童歌 通りゃんせ ─壱、
通りゃんせ
通りゃんせ
「此処は何処の細道じゃ、」
―天神様の細道じゃ
その日もまた、彼は疲れの欠片も見せず木偶人形に向かい木刀を振り続けていた。
がん、がん、がん、
木偶は既に凹みだらけだが、何度も何度も叩き付ける様は、まさしく鬼の如し。
姓を早良、名を乱丸と言う。
何故に姓を持つか。彼曰く、尊敬する父より預かっているとの事。
飢饉の多いこの時代には珍しく、彼は元気な……悪く言えば、少々血の気の多い侍だった。
まだ数え年を十六、七もいかない、色黒の若い男だ。琥珀色の瞳、細く鋭い眼光。顔に……否、全身に大小様々な刀傷を蓄え、歳にしては酷く経験重ねたかの如き風貌を持つ。
その見た目通り、否。それ以上。
刀の腕は今まで幾人もの侍を相手にしても勝る程の腕前を持ち、巷では「鬼に好かれた男」と恐れられていたと言う。中には「背後に黒い、おどろおどろしい何かが見えた」と怯え慄き、戦わずして逃げる男もおった程だ。 ……まぁ町で悪代官の僕をしている侍集団ほど、早良はたちの悪い男ではなかったが。
正義と悪の判断はちゃんとつく男である。夢は岡引、喧嘩両成敗、人は不殺……只、ほんの少し喧嘩っ早く、見た目の所為で喧嘩を売られやすいだけなのだ、と、彼と親しい者は言う。
早良は一人を除き、人前で笑顔を見せる事を一切しなかった。
故に、友人と呼べる人間が片手で納まる程にしかおらず……それ以前に、早良は人付き合いを苦手としていた部分もあったのだが。それにしても不自然な程に四六時中何処か緊張したような、怒っている様な顔をし、時折悲しげな瞳をちらつかせるのが早良の癖となっていた。
早良が住む家は、しがない農家だ。
江戸幕府盛りの安永の末、農家の息子が侍である事など普通の事。早良本人はこの家の血を引き継いでいない拾い子である事以外、その時はほぼ不自由無く暮らしていた。
育ての親は、早良を本当の息子の様に可愛がった。早良が真っ当な侍となれたのは、そんな両親を助けたいと願う故でもある。
幕府に雇われ、剣豪と言われ始めたのは、その真っ直ぐな態度と曇りの一つも無い眼も要員の一つなのであろう。
そんな早良の家の近くに、幼馴染は住んでいた。
その整った顔をいつもむすりとさせ、一切『笑う』と言う事をしない早良が、唯一笑顔を見せる相手。それが、幼馴染であるこの男。
毎日の様に、早良は彼の所に通った。
大きな屋敷だ。此処周辺を纏める大きな百姓の家であり、早良とは身分が違う。しかし、此処の者達は、早良には良くしてくれていた。
一番大きい理由は、友人など出来ぬ此処の息子を大事にしてくれるから、であろう。彼の両親は、彼等二人が静かに語り合うその時間が、彼等にとって最も幸せな時間である事を知っていた。早良を取り巻く善からぬ噂よりも、それはとてもとても大事な、重要な事だ。
「頼もう、
奈々尾───……居るか」
玄関では無く裏口で叫び、その声は屋敷中に響く。が、奈々尾はいつも返事をしない。
その代わり、彼が起きている時は家の奥……縁側から、まるで天女が奏でるそれの様に、美しい笛の音が流れてくるのだ。
自然に早良は彼のところへ足を運び、やがて笛を吹き続ける天の者の傍で胡座をかき、微風のような笛の音にじっと耳を傾け始める。
その様子はまるで憂いを含んでいるようで、何時もの活気の良さは何処かへ消え失せて。
一頻り笛を奏で終えれば、奈々尾は何時も自らの膝の辺りを見た。
何時も、早良は彼の膝枕で気持ち良さそうな寝息を立てているのだ。
「早良……」
柔らかい彼の黒髪をそっと撫ぜ上げ、まだ剃っていない前髪の下に隠れる額に触れ。
奈々尾はいつも、小さな声でこう呟くのだった。
「……俺の、早良。」
奈々尾は、こんな早良が好きだ。
何時も庭を駆け回る犬のような活発さも。何時もそれと無く自分の身を案じてくれる優しさも。
荒々しい、まるで刀で木を切り彫刻したような、凸凹だが素朴で味のあるこの男に、奈々尾は惹かれている。
此度はこの少年侍、早良乱丸の話である。
季節は、秋に差し掛かっていた。
蜩の声も疎らになった時期、空気はひんやりと冷気を含みつつ木々の合間を駆け抜けて行く。
やがて蛙の合唱は秋虫達のそれへと取って代わり、ぽつりぽつりと曼珠沙華の花が咲き始めている。
吉原から山一つ越えた所にある、小さな村。
この時期、この村ではしきたりによりとある事が内密に行われていた。
