襖幽霊(フスマユウレイ) ─壱、
行燈ノ炎搖レ動ク 夜モ夜中ノ丑三ツ時
其レデモ此處ハ晝間ノ如ク 幽者ヲ騷ガス暇モ無ク
今夜今宵モ色男 手土産片手ニ道ヲ行ク
暗く、深い夜だ。
夜が稼ぎ時である吉原遊廓すら、丑三つ時を迎えればその活気は下火となる。
その日は何時に無く人の通りは無く、通りの灯籠に灯っていた火が生暖かい風にてふっと光を消した。
そんな中、一人の男が帰路を急いでいた。
初めて吉原を覗いた男だ。島原の馴染みに飽き、わざわざ此方まで出向いてみたものの、どうやら今宵は好みを見付けるに至らなかった様子。詰まらなさそうな顔にて、しかし足取りは速い。
何も無いなればさっさと帰ってしまおう…そう思いながらもふと辺りを見回した時だ。
びょお、と吹き荒ぶ風に、生臭い何かを感じ。
男の身を竦ませたそれは背後へと抜けていく。
遠く正面。
道に並ぶたそや行灯の向こうに、チカリと光る金の相貌。
獣の如きそれは男をギラリ見遣り、明らかに、細まる。
何だ、獣か…?そう訝しんだ途端。
"ビュゥ!”
男目掛け駈け来るそれ。その顔へ風の如く走り来た黒き塊は、男の顔面へと走り来る。
男は叫んだ。喉の奥から絞り出された声が、ヒィィと情け無い声となった。
瞬間に見たその顔、まるで獣か、否。鬼の如く。
咄嗟に顔を庇った男であったが、しかしあの塊は男の傍をすり抜け、遠くへ走り去って行った。
…嗚呼、助かった。ほぅと胸を撫で下ろした男…が、高鳴る心の臓が収まりつつある暫し、傍を流れる堀に何かがゆぅるり流れている事に気付く。
何だ?
じっ…と目を凝らしてそれを見遣り、男は再び悲鳴を上げた。
それは、つい先程まで茶屋の格子の向こうにてすまし顔で居た、花魁。
それが、まるで丸太か何かの様に、水の上にてゆぅらり、ゆらり。
虚ろに目を開けたまま、浮いているのである。
* * * * * * * * * *
それまで毎日が退屈そうであった二階窓際の月下美人に、ほんのり瑞々しさが宿った…と、そう気付いた者は少なくない。その、誰かを待ちわびるかの如き潤った瞳が美しく、今宵も黒町屋は客が途絶える事は無く。それはこの見世の遊女達をも美しく見せ、太夫に手が届かぬ身分の者達までも引き込んだ。
ぬらりぬらり、今宵も空気は艶めかしく、空は朧月浮かぶ濃紫。
輝く提灯や灯籠の光揺れる錦の景色が、しかし実は何かの障気である事に気付いた者は…二階の招きキツネ以外、居ない。
そんなし乃雪、少しそわそわしつつも幾度目かの遠目。道向こうに漸く待ち人を見付け、沈み始めていた憂いの顔にぱっと華が咲いた。
「源三郎!待っておったぞ、」
言えば、半ば癖の様に顔を上げた彼もにこりと笑みを向け、声を上げる。
「よぉ、三日も待たせたか」
「嗚呼、長かったぞ。
早よう上がって来ておくれ、詰まらのうて今にも干からびてしまいそうじゃ」
少し掠れる呼び声に、顔と違う男の色気。それを見た源三郎より漏れる笑みは苦笑に似て、しかし嬉しそうでもある。
白狼に促され中へと入り、案内されたのは二階。あの大玄関の真上、し乃雪が常に居る私室だ。一階の金と朱に彩られた竜宮の如き空間とは打って変わり、階段を上り終えたその床より先は質素ながら落ち着いている。少し良い宿屋の様な廊下をたった数歩、階段の目の前にある古びた襖が、その部屋であった。
「邪魔するぜ、」
一言付け、襖を開ける。
行灯二つ、やけに明るい。柔らかい蜜色の光に照らされた部屋は三日前の茶室よりも更に質素だが、五角の形をした不思議な空間だ。その四角の一辺を切り落とした様な部分が大きな窓で、し乃雪はその縁に尻を下ろしていた。
「来たかえ、」
