照った体を急激に冷やした。


「………………」


 ぼたり、ぼたり

 乱れた髪の毛をかきあげ、落ちる汗を拭く様に冷たい片手で顔を覆う。

 息整わぬ胸を落ち着かせ、しかしぶるぶると震える手に温度はなかなか戻って来ない。



「……如何した、雪……」


 久々に遊びに来ていた源三郎が、寝ぼけ眼を擦りながらし乃雪へと手を伸ばす。逞しい手は体を支えているし乃雪の左手に触れ、柔らかな体温を伝えてくる。し乃雪は未だ汗だくな顔で無理に笑顔を作り、源三郎へと向けた。


「……何でも無いわえ」

「手……冷たいぞ、」

「お前さんの手が温かいのさ。今宵は寒うてのぉ……気持ち良い、」

「ん…… ならば、入るか?」

「否。お前さんが眠れなくなるであろうて?」

「大丈夫か?」

「……余り優しくするな、惚れるわえ」

「………… そう……か……」


 次第に声は小さくなり、手を握り締めたまま源三郎はまた眠りのまどろみへと落ちていった。



「…………」


 湛えていた笑みが自然に消え行き、し乃雪は寂しそうにその手を握り返す。

 幸せそうな顔で、源三郎は静かに寝息を立てている。握られた手の冷たさを感じたのか、ほんの少し微笑みを浮かべた。



「……優し過ぎるんだよ、お前さんは……」


 くすり、零した後。

 寝間着の袖より漏れる自分の腕に否応無く目が行き、青冷め。ぐいと袖を捲り上げ、其処にあったものに大きな溜め息を漏らした。

 あの忌まわしい夢の痕跡の如く、ぐるりと腕を巻く菫色の痣が其処にあった。

 此処数日、ああして目覚める度に鮮やかになっていく。 ……恐らく、全身に同じ物が。



「……」


 やはり、源三郎の厚意に甘えれば良かったか……。

 後悔を胸の内に秘めながら、し乃雪はもう一度布団の中へと潜り込む。

 もう今宵は眠れぬな……そう呟き、彼は再び源三郎の手を握り、胸元で抱き締めた。



 * * * * * * * * * *



 し乃雪の夢見が悪くなったのは、源三郎が仕事でこの吉原を少々離れた数日間の事だ。

 特に誰かに恨まれる様な事を今はしていない筈なのだが、如何も自分は誰かに恨めしく思われている様で。毎夜、まるで何かの呪いの如く同じ夢を見ては真夜中に目が覚め、以降一睡も出来ず日の出を拝む……その様な毎日が続いている。



「……何だ雪、お前随分顔色が悪いじゃねえか」


 し乃雪の異変に漸く気付いた源三郎が起き掛けに放った一言に、目の下にうっすらと隈を作ったし乃雪が疲れた様な苦笑を零す。


「……そうかえ?」

「嗚呼、随分やつれておる。昨夜、あれから眠れなかったのか?」

「否……此処最近は寝付きが悪いのさ。気にするな……如何と言う事は、」


 言いながら立ち上がろうとしたし乃雪の体は、しかし力が入らないらしい。目眩と共になよりと崩れ、再び布団の上へと座り込んでしまった。

 その体を両手でがっしと受け止め、覗き見るは源三郎の心配そうな顔。目眩を振り払ったし乃雪はその顔を見上げ、笑う。



「お前さん……まるで妾の如き扱いをするのじゃのぉ、昨夜と言い今と言い」

「何?俺は未だ独身だぞ、」

「食い付く所が違うわえ……」

「そうか?