秋口に差し掛かると、生き過ぎた年寄りは南の山へ自ら消え、二人目として産まれ七歳となった子は母と共に北の山へと入る。そして母が山より降りて来た時……その傍らに子は居らず。
所謂"姥捨て"、"子捨て"である。
そのしきたりは延々の昔よりこの村では行われていたが、江戸藩がこの奇習に気付いたのはつい先日の事だ。
江戸の中心よりさほど遠くなく、食糧事情も悪くない筈。何故に今尚姥捨て子捨てが続くのか……否、本当に今も続いているのか。
藩は、調査の為に二人の男を村へと向かわせた。
一人は、藩内で奉行の傍にて働く藤原 弥次郎と言う男。日に焼けた肌と少々大きめな背丈は彼が活発である事を連想させるが、じつは酷く気弱そうな顔そのままの臆病者である。しかし情報通であり、調べ事に関しては誰にも負けぬ収集力がある。故に、普段は奉行所では無く外におり、皆余り姿を見ぬのが常だ。
そんな弥次郎一人をあの村へ送るのが不安だと、今回奉行はもう一人同行させる事にした。
それが、件の早良 乱丸である。
奉行が早良を選んだ事には理由がある。
一つは、彼は余計な情報に惑わされぬ強い男である故。
もう一つは、その村にて姥捨て子捨ての他に、良からぬ黒い噂があった故だ。
「嗚呼、嫌だ嫌だ……何故に私をあの様な不気味な村へ寄越すのか。
お奉行様もお人遣いが荒い」
ぶつくさ文句をこぼしながら、弥次郎は帳簿片手に背中を丸めて歩く。
その卑屈そうな姿に後ろを着いて歩いていた早良は、眉をしかめながら口を開いた。
「己も同じ気持ちじゃ。何故にこんな刀も抜けん弱虫の子守などせねばならぬのか」
「本当に何故なんでしょうね?こんな礼儀も知らない子供侍が護衛だなんて」
「……今此処で叩っ斬ってやろうか?毎度毎度、口数の減らぬ奴め」
「おや?口数減らぬのはどちらの方でしょうかねぇ、……あわわすみませんすみません!」
刀を構えた侍に慌てて腰を低くする弥次郎、早良は呆れ顔を浮かべながら刀から手を離す。抜き身を拝む事無く済みへなへなとその場へ座り込んだ弥次郎は、ずれた眼鏡を直し零れ落ちた台帳を慌てて拾った。
「……全く、図体はでかい癖に。
奉行よりその眼鏡を貰うたのならば、偶には腰の物を抜く位の度胸を見せろ」
「余計なお世話です!私には刀より筆の方が合うておるんですよ」
情けない……早良は額に手を当て、ぼやいた。
山を下るこの道を正面に見れば、目的地であるあの村が下方に見えてくる。
西に傾き始めた太陽が照らすその土地は田園もあるが木々の緑が多めに残り、山の麓や林の合間にぽつりぽつりと茅葺き屋根が見える程度。 ……村と言うには余りに寂しい。
「……あの村か、」
「えぇ、あれですよ。三十人もおらぬ小さな村です。
余りにも小さい上に外との交流も無い故、藩では無きに等しき扱いでしたがね……松茸やら山魚やら、なかなか美味な食材が手に入ると言う城下の金持ち共の噂が、この村の再調査へ繋がったと」
「ふぅん……」
一目見る限り、人の姿が見当たらない。
早良は表情一つ変える事無く、
「……ならば、鴉天狗がこの土地を治めておる等と言う噂が出おるのも……無理は無いな」
目を細め、また呆れ混じりに呟いた。
早良が弥次郎の護衛と手伝いを任されたのは、この『鴉天狗』の噂故だ。
「この村の北方にある山の中腹に、九十九神社と言う古い社がありまして。其処は稲荷神では無く狐その物を祀った神社で、御神体は狐火……まぁそんな事は如何でも良いですか。
その神社周辺の山々に、昔から天狗が出ると言う伝承はあったのですがね……最近、夜になると人と同じ位の黒い何かが、森から森へと飛び回る事があるとか」
「……莫迦莫迦しい。それを鴉天狗と言うか」
「さぁねぇ……私は信じませんよ、化け物なんか。きっと猿か鵺鳥じゃあないですか?」
……化け物なんか。
弥次郎の前を歩く早良の表情がほんの少し狼狽を見せたが、弥次郎が気付く筈も無く。
「嗚呼。そう言えばこの前も吉原に河童だか鵺だかが出たと噂になってましたねぇ……何ですか?最近巷に阿片でも」
「口が過ぎるぞ弥次郎、」
「……失礼」
最近の早良は、化け物……と言う単語に敏感になっている。無理も無い、数ヶ月前に自ら妖と対峙したばかりであった故だ。それも、幼馴染みが『兄』と慕う妖と。
……ならば、己もあいつも阿片塗れだと言うのか、この男は。
聞こえぬ程度に独りごちた辺り、ずっと下り続けていた山道が開け、平坦になる。少しずつ道端に棚田が点在し始め、やがてあれ程遠く眼下であった茅葺き屋根が、真正面に大きく見えてきた。
下り終え、村へ入ったのだ。
