猫叉(ネコマタ) ─弐、
姿無キ客人ノ
目ニ見エヌ故郷ノ
懷カシキ芳香ニ
身震ワセ目ヲ閉ジル
氣附カヌ程儚ゲナ
傷ヲ今掘リ起コシ
見附ケタコノ道標
サア今コソ牙立テン
丁度、同じ頃の話だ。
少しばかり遊廓より離れる事とする。
江戸城下から数里離れれば、山に囲まれた長閑な田園風景が広がり、藁葺き屋根の小さな民家と、稀に瓦と白壁の立派な屋敷が点在していた。その中、それこそ一際大きな屋敷があった。
言わずもがな、此処も百姓の屋敷である。姓を「柏木」と言う。
昨年が飢饉で凶作であった故、今年は年貢が増えた、と聞く。
人手が足りず、未だ米の収穫どころか花すら付けていない初夏の今でも尚、米ではない年貢の管理運搬の為に大勢の人間が屋敷の中で動いていた。
「何時も申し訳ありません……、」
赤毛を短く切った少年が蔵の入り口付近に茣蓙を敷いて座り、絶えず出入りする農民へ頭を下げる。農民達は必ず少年へ声を掛け、年貢納めの始終を話し、荷を軽くして帰って行く。
付近に積まれた年貢を数人の男達が絶えず蔵へと運び込んでおり、その中の一人が不意に少年へ声を掛けた。
「奈々尾坊ちゃん、少々休まれたら如何です？ご無理は禁物です」
「否、今日は体調が良いからまだ頑張れます。悟兵衛さんこそ、今日はずっとお休みを取って居ないでしょう？」
「ならば、坊ちゃんがお休みになるなら某も休みましょう」
「それってずるい、」
日焼けした顔でにんまりと笑った悟兵衛に、奈々尾は苦笑を浮かべた。
奈々尾は、柏木家のたった一人の息子である。
この時代には珍しく、物腰の柔らかい少年だ。頭脳明快、性格が良い、顔も良いの三拍子揃った若旦那候補であったが、唯一、酷く体が弱い。故に、この悟兵衛を始め、屋敷の外に居る時は絶えず一人か二人傍に置かねばならず、不自由な生活を送っている。
悟兵衛は、一昨年前からこうして山が緑である間だけ手伝いに来てくれる侍である。奈々尾が聞いた所に寄れば、幕府から派遣された年貢管理役らしい。しかし年貢を管理すればそれで良い筈のこの男、幕府の人間ながらこの屋敷の為に良く働いてくれている。去年半ば辺りに二人は親密になり始め、今では奈々尾が頭脳と顔、悟兵衛は蔵周辺での奈々尾の手足となり、二人三脚でてきぱきと動いている。
「悟兵衛さん、今年も女性の話がありませんね、」
屋敷の中庭にて。悟兵衛が入れてくれた茶を啜りながら、奈々尾がにこにこと笑う。
「もう良き歳なんですから、そろそろ本腰入れて探さないと」
「はは、坊ちゃんにそう仰られるとは……」
「だって、勿体無いじゃないですか？悟兵衛さん、こんなに良い人なのに」
そう言いながら、奈々尾はさも旨そうに茶を口へ含んだ。
奈々尾は本当に純粋な、曇りの無い男だ。悟兵衛自身、仕事柄人付き合いは多いが、如何しても奈々尾には頭が上がらない。
顔を真っ赤にして言葉を返せないで居る悟兵衛を見、奈々尾は笑った。
と。
屋敷の方から、少々甲高い声が近付いてくる。
「奈々尾！奈々尾、其処にいるのかい!?」
「母上、」
奈々尾の母、咲の声である。
ばたばたと、彼女も忙しいらしい。その小柄な体で何やら荷物を抱え、小走りで横を過ぎ去る間に
「奈々尾、さあ早く屋敷の中へお入り！化け猫が襲うて来るよ、」
としっかり忠告して行った。
『化け猫』。
悟兵衛は、それが咲の口癖である事を知っていた。それを聞けば奈々尾の表情が曇る事も。
理由も、咲の口癖を始めて耳にした時に奈々尾の口から聞いていた。
「…… 『こま』は、人なんか襲わないのに」
ぽつり。その呟きを、悟兵衛は何度耳にしたのだろう。
大好きであった飼い猫の形見であると言う小さな鈴を、奈々尾は何時も懐へ隠していた。
母に『化け猫』と言われる時、奈々尾はその鈴を握り締め、泣き出しそうになる。
それを慰める役も、何時の間にか悟兵衛の隠れた仕事となっていた。
* * * * * * * * * *
日が経てば経つ程、吉原へ足を踏み入れた刹那の空気に違和感が混じり、ふぅわりと己を包み込む。
鼓ま斗と床を共にした時に感じる、理性がちりちりと千切れ始める感覚だ。見えぬ手が背や胸の辺りをぬるりぬるりと這い廻り、一歩踏み締めるその度に意識が自分の物で無くなって行く。
これは不味い。
源三郎の何処かでそう叫ぶからこそ、彼はこの所吉原へなるべく足を運ばない様にしていた。しかし、意を決してあの不思議な友人へ相談しに行こうにも、黒町屋へ着く前には既に自分では無くなり、浮ついた感覚で通り過ぎてしまうのだ。
また、あの甘い香りが自分を包み込む。
ぬめぬめと全身を取り囲み、危機感が不自然に薄められ。
─── 雪…… 雪、気付いてくれ……!!