細長い煙管より紫の煙をくゆらせながらにこり笑い、そうとだけ声掛けるし乃雪。まるで素っ気無い態度に拍子抜けした源三郎、用意してあった座布団に腰掛けながら漏らす。
「お前さんは何時もそうかい?」
「ん、」
「こう、三つ指付いて「お待ち申しておりんした、」とかよ…」
「男であるこの俺にそうして欲しいのかえ?」
そりゃあよ…、と言い掛けた源三郎、しかし先は口ごもり言葉にならぬまま。
遊び人の風貌で口下手じゃの。そうクスリ笑み零したし乃雪、やはりその笑顔は女にしか見得ず、源三郎は手にしていた土産の包みを忘れる程。が、目聡くそれを見遣ったし乃雪が「で、それは何じゃ?」と声掛けた辺りで嗚呼と間の抜けた声を上げる。
「忘れる所であった。
外に出られぬお前さんに土産をとな」
「外に出られぬと?何時言うた、」
「ん?違うのか、」
「否、源三郎が土産を持って来てくれるのなればそう言う事にして置こう」
「お前さんな…」
「で、中身は何ぞ?」
輝かせる眼を包みに向けたまま、弾む声。少し呆れを見せながら、しかしこうして言葉を交わす事、し乃雪が自分を構ってくれる事に喜びを感じながら、包みを開ける。小さな重箱。それの蓋を開ければ、現れたのはぎっしり詰められた天麩羅だ。
「お、天麩羅かえ?」
「先に近くの屋台で揚げて貰った、良い野菜が手に入った故にな」
ふきのとう、ぜんまい、菜の花。鮮やかな緑の天麩羅に、し乃雪はにこり嬉しそうに笑顔を向け。
「有り難う、食べたかったのじゃ。
直ぐ支度をしよう、塩か?だしかえ?」
「塩も持って来たぞ、」
「なれば台所へ下りずとも良いな」
そそくさと箪笥の一角より小皿と箸を取り出し、手慣れた手付きにて並べ始め。途中襖の向こうより徳利と猪口を乗せた盆を持って入り来たのはし乃雪の禿(かむろ/遊女の身の回りの世話をする少女)であろうか、源三郎の前にすと置いた。艶やかなお河童頭を良し良しと撫でるその仕草にまで嬉しさが滲み出ており、源三郎の胸も又暖かくなって行く。
「…良いなぁ、」
「ん、」
「この美人を独り占めだ」
「抱けぬがな、」
「そうだよ、甚だ残念だ」
出て行く禿を見遣りながら笑顔でそう言った辺り、ふと何か思い出したらしい。ぱん、と膝を叩いた源三郎は、差し出された猪口を受け取りながら口を開いた。
「そうだ、し乃雪太夫。
お前さんは蘭方医の元にて修行しておったと聞いたが、どれ程の腕なんだい?」
「何じゃ、何を聞かれるかと思えば」
クスリ笑み零し、小皿に取り分けたふきのとうの天麩羅をほいと口に放り込み。未だ仄かに熱を帯びたそれ、広がる旨味と苦味ににんまりしながら、次の言葉を紡ぐ。
「どれ程、…と言われてもな。
此処へ連れ来られた後も旦那から蘭学の本を貰ったりした故、まぁ傷を縫い合わせる、薬を選ぶ位なれば」
「へぇ…この様な美しい者に傷の手当てや看病をして貰えるのか、良いねぇ」
…中身は兎も角。小さくそう付け足した源三郎の隣に並び、し乃雪はおもむろに寄り掛かる。じわ、と滲む温もりと自分を見上げる赤く潤んだ瞳、同じ色の唇が、やがてこそりと彼の耳に囁いた。
「それとな。
蘭学は体の"作り"をも詳しく教えてくれる…
何処を如何弄れば"好い"のか、俺は他の遊女よりも詳しいのさ」
ぞくん、源三郎の身が震える。それが如何言う意味かは解らなかったが、し乃雪を見遣った鳶色の瞳は少々の怯えと好奇心を湛え。
「……試さぬからな?」
「俺は未だ何も言うておらぬわえ、」
源三郎の反応が余りに予想通りであったのだろう。げらげらと笑い出したし乃雪は、それはそれは愉しげで。
そんな姿に少々気を悪くしたのだろうか、源三郎は眉をしかめながらちびり酒を口に含み、やがて低き声色にてし乃雪に唸る。