 それよりお前、病か?」

「案ずるなよ、心配無い」

「……嘘を付くな、雪」


 急に源三郎の声色が落ち、真剣な顔を向けられる。しかし、


「嘘では無い、自分の具合は自分で分かるわえ」


 とん、と寝起きで肌蹴たままの胸を押し、し乃雪は意地悪な笑みをにかりと見せる。その笑みは源三郎の不安を妙に吸い取り、やがて眉根を寄せた源三郎は「……ならば良いが」と零した。



「のぉ。源三郎、」

「如何した、」

「俺は友達だよ?」

「嗚呼、それが如何した?」

「………… 他の友人にも同じ態度かえ?」

「嗚呼。変か?」

「……………… さて、俺に友人は居らぬからの」


 問うた俺が阿呆であったか……

 源三郎の性格を思い出し、はぁと溜息。



 と、体を離した所でぱたぱたと廊下の階段を小走りで上がる音がし、二人は反射的に出入り口の襖へと目を向ける。


「お早う御座いますし乃雪太夫、霞で御座います」


 柔らかな物腰の、澄んだ声。

 人に化けた妖は時間の概念が希薄の様で、こうして早朝に彼等が来る事は珍しい事では無く。今朝のし乃雪達も、嫌な顔一つせずに「嗚呼、お入りなされ」と彼女を呼んだ。


「失礼致します……」


 きちんと正座に三つ指立てて、襖を開けた霞は深く頭を下げ。


「太夫よ……あら、源三郎樣も」

「よお、」

「丁度良う御座いました、美味しい(きのこ)を沢山取って参りましてね。宜しければ朝餉(あさげ)昼餉(ひるげ)に如何かと」

「ふむ……茸汁位なら喉も通るやも知れぬの、」

「雪、お前飯も食えて無いのか?」

「ん?……嗚呼、否……」


 怖い顔をして睨む源三郎から顔を逸らせ、し乃雪は気まずそうにまた苦笑を漏らす。その様子を朗らかに眺めていた霞であったが、ふと何かに気付き、し乃雪の顔を覗き見た。


「……太夫?」

「何じゃ」

「憑かれておられますわね?」

「んっ?」


 微妙な言い回し故、し乃雪と源三郎が同時に聞き返し。その様が面白かったのだろう、霞はくすくすと笑いながらもう一度口を開いた。



「ですから、『憑かれておられます』、と申し上げたのです。

 し乃雪太夫に憑く輩がおる等、世の中には変わった御仁もおられますこと」

「……そうか、俺は憑かれておるのか?」

「えぇ……」


 其処まで言い、霞はきょろきょろと辺りを見回し。押入へ振り向いたかと思えば、彼女は躊躇する事も無くカラリと戸を開け、頭を突っ込む。



「……霞?」

「……………… 嗚呼ほれ、居りましたわ」


 すぽん、と押入より頭を抜き、その手にしっかと掴んでいるのは真っ白な小動物だ。し乃雪と源三郎はそれを見て直ぐに言葉を発しようとしなかったが、それは霞の行動が余りにも淡々としているからであろう。