消え掛けた理性が最後、そう微かに叫んだ、その時だった。
「源三郎」
一瞬にしてぴぃんと理性が引き戻され、源三郎は顔を上げた。
其処は丁度、黒町屋の前だ。玄関口に寄り掛かり彼を待って居た者は客引きでは無く。
「…… 雪、」
「毎度毎度、楽しそうじゃの…源の字」
周囲は、誰も居ない。
何故なのだろう、時間も遅い訳では無く、各茶屋の明かりもずっと着いていると言うのに。
其処に居るのは、源三郎とし乃雪だけである。
「少し、話がある。顔を貸し遣れ」
源三郎の内心……理性は、これに酷く安堵していた。漸くし乃雪が気付いてくれたのだ。しかし、まだ身体は別の者の手中らしい。内心とは裏腹に身体は違う方向へと動き、思いもせぬ事を口走る。
「何を今更。余程嫉妬しておるのか？それとも、」
「言うた筈じゃ、お前が何をするも自由と。それすらももう覚えておらぬのかえ？」
くん、と顎を上げ、源三郎を見下す様にし乃雪は言い放つ。続き、組んでいた腕を崩して源三郎へとゆっくり近付き、ぐいと胸倉を掴んだ。
「野郎が、来いと言うておる！」
「手前……離せ！」
細くしなやかなその腕の何処にその様な力があるのだろう。じたばたともがく源三郎を他所に、し乃雪はそのままずるずると大柄な源三郎の身体を引き摺り、中へと入って行った。
し乃雪の部屋へ着くなり、投げ出すかの様に胸倉の手が離され、源三郎はドスンと尻餅を付いた。
「痛って……」と悲鳴を上げる間も無く、鼻腔をふわりと知った香りが擽る。その香りに顔を上げると、四つん這いにて脚の間を割り入って来たし乃雪の切なげな顔が、吐息を感じる程近くにあった。
未だ本能に支配されたままの彼の胸が、どくんと大きく脈打つ。
内の股に、振袖から洩れたほっそりとした白い太股が触れ、否応無しに体が反応する。
「源三郎、俺を見ろ」
生絹の如き指が、首筋を這う。
遊女の表情をしたし乃雪が、紅く濡れた目で見詰める。
しかし、不思議であった。あれ程まで不自然に高揚していた欲望が少しずつ抑えられ、源三郎の表情に冷静さが戻って行くのだ。
「……雪……、」
漸く、理性の彼がそうとだけ声を上げる。
し乃雪の腕がゆっくりと源三郎の体を抱き締め、彼もまた絡み行くし乃雪の背にそっと腕を回した。
耳に、甘い吐息が掛かり。
唇が触れるか触れぬかの所で、し乃雪は囁く。
「……今宵は、これしか手助け出来ぬ。源……済まぬの」
「……ゆ……き、」
「案ずるな。お前さんは強い」
柔らかな声にて其処まで言い、し乃雪の体がするりと離れ。途端に源三郎の理性がまたあの甘い香りにぐらり呑み込まれ、すっかり先程までの状態に戻ってしまった男は、し乃雪の細い体を押し倒し、覆い被さる。
しかし其処は妖狐太夫・し乃雪である。
「お前さん、相手を間違えておるぞ？」
その声にてくんと顎を上げた男が目にしたのは、意地の悪い少年の顔。
途端にズン、と腹に蹴りを受け、着物を剥ごうとした男が怯む。続けざまにその身が投げ飛ばされ、
「チィッ!!」
舌打ちの後、男は転がるかの様に部屋から逃げて行った。
一人、残されたし乃雪。
静寂の中に、あの甘ったるい異色の匂いが僅か残り、口元がへの字に歪む。
はだけた着物はそのままに、ゆったりと胡座をかいたし乃雪は、手に隠し持っていた何かを取り出す。それは、桔梗の蕾だ。
「二つで充分……だったかえ？」
し乃雪にしては珍しく少々不安げではあるが、しかしやはり何処か楽しげで。
窓から見える異様に鮮やかな紫色をした空を見上げ、彼はぽつりと呟いた。
「……全く、厄介じゃの」
* * * * * * * * * *