「そんなに面白いか、」
「嗚呼、面白いよ。お前さんはからかい甲斐があるのぉ」
「そんなに人をからかうと何時か恨みを買うて襖幽霊に取って食われるぞ?ん?」
「…ん?何じゃその、詰まらぬ名の面白そうなものは?」
「ほぉ?襖幽霊を知らぬのか?」
さも常識であるかの如く、源三郎が声を上げる。それは少し嬉しそうでもあり、し乃雪の眉間が寄る。
「知らぬ。何じゃ、噂かえ?」
「嗚呼、この所吉原界隈じゃあ専らの噂だが。そうか、し乃雪太夫の耳には入っておらぬのか」
「引っ掛かる物言いじゃの?」
「お前さんがもの知らぬ時の顔は面白いなぁ、お返しだ」
「もぉ、いけず」
軽く源三郎の肩を叩けば、返って来る意地悪な笑み。それに何を思ったのであろう、すす…と身を寄せたし乃雪が肩に頭を乗せ、上目遣いにて顔を覗きつつ。
「それより、教えておくれよ…その襖幽霊、何ぞや?」
じっと見詰めてくる瞳はほんのり潤み、同じ色から紡がれる艶やかな唇から紡がれる言葉すら美しい。
男と知りつつもそれに戸惑いと胸の高鳴りを覚えた源三郎、すと顔を逸らしながらその身を押し離す。
「そんな眼で見遣るな、分かったから」
「そうそう、早う話せ」
この野郎…。そう小さく呟きながらも、満更でも無い様子。
猪口に残った酒を一気に喉へと流し込み、溜息と共にゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「何時からであったかな…十日か十五日か、それ位前辺りからだ。
吉原を囲む様にて流れる堀があるだろう、"お歯黒溝"だったか。あの堀に、遊女が溺れ死んでいるのが見付かったのさ」
「ふぅん、」
「伏見町にある曙屋と言う茶屋の、たえ葉と言う花魁だ。それは美しい女で、客は絶えなかったと言う。
そんな稼ぎ頭が死んだとなれば一大事だ、しかし騒ぎはそれ故だけでは無かった。
死人の家財道具を片付けようと遣手が部屋を訪れた時、それはあった」
「何があった、」
「シミ、だ」
「シミ?」
頓狂な声を上げたし乃雪に、嗚呼、と頷く源三郎。
「押入れの襖に、まるで薄墨で描いた様なシミがあったのだと」
「それが如何した、」
「そのシミな…髪を振り乱した幽霊の如きものであったのさ」
「ほぉ?」
幽霊。その一言にてし乃雪の顔が俄かに明るみを湛え、暫し詰まらなさそうに逸れていた瞳が再び源三郎へ。
「何だし乃雪?眼の色を変えて」
「幽霊とな、面白そうじゃ」
「俺は先程"襖幽霊"と言うたぞ?」
「しかし詰まらなかった故になぁ、」
「……」
呆れたのだろうか、口を噤む源三郎。
「で、まさかたえ葉が描いた墨絵と言う訳ではあるまいて?」
「ん、…たえ葉の襖は分からぬがな、話はこれのみでは終わらぬ。
たえ葉の死より三日後の事だ、今度は京町二丁目にある乱菊楼と言う見世の淡雪と言う花魁がお歯黒溝に投げ込まれておった。…で、その淡雪が使っておった部屋の襖には」
「襖には、」
「シミがあった。……但し、死んだたえ葉の顔をした幽霊のシミがな」
其処まで口にした後、そっと横目にてし乃雪を見遣る。美しい人の、興奮にておぞましい程に歪んだ笑顔が其処にあった…が、直ぐに元の澄まし顔へと戻り視線が逸れる。
「成る程ねェ、しかしシミかえ?」
「お気に召さなかったかい、」
「否、面白い。その様な事もあるのかえ、」
少々安っぽい話じゃがな?と付け足しつつも、煙管の紫煙と共に漏らした溜息は充足感を湛え、ふくよか。それに少しばかり安堵を覚え、しかし苦笑気味に源三郎が返す。
「安っぽいと言われてもな。俺は噂通りの話をしたまでぞ」
「そうじゃのぉ、なれば巷が安っぽいと言う事じゃの?」
「安っぽいとは言うておられぬぞ?