 直ぐに気を取り直し、じたばたと暴れる小動物を覗き見たし乃雪は、漸く小さく声を上げた。


「懐かしいのぉ。管狐(くだぎつね)……飯綱権現(いづなごんげん)かえ」

「左様。人か狐、天狗の仕業でしょうね」

「……俺は狙われるのかえ……?」

「恐らく、直ぐ犯人が現れましょう。管狐は逃がせば持ち主に不幸をもたらします故に」


 其処まで言い、霞はにこりと微笑む。

 妙に胴の長いその小動物を彼女は軽く弄んだ後、ほいと手を離し。途端、管狐は一目散に窓へ駆け寄り、器用に戸を開けて外へと飛び出した。

 管狐はそのまま空中を必死に走り、やがて道を越え川を越えて向かいの屋根に前足を下ろそうと少しだけ降りた時。

 突然、管狐の目前に黒い影がすとんと降り立ち、ほっとしかけた様子の管狐をすかさず掴み取った。


「!? 何、」


 始終を見ていたし乃雪が声を荒らげた時、黒いそれはし乃雪を見る。



 琥珀色……否、金色の瞳。


 糸の如く細長い瞳孔がし乃雪の方を一瞬射抜き、しかしそれ以上何をするでも無く、まるで陽炎の様に空中へと溶け消えてしまった。



「……あれは、」

「まるで隠密の様だな、」


 問おうとしたし乃雪に、少々神妙な面持ちをした源三郎が呟く。


「隠密かえ?隠密の管狐だったと、」

「恐らく、な……断定は出来ねえが」

「隠密もあの様な妖を使うのかえ、」

「さぁ……俺は良う分からぬがな。あれを見るに、そうじゃあ無えのか?」


 其処まで呟いた所で、源三郎は急に血相を変えてし乃雪の方へと振り向き、その細い肩を両手で掴んだ。


「それより雪、具合は?如何だ、楽になったか??」

「……直ぐには分からぬて。お前さんもせっかちな男じゃな、」

「そうか……」


 漏らされた小さな溜め息が本当に残念そうで、し乃雪と霞はお互い顔を見合わせ、笑う。

 後、霞は源三郎に目を向け何かを言おうとしたが、源三郎の目はそれを拒み、逸れる。それだけで総てを察した彼女もまた口を噤み、思い出したかの様に違う言葉を紡いだ。



「嗚呼。もしかしたら、あの隠密も近頃の噂を調べておるのかしら……」

「噂?何、また妖話かえ、……」


 少しばかり呆れ気味にそう零したし乃雪。霞はまたころころと笑み、続ける。


此度(こたび)は少し違いますれば。

『金の成る壷』のお話に御座います」

「何?少しは面白そうじゃのぉ……、」

「雪……お前と言う奴は、」

「妖妖と、そろそろ飽いたよ。偶にはもう少し平和な話も聞きたいわえ」

「状況より察するに平和な話とは思えねえがよ……」

「良いではありませぬか、太夫の(かんばせ)には笑顔が一番ですわ」


 そう言った霞の前に、し乃雪はすとんと犬の様に座る。しかし未だ寝間着の姿である事を彼は忘れていたらしく、源三郎からぶっきらぼうに着物を投げられ、その顔にバサァと引っ掛かった。


「その前に着替えだ、何時までも寝間着のままでは失礼だろう?」

「相手は人ならぬ者ぞ、如何でも良いじゃあ無…」

「神様に対してその態度か、罰当たりめ!」

「私は構いませぬが」

「構わぬとよ、」

「……お前は子供か……着替えるんだよ、ほら」

「で?どの様な話かえ?」



 一瞬、し乃雪は自らの腕を見る。

 ……やはり、何も無い。


 毎度の事だ、日が昇ればあの蛇は跡形も無く消え、闇に染まった辺りに痛みと共に現れるのだろう。

 それとも、管狐が取れた事でもう現れなくなれば良いのだが。



 子供の様に着替えさせられながら、し乃雪は霞を促し。霞もまたその姿を微笑ましく見守りながら口を開いた。


「何でも、この近くで急に儲けだしたお屋敷が御座いましてね。此処より少し歩いた所にある城下のお武家屋敷ですわ」

「武家屋敷?あすこは金と縁遠いであろうて、何故に」

「左様。小判とはご縁の無い筈のお武家屋敷、特にその主である樋口慎之介様の羽振りが急に。

 怪しんだ江戸北町奉行はそのお武家屋敷を捜索したらしいのですが、談合裏賭博他疚しい形跡は無し、お金も汚れた物では無さそうで。

 何故に羽振りが良くなったのかと樋口様を問い詰めた所、奇妙な事を口走り始めたので御座います」

「……それが、金の成る壷かえ」

「ええ」

「だと、さ。のぉ源、如何思うかえ?」

「んっ……突然振るな!」


 丁度し乃雪が着替え終えた辺り、二人に見えぬ様影で着替え始めた源三郎へ振り向けば、彼は酷く慌てて着物で下半身を隠し。霞への配慮だろうが、当の霞は寧ろ珍しい物を見るかの様な目で源三郎をしげしげと見詰めている。