ふと顔を上げた早良は、背後に気配がしない事に気付き、振り向く。
どうやら考え事をしながら歩く内に、弥次郎を離してしまったらしい。早良を呼ぶ声が遠く、姿は曲がりくねった道の向こうを見え隠れしていた。
「何をしておる、早よう来い弥次郎!!」
早良が声を荒らげるが、一向に速度は上がらない。
苛立ちながらも弥次郎を待つ内、やがて空が茜色に染まり。
今宵の宿に辿り着いたのは、蜩の涼しげな声と夕焼けと同じ色の蜻蛉が飛び回り、東の空が群青に堕ちた頃であった。
妙に人気の無い村だ。
訪ねれば家や宿の中にちゃんと人は居るのだが、通りを歩く人の姿が殆ど見当たらない。
弥次郎は宿の窓からじっと外の様子を伺い続けており、早良はその弥次郎の様子を見つつ刀の手入れをする。
時折ずり落ちて来た眼鏡をくいと上げる動作以外、弥次郎は殆ど動かない。
「……静かですね」
痺れを切らして口を開こうとした早良より数瞬先、弥次郎がぽつりと呟く。
「未だ空は完全に暗くないのですが」
「…………」
弥次郎の呟きに早良もまた重い腰を上げ窓の外を覗く。しかし目を向けた方向は弥次郎の様に道端では無く、奥の山の方だ。
ぴく、と弥次郎がそれに気付き早良を見やれば、彼は「……何じゃ、何か可笑しいか」と吐き捨てる。
「いえ、何も。 ……只。何か分かります?野生の勘で」
「猿か己は! 否……少々、山が騒がしい」
「やはり猿じゃ」
「黙れこの蜻蛉男が」
言いつつも、しかし早良はじっとその方向を見やったまま目を逸らそうとしない。
「……何か見えますか?」
「シッ! …………」
じっ……と、目を凝らし、耳を凝らす。さわさわと風が吹き、次第に暗くなり行く山々の中にちらり、と炎の様な明かりが揺れ。
「……早良さん!?」
「……弥次郎、」
「はい?」
「あの明かり、」
「嗚呼……あれは神社でしょう?ほら、先刻話した」
「ふぅん…… ……この村、おめえは人数を把握しておるのか」
「え?まぁ」
「何処に年寄りと子供が居るかは?姥捨て子捨てが何時行われるかは?」
「何処に、までは把握していませんよ。只、姥捨て子捨ては主に秋口の十六夜の辺りらしいですが」
「……十六夜、 明後日か!」
がたん、
少々慌てた様子で立ち上がった早良に、弥次郎は不思議そうに問う。
「何をするんです?こんな夜更けた時、動いても」
「何を暢気な事を!おめえは何しに此処へ来た?」
「調査ですよ、姥捨て子捨ての」
「止めようとは思わんのか?原因を突き止めようと?子供が何処へ行くのか、」
「それは明日以降聞き込みで、」
「……おめえなぁ……」
すっかり呆れ果てた様子の早良であるが、何故に早良がこんなにも呆れるのか、どうやらまだ弥次郎は把握していない様で。眉間にしわを寄せ、またくいと眼鏡の位置を直した。
「弥次郎よ……もしおめえが飢餓であったり生贄であったり、何かしら絶対子を捨てねばならん理由があった時。
もし誰か知らぬ人間がのほほんと訊ねに来たら如何思う?」
「? ……さあ、なった時ありませんから分かりません」
「この石頭が!怒って追い返すか口を噤むかであろう!!その様な態度でおめえ良く今まで……」
「つまり何が言いたいんです?」
はぁ。
苛々と腸煮え繰り返る思いを何とか抑えながらも、早良は溜息と共にドンと刀の鞘で畳を突く。
「子捨ての風習が今まで表沙汰にならなかったのは、村の者共が口を開かないからであろうが!その様な中聞き込んでみろ、村を追い出されておしまいではあるまいか!!」
「嗚呼───…… 案外考えてるんですね、早良さん」
「ど阿呆が!!
……兎に角、今宵皆が寝静まった頃、先ずは家々を回り、どの家にどの様な家族がおるか見て回るのだ。年寄りがおる家と子が二人おる家の目星を付け、明後日動きを見せたら後を付ければ良い……違うか?」
「ん……私は嫌だな、夜中歩くのは何だか怖うて」
「化け物信じぬおめえが夜を怖がって如何するど阿呆!! ……全く。ならば己一人で行く!!」
相当腹を立てたらしい。早良は刀を腰へ指し直し、顔を怒りに歪ませながら乱暴に襖を開け、出て行ってしまった。恐らく、動く前に頭を冷やしに外へ出たのだろう。
「…… ふぅ、」
その後姿を見送り、弥次郎は小さく溜息を漏らし。
眼鏡を取り畳み、手中へと握り収め、零す。
「お手間を取らせますな、早良さん…… 私にも仕事があるもので、ね」
その言葉とは裏腹に、少し垂れ気味の目……鳶色の澄んだ瞳は何処か涼しげだ。