今宵もひっそりと静まった時雨屋。
否、客は此処でも満員だ。しかし、黒町屋と空気が違っておる様で、其処は喧騒より静寂が勝っている。
何時もの如く、源三郎は躊躇の欠片も無く鼓ま斗を呼んだ。
鼓ま斗の待つ部屋へ一歩、一歩、また一歩。
その一歩程度の距離を進む度にすら、障気の如き「香り」が濃くなって行く様な気がするが、今の彼にはそれを感じ取る程の余裕は皆無。
意識はしっかり残って居るし、事が済むまでの記憶も、毎度細部まで残っている。何時も無いのは……理性のみ。
「源三郎様……、」
鼓ま斗が三つ指付いて男を見上げた時、挨拶も無く唇同士が重なる。ぬるりと割り入ってきた舌に吐息もろとも絡め取られ、鼓ま斗は男の腰へと手を回し、目を閉じた。
「……ん……」
まるで噛み付く様な接吻に戸惑う事無く、鼓ま斗はなだめる様に唇を離し、じっとその目を見る。
鳶色の瞳が、何時ものそれよりもまるで水面が波打つかの様に揺れ、今にも泣いてしまいそうな色を湛えている。それと蛍色の瞳が重なった時、鳶色はとろんととろける様に濡れた。
鼓ま斗は男の頭をそっと撫で、胸の中へと埋もれる様に擦り寄う。
「……源三郎様は、本当に良い匂いがしよる……」
「……何の、」
「わっちの好きな匂いでありんす……」
顔を上げ、鼓ま斗は再び男の目を見た。今にも押し倒して仕舞わんと息を荒くする狼が其処におり、しかし鼓ま斗の瞳の奥を見せられ、次第に夢見心地なそれへと変わり行く。
「……ねぇ、源三郎様……」
「……何、だ」
「源三郎様は……最近、何処かに出入りしておられませんかえ？」
「……嗚呼……」
「お屋敷、でしょう？」
「…………嗚呼、」
唇同士が触れそうで触れられぬ微妙な距離を保ちつつ、鼓ま斗は少しずつ問いを繰り返していく。
「そのお屋敷……何処にありんしょうかえ？」
「……西の、外れ……」
「ふふ……ならば……」
もう一つ、鼓ま斗が問おうとした所で、男が耐えきれなくなったらしい。ぐい、と女の肩を持ち、首筋へ吸い付く。
「あん、源三郎様ったら……まだお話したいのに」
軽く驚き、戯れの色めいた喘ぎを漏らしながら、鼓ま斗は男の首へと腕を回し、抱き締める。
し乃雪が待っていたのは、この時であった。
不意に、ぱん！、と何かが破裂する様な音が二つ小さく聞こえ、途端に目の覚める様な冷たい香りが男を覆う。続けて下の辺りから燻した木の強い匂いが舞い上がって来た。
「……ん!?」
あの甘い甘い匂いが瞬時にして混ざり隠され、源三郎の理性がふっと元に戻った。同時に鼓ま斗が「ギャァァ！」と踏まれた猫の様な叫び声を上げて飛び上がり、部屋の隅へと後ずさる。猫の耳、そして二本の短い尻尾がひょっこりと生え、涙を流しながら鼻をわしわしと袖で擦り始めた。
「……化け猫か！」
唖然とその様子を見ていた源三郎が、漸く素っ頓狂な声を上げる。鼓ま斗は涙ながらに源三郎を見上げ、
「臭や……臭やぁ……木酢は卑怯からに……！」
と呟いた。
そう。源三郎を虜にしていた術を破った物は、二つの桔梗の蕾。首裏の襟元に置かれ薄荷を中に閉じ込めた蕾、そして懐に隠され数滴の木酢液を閉じ込めた蕾である。
─── ……ははん、し乃雪め。
首裏に残っている潰れた蕾を手に取り、源三郎はにやりと笑う。あの時抱き締められたのは、詰まる所そう言う事なのだ。
隅で泣いている化け猫に、源三郎は近付く。気配に気付き猫が顔を上げシャーと警戒するが、彼は怯む事無く目前にしゃがみ、向かい合った。
「案ずるなよ、何かしようと言う気は無い。猫好き故にな」
「…………」