「……その前に、結局の所金は何処から来たのだ?」

「壷の中より」

「……壷、の中??」

「左様で御座います、」


 余りにも突飛な言葉に源三郎の手も止まり、し乃雪と二人目を丸くした。


「御守や風水の如き意味合いならば兎も角……壷の中からかえ?」

「故に、『金の成る壷』、で御座います」

「そもそもその様な壷が何処から……」

「実の所、余り詳しい事は私も朧も分かりませぬ。

 只、」

「只?」

「金の成る壷……の噂が巷に溢れ出した時期を前後し、二つの不可思議な事が」

「何、」

「一つ目は、そのお武家屋敷に若い陰陽師が出入りし始めた事。これは数月前より見掛けられております。

 二つ目は、幾つか別のお屋敷が次々と(つい)えた事……良う調べてみました所、何れもお武家屋敷に都合の良からぬお屋敷であると。そのお屋敷の主が原因の分からぬ病に掛かったり、お屋敷が焼けてしもうたり……様々ある様で御座いますが」

「ほぉ……まるで何かの呪術じゃのぉ」

「……」


 ぽつり呟くし乃雪と、着替え終えて何時もながらじっと聞き入る源三郎。しかしやがてゆっくりと目を開き、源三郎は口を開いた。


「普通に考えれば、その陰陽師が武家屋敷にて呪術を用い都合の悪い所を次々と潰し回っておる……となるな」

「如何考えてもそうなるわえ……

 しかしの、陰陽師は吉凶は占うが……陰陽道に呪詛はあれど、陰陽師は呪術等用いらぬぞ?