実の所、このシミと花魁の死は伏見町、京町二丁目と来て、その後江戸町一丁目、京町一丁目、角町と続いておる。この意味が分かるか?」
「吉原の手前と奥よりじわじわと中央…此方へ近付いておる訳か、」
「しかも狙われ死んだはどの女もその町で一・二を争う花魁よ」
「ほぉ…、」
言えば言う程、し乃雪の表情が嬉しさを含んでいく。塩をまぶしたふきのとうの天麩羅を一口かじり茶を含み、瞳は中空にて綻んだ。
「よもや、そのシミ幽霊が女に嫉妬しておるとでも言うのかえ?」
「さてねぇ、」
「しかし、のぉ源の字。その話、狙われておるは"花魁"ぞ。俺は花魁かえ?」
「あ、……」
しまった、とばつの悪い顔を浮かべる源三郎。それが又面白いらしい、くつくつくつ、と笑いながらも再びし乃雪の身は彼の肩へと寄り掛かり、徳利を差し出し。
源三郎の差し出した猪口はほんのり恥ずかしそうにて、注がれた酒は直ぐに消えた。
「それにしたって、お前さんが狙われる事は充分有り得る話だぞ?この源三郎さえ騙される美人だ」
「褒め言葉かえ、」
「他に何がある?」
「否、さてねぇ。
……この色町に幽霊話とは、何とも興のある話じゃのぉ」
源三郎より猪口を差し出され、注がれた酒はやはり一口にて消えた。
寄り添われたころりと丸い頭を、しかし源三郎は撫でる事も無く、只見詰めて笑う。
「なぁし乃雪太夫。お前さんは物の怪幽霊沙汰が好きか?」
「嗚呼、好きじゃ。
妖話は人の業…知れば心の闇ぞ見る、と…な。
お前さんもそう思わぬかえ?」
「詰まる所何だ、此度も人の業が生んだまやかしと」
「続け様に起こる死は殺しか否かは与り知らぬ。
しかし其処に襖幽霊たる尾鰭が付いた噂と言う魚が、今お前さんをも惑わせておる…きっと大きな大きな、美しい金魚の姿をしておろうて」
細い指にて源三郎の眼前にくるくると渦を描き、ころころと笑う。彼をからかう気力等どうに消え失せ、源三郎は苦笑いを零す。
「…吉原きっての妖太夫には、噂の金魚も尻尾を巻いて逃げ出すな」
「それは金魚と死に神に聞いてみねば分からぬわえ。
死んだ女の恨み辛みか、患った恋の成れの果てか…何れにせよ、俺が其処に居るのか否か。
のぉ源?このし乃雪が死ぬか否か賭けてみるかえ、」
莫迦を言え!と咄嗟に声を荒らげた源三郎、しかし直ぐにその総てが杞憂であろう心持ちが彼を支配し、次に出たのは「…無ぇよな、」と言う一言と大きな溜息のみ。
それを見遣ったし乃雪、今度は大きな声で笑った。女をからかう男の如き、軽快で意地悪な青年の笑い声で、だ。
そんな男の笑い声響く吉原、此処は揚屋町の黒町屋。
……遊郭の中央にある大見世を、その時"それ"は遠く遠く、宵闇の向こう側よりじっ…と見詰め続けていた。