に、と笑顔を見せれば、猫の表情がほんの少し和らぎ、後ろに倒れていた耳が真横に動いた。
「……何故怒らぬのさ？」
「一度惚れた女だからな」
「それだけか？」
「他に何がある、」
「何故それだけの理由で怒らぬのさ！」
「……お前さん、少し肩の力落としたら如何だい？」
「近付くな!!臭いからに!!」
源三郎から伸ばされた手を猫の前足がぱこぉんと弾き飛ばす。彼が怯んだ隙に鼓ま斗は茶虎の猫の姿へと化け、涙をぼろぼろとこぼしながら窓からするりと外へ逃げて行ってしまった。
途端にしぃんとその場が静まり返り、源三郎は一人取り残され。
未だ夢見心地な所はあるが、彼は改めて安堵の溜息を漏らす。
「……ったく、臭ぇってか……」
物言いには気を付けて欲しいもんだが……と独りごちたが、全身を覆う薄荷と木酢の混じった凄まじい異臭に、源三郎すらも「……臭っせ!!」と顔をしかめてしまった。
* * * * * * * * * *
遊廓の灯りはもう大半が消え、辺りはすっかり静かだ。しかし、帰ろうととぼとぼ歩く源三郎を未だ仕事をしていた白狼が気付き、
「キツネは『仕事』中ですがね、風呂でも入ってお待ち下せぇ。その臭いじゃお辛いでしょ？」
と顔を歪ませながらも機転を利かせてくれた。
着物を借り、すっきりとした表情にて胡座をかいている源三郎を部屋で見、髪を下ろし化粧を剥いだし乃雪がげらげらと笑い転げたのは言うまでも無く。
「余っ程臭かったのじゃのぉ、あの仕掛け玉！」
「嗚呼、酷かったぜ……下で声を掛けてくれなきゃあ家までこぉんな顔で帰らねばならんかった」
わざと顔を可笑しく歪ませれば、し乃雪の笑い声が更に大きくなり、やがて腹を抱えひいひいと蹲ってしまった。そんなし乃雪に源三郎は何かしら触れようとしたが、軽く躊躇の後、柔らかな笑顔と共に声を掛ける。
「雪、礼を言う。助かった、」
「はぁ、はぁ……構わぬ……お前さんが俺を押し倒したあの顔！楽しかったぞ!!」
「……怯まずに襲うてやれば良かったか、」
「さて、それがお前さん自身の意思であったなれば如何なっておったかの……
それはそうと、如何であった？猫又は」
「嗚呼、見事に短い尻尾を巻いて……と。それより、何故猫又と」
「匂いさ」
「匂い？」
一度口を閉じかけたし乃雪、しかし少し考えた後。
「猫は犬と同じでの、縄張りを示す為に強い臭いの小便を使うのじゃ。恐らくお前さんに臭いで印を着けておったのだろう……あの香は強い香であったが、猫の臭いは隠しきれておらぬでな」
「ほぉ……雪、お前は本当に色々詳しいな、毎度惚れ直すぜ」
「世辞は要らんわえ」
苦笑を浮かべ、し乃雪はまた煙管をふわりと蒸かす。大分落ち着いたのか、それとも白けたのか。表情が一瞬曇り、目を伏せ。源三郎がその小さな異変に気付きふと笑みが消えた辺り、し乃雪は顔を上げて口を開き、その口より紫煙が零れた。
「そうじゃ。源三郎よ、何故にお前さんが狙われたのか、件の猫又は何か言っておったかえ？」
「ん？」
─── 何処かに出入りしておられませんかえ？
源三郎の脳裏に、あの言葉が過ぎる。が、彼はその事を一切口にする事無く。
「さあ…… 怨みを買うた覚えも無いのだが」
「そうか……俺も、香を使った手練手管を習いたいものじゃ、」
「お前はあれを破ったのだ、充分凄いではないか」
「少々羨ましいのさ、こんなお前さんをも虜にしてしまった故にの」
「先刻の言葉と何やら違う様だが？」
「さてね、」
本音か冗談か読めぬし乃雪の言葉に、苦笑を返しながらも。
あの言葉が酷く引っ掛かるものの、今は何も出来る事は無い……
酷く、もどかしかった。