 又噂に尾鰭でも付きおったかえ」

「陰陽師、兼、呪術者……あると思うか?」

「さぁてね?おったら面白いが。

 それとも、陰陽師が屋敷内の呪術者を探しておる、なんて、のぉ?」

「……さてね……」


 腕を組み宙を見上げ、源三郎は思慮を巡らせる。し乃雪はそれをじっと見詰めた後、その姿がどうも気になる様子。するり彼へ這い寄り、猫の様に身を摺り寄せ。


「如何でも良いわえ。この身より憑き物が取れたなれば重畳じゃ」

「……あのな雪、」

「何じゃ?」

「その眼が言葉と違う何かを訴えておるんだが、気の所為かい?」

「さぁて、如何だか?お前さんの好きにし遣れ、俺は只顛末を肴にするのみじゃ」

「………… 今回は付き合わぬぞ、嫌な予感がする」

「ん?珍しいのぉ、源が引くとは」

「…………珍しい、か」


 ふと漏らした自らの言葉に源三郎は小さく笑い、とん、と柱に寄り掛かる。

 何故に、とし乃雪が問おうとした所、気配を察したのだろうか。霞がそれを遮るかの様にぱんと一つ手を叩き、声を上げた。


「ならば源三郎様。私めと太夫はちょいとお散歩がてら屋敷の様子を見に参ります故、源三郎様は朝餉に手料理を振る舞われてみては如何でしょう?」

「ん?あー…… 偶には料理も良いか」

「おい、待ち遣れ。俺は行くとは一言も」

「雪、此処は台所を借りられるのか?」

「って、……お前さんが料理?」

「……何だ、悪いか」

「否?そのガタイで似合わぬなぁ、と、のぉ。

 台所ならば白狼に言うと良い。ついでに眞鶴が料理好きじゃ、混ぜてやると喜ぶ」

「分かった。霞、茸は使わせて貰うぞ」

「どうぞ、楽しみにしております。

 さあ太夫、美味しい茸料理を楽しみに、お散歩へ出掛けましょう」

「……霞、」

「何か」

「お前さんは凄いのぉ。

 梃子(てこ)でも動かぬこのし乃雪を梃子も使わず動かすとは」


 そう、し乃雪は不満気に漏らす。

 それを後目に源三郎は茸の山となっている籠をひょいと持てば、「じゃあ、な」とし乃雪の傍をすり抜けてさっさと出て行ってしまった。



「…… 何じゃ、あの男」


 普段はあんなに動かぬ癖に……何処か詰まらなさそうにぽつり呟くし乃雪に、霞は柔らかな笑みを絶やさぬまま、彼の頬をするりと撫でる。


「源三郎様は貴方様に気を使っておいでなのですよ」

「友人故の過剰な気遣いは要らぬのに。しつこいだけじゃ」

「惚れておいでなのでは?」

「有る訳無かろう、」


 ぶぅ、と膨れ面で零した文句が漸く本来のし乃雪である様な気がし。霞は嬉しそうにくすくす笑み。


「さぁ、お散歩に出ましょう」


 差し出された細く白い手が、し乃雪の同じくほっそりとした手に春風の如く柔らかく触れ、彼を促した。



 * * * * * * * * * *



 朝靄消え掛けた外は冷たくも清々しい空気で満たされ、し乃雪は思わず大きくその空気を吸い込んだ。しかし思わぬ冷たさに突然酷くむせ返り、霞の手が彼の背を慌てて撫でる。


「……そう直ぐには治らぬかえ、」


 笑ってそう言ったし乃雪の表情はしかし寂しそうな色を湛えており、霞の顔もまた笑顔ながらも少しだけ沈む。


「余り案ずると治る病も治りませぬよ、只の風やも知れませぬし」

「……そうじゃの。管狐も取れた事だし、のぉ……」


 言うが、未だ不安気な表情は直らぬまま。霞はし乃雪の珍しい表情に眉根を寄せ、顔を覗き込んだ。



「……太夫、」

「ん?」

「何か、気に掛かる事でもお有りなのですか?」

「ん……あの隠密がどうもな。何故に俺を狙うたのか……」

「何か疚しい事でも、」

「……………… さて、何を以って「疚しい」と指すのか」

「?何を、」

「それを聞かれど俺が困るわえ」


 殊更訝しむ霞であったが、それ以上詮索する様な素振りを見せる事は無かった。目前に見えてきた目的地である武家屋敷周辺では妙に騒がしく、その様な場合では無い事も理由の一つだ。


「何じゃ、此処は見世物小屋かえ?楽しそうじゃの、」

「随分と賑やかな事……」


 先刻とは打って変わり、何時もの様に目を輝かせるし乃雪。

 其処は如何見ても野次馬としか見えぬ人だかりで壁際が覆われており、入り口の方まで埋め尽くされていた。

 ……どうやら、噺家(はなしか)が陣取って一儲けせんと喋っている様だ。その姿や様子は見えぬものの、派手な上り旗と辛うじて声まで確認出来る。



 ─── 所がこの『金の成る壷』、でけぇ声じゃ言えねぇが実は……



「…… 聞こえぬわ!」


 苛立ちを隠せず、吐き捨てる様に言い放つし乃雪。


「……お屋敷の目前でこの様な不吉な話とは。勇気と言いましょうか無謀と言いましょうか……」

「畜生こうなれば俺の色仕掛けで、」

「まぁまぁ、後で一言一句お話し致します故。しばしのご辛抱に御座いますわ」


 霞はどうやら今も総て聞きながら喋っているらしい。それを悟り「……お前さんは凄いのぉ、」と聞き覚えのある台詞を再びぽつり呟くし乃雪。



 と。


「……あら?」


 突然、霞は何かに気付き、見回す事すらせずくるりと背後へと顔を向けた。


「如何したえ、」

「妖の気配が…… ほら、おりましたわ。狐が一匹」


 そっと袖で指された方向。見れば、人だかりの隅にて目立たぬ様に立つ娘の姿が其処にあった。

 矢絣(やがすり)柄の着物を身に纏ったその娘は、脇目振る事無くじっと屋敷の方を睨み付け、こちらに気付く気配は無い。しかし、動かぬその瞳にし乃雪は訝しみ、やがて小さく呟いた。


「…… 先刻の"隠密"とやらじゃの、」

「あら!左様なのです?」

「間違い無い。あの目……あの金色の瞳、あの隠密と同じ瞳じゃ」


 すると。

 どうやらこちらの視線に気付いたらしい。ば、とし乃雪達の方へ振り向き、途端に血相を変えて人混みより逆の方へそそくさと走り出した。し乃雪は反射的に追い掛けようとするが、かくんと脚から力が抜け、崩れ掛かった体を霞が支える。


「ご無理をなさいませぬ様。私めが代わりに」

「良いのかえ、」

「太夫には毎度御世話になっております故」


 し乃雪が一人で立てる事を確認し、霞はとん、と軽く跳ね。途端、美しき女から大きな鷲の姿へとふわり形を変え、大きく羽ばたいた。


「霞。済まぬの、」


 言えば、大鷲はちらりとし乃雪を見、軽く頭を下げ。まるで空を斬り裂く様にグンンと上昇し、あっと言う間にその姿は小さくなってしまった。


 今し方の事に誰も驚く事無く、相変わらず野次馬達の喧騒は続く。

 これは如何頑張れど話を聴く事は無理か……し乃雪はふと感じた目眩に自らの体力の無さを嘆き、仕方無く踵を返した。



 …… 視線。


 ふと、何か不思議な気配を察し、辺りを見渡す。

 まさか先刻の隠密か。そう思ったが、ならばとっくに霞が気付いている筈。勿論、野次馬の中を幾ら見渡せど、態々こちらへ振り向き睨んでいる輩など居る筈も無い。


 ……気の所為か。思い、虚空を見上げた時。

 あらぬ方向に、その姿を見付ける。


 武家屋敷の二階に居る、白い衣を纏った男。

 神主……否。陰陽師であろうか。


 男はじっとし乃雪を見ていた。睨む、と言う感じでは無い。何処か懐かしんでいる様な柔らかな表情で、只一点……し乃雪を見詰めているのだ。

 眼のあまり良くないし乃雪、にはその表情は愚か、その男の詳しき姿は分かり得ぬ。人である事は間違い無い。が、何故に此方を身詰めているのだろう……訝しげにそれを見遣れば、その姿はすと屋敷の奥へと消えた。


 - ……俺の"血"にでも気付いたのか……

  あの"里"の者だとしたら、若しくは……。


 彼は仕方無くその場を後にした。

 その胸の内に、酷く暗きものが僅かな恐怖と共に渦巻く。

 それを今吐き出したとて無意味…… し乃雪の眼は、少しばかり不安気に揺れた。



 * * * * * * * * * *



 黒町屋へ帰れば、建物中を満たす柔らかな朝餉の匂い。丁度飯の支度が出来た辺りらしく、膳を持った新造達が辺りを忙し無く、しかし何処か嬉しそうに走り回っている。その中に同じく走り回る源三郎の姿があり、し乃雪が吹き出してしまったのは言うまでも無い。


 そうして今日は珍しく皆と広間にて茸汁付の朝餉を楽しみ、部屋へ戻らんと自室の襖を開けた時だ。



「太夫、源三郎様。お帰りなさいませ」


 ちょんと正座し、三つ指付いて頭を下げる霞の姿が其処にあり、襖を開けたし乃雪が小さく飛び上がる。


「ぬぁ!? ……ったく、驚かせるなよ霞……」

「失礼致しました……件の狐、お連れして参りまして御座います」

「嗚呼…… その、娘か?」


 見れば、霞の隣にてばつの悪そうな表情で正座している娘が一人。漆黒の忍装束を身に纏い、あの金色の瞳でし乃雪達を見上げ、しかし深く頭を下げて口を開いた。


「……先刻の程は、挨拶も無しに失礼をば致しました。まさか麒麟神(きりんじん)様がお側に付いてらっしゃっていたとは」

「麒麟?朧が鵺なれば霞は麒麟なのかえ?」


 反射的に問うし乃雪に、霞は只微笑むだけ。それを後目に、今度はし乃雪の背後に居た源三郎が口を開く。


「名は、」

「!?……さ 左近(さこん)

「何処より来た、」

「出羽、米沢藩。上杉治憲公が城代より命を受けて参りました」

「何故に管狐をし乃雪へ仕向けたのだ、」

「それは違う!」


 突然声を荒らげた左近。途端幼げなその顔が獣の如く歪み、源三郎を睨み付ける。し乃雪は少々驚き顎を引いたが、源三郎は驚く事無く続けた。


「ならば何だ、あれはお前のでは無く他人の管狐だと言うのか?」

「儂は此処暫くこの周辺に現れた管狐を捕まえ、調べて回っておるのだ!」

「…… ふぅん。お前さんに非は無いと、」

「嗚呼」

「で?ならば何か分かったのか?」

「貴様に話す義理は無い」

「ならば何故にこの地へ上杉の城代がお前さんを送った?」

「話す義理は」

「有るぞ。現に雪が管狐にやられておるのだ、秘にして黙とは卑怯なり」


 強い口調で言えば、左近の顔は凡そ狐や隠密らしからぬ子供染みたそれとなり、目には涙まで溜まり始め。しかし一歩も退こうとせぬ源三郎の態度は、まるで弱い者虐めにも似ている。その滑稽さに、し乃雪はつい苦笑を浮かべた。


「源。少し落ち着いたら如何じゃ、」

「俺は落ち着いておる。情けは無用、相手は狐だぞ?」

「それは、そうじゃ……が。

 なぁ、左近と言うたの?」


 優しい笑みを左近へ向け、目前にしゃがむし乃雪。左近はその柔らかな笑顔に何処か安堵を感じたのだろう、涙を溜め源三郎の尋問に耐えていた堅い顔が少し解れ、濡れた金色がし乃雪を見上げた。


「俺はお前さんに悪い様にはせぬ。誰にも言わぬから……のぉ、話してはくれぬか?」

「…………」

「油揚げ入りの茸汁でも食うかえ?」

「なら話す」


 あっさりと頷く化け狐に、し乃雪と霞は顔を見合わせ、笑う。

 眉をしかめ面白くなさげな源三郎の背をぽんぽんと叩き、彼は狐に同じく柔らかな笑顔を向けた。


「その様な顔をするな、源。

 なぁ、ちょいと持って来てはくれぬかえ、」

「お前が行け。何故に俺がこの化け狐なんかに」

「何じゃ、珍しいのぉ源三郎……何故に目くじらを立てる?俺達が見張っていてやる故、のぉ…お願いさ」

「…… 畜生が、」


 未だ涙目の左近へそう吐き捨て、源三郎は渋々部屋を出て行った。

 ピシャリと音を立てる程強く襖を閉めた辺りで彼が見た目以上に立腹している事を察し、し乃雪の眉根が寄る。



「…… 何だ彼奴は。それ程狐が嫌いなのかえ?」

「人に好き嫌いは付き物です故、」

「昔騙されたりしたのだろうかのぉ……まさか狛虎で懲りた故ではあるまい」

「さて……其処まで弱き御仁には見えませぬ故。余程痛い目に遭うたとか」

「……貴方様の御容体が芳しく無き故でしょう」


 突然小さく呟いた左近に、二人ははたと振り返る。

 まるで子犬の如く震える唇から紡ぎ出された言葉に先刻の覇気は微塵も感じられず、霞がついその頭を優しく撫でる程だ。


「俺の具合?」

「拝見した所、あの男は貴方様に好意を寄せておいでなのでしょうね……」

「まさかまさか、」

「恋、かは分かりませぬが」

「恋煩い!あの男は生粋の女狂いさ、無い無い」


 けらけらとからかいながら呟いた辺り、階段の方より不機嫌そうな足音。源三郎であろう。

 途端に左近は口を噤み、すすす、と部屋の隅へと動き、縮こまってしまった。


「……余程先刻の源の言葉が効いたのかのぉ、」


 し乃雪が苦笑混じりにそう零し。同時、源三郎が襖を開けて変わらず眉間に皺を寄せたままの顔を見せ、左近の目前に盆ごと丼を置く。

 其処には湯通しした大きな油揚げが三枚乗っており、左近が驚きと嬉しさで飛び上がると同時、し乃雪と霞は声を立てて笑った。



 早速油揚げにかぶりつく左近。大層幸せそうな表情を浮かべ、源三郎をちらりちらりと警戒しながらも彼女は皆に頭を下げる。狐にも様々居るのじゃのぉ……と、し乃雪は左近の様子を見つつ感じ、微笑んだ。



「……で、お前さんは何故にこの様な遠き地まで?」


 左近が満足そうに顔を上げた辺りを見計らい、し乃雪が問う。ぺろりと唇を舐めた左近はし乃雪へと目を向け、口を開いた。


「壷を、」

「壷……」

「城代が藩の宝として保管しておりました壷が盗まれ、儂はそれを取り返す様に命を受けて参りました」

「ふぅん……その壷とはあれか?先刻の武家屋敷にあると噂になっておる」

「左様、『金の成る壷』と呼ばれておるあの壷です」


 御馳走様でした、と丁寧な仕草で丼を差し出しながら、其処まで言った辺りで少し目を細め、再び顔を上げる。その表情は先刻よりも少し陰り、切なげで。


「あの壷は窮地に陥っておった藩を救った大切な壷なのです。それが三月(みつき)程前、突然無くなってしまったのです……

 同じ頃、藩より居なくなった陰陽師が居りまして。それを追い、この地まで参りました」

「………… お前さんが先刻見ておったのは、屋敷二階にて顔を出したあの白装束かえ、」

「左様、彼奴こそが件の陰陽師。

 近く、あの屋敷を調べれば何か分かりましょう」


 さて……と腰を上げ、とんとんとその場にて軽く跳ね。爽やかな空気が吹き込んで来る窓へと足を掛けた左近は、その窓縁の上にて再び正座し、三つ指を立てた。



「お話は此処までに御座いますれば」

「何じゃ?もう行ってしまうのかえ、面白いのに」

「ええ……先刻より視線が刺さあてなりませぬ。

 ……嗚呼そうじゃ。もしあの屋敷に興味をお持ちなれば、それはお止め下され……命が幾つあろうと足りませぬ故」

「ん?それは、」

「では、御免」


 まるでし乃雪の問いを遮るかの様に、左近は深く頭を下げ。瞬きをする間も無く縁をぽぉんと蹴り上げ、あっと言う間にその姿は遠く消えて行った。



「…… 命が幾つあろうと……か」


 既に姿見えぬ窓の外をじっと見詰め、し乃雪はぽつり漏らす。それに呼応するかの如く、今までじっと黙っていた源三郎がやはり不機嫌な色を湛えつつ口を開いた。


「あからさまだな」

「何が、」

「まるで誘うていやがる様な言い回しだ。

 変な事を考えるなよ雪、そうで無くともお前の体は病み上がり故。無理も出来んぞ」

「分かっておるわえ、そもそも妖沙汰はもう飽いたと言うた筈じゃ」

「なら良いが。

 ……しっかし、この窓はまっこと妖の出入りが多いな。冥土にでも繋がっておるのか?」

「んふふ……かも、な」


 冗談か本気か源三郎が漏らした言葉に、し乃雪は煮え切らぬ笑顔を作り、言った。



 源三郎の言うた事は一々尤もであり、今回は話の内容からしても下手に動き回りたくはない。未だ体が重い故、動けない……と表現する方が正しいか。

 何れにせよ、興味はあれど静観しか道が無い。源三郎もこの調子なれば、風に乗って流れ来る顛末に耳をそばだてるに留まろう。


 し乃雪は大きく溜め息を着き、その場へと力無く座り込む。

 聞くだに疲れが溜まったのであろう。


「……世とは面倒臭いものじゃ」

「それでも天下太平だと言うんだから、面白いよなぁ」

「…………ふむ。そうじゃのぉ」


 窓の外をつまらなさそうに眺め、そう、呟いた。





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