第8話:斧と筋肉で交渉成立!? その恋、乳製品より濃厚です!
『ムームー・ブルガノス牧場』――その名を聞けば、異世界の肉通ならば必ずよだれを垂らすという。
空は蒼く、地平線まで草原が広がる。風が渡るたび、銀緑の草がさわさわとさざめいた。どこまでも澄んだ空気の中に、ほんのりと甘く、力強い――ミルクと干し草の香りが混じる。
「……ここが、例の酪農牧場か」
辰人は肩に担いだ荷物を下ろし、眩しげに空を仰ぐ。見渡せば、丘の上に佇む大きな納屋。その前に、異様なほどゴツい斧が突き立てられていた。
「おいおい……なにこの重量感……オブジェか?」
興味を引かれるまま、辰人は斧の柄に手をかける。
ギュンッ!
片手で軽々と引き抜く。重さはあるが、ちょうど良いバランス。握った瞬間、掌が斧の意思を感じ取るような――そんな感覚があった。
「ははっ……悪くねえ!」
そのときだった。
モオォォオオッッ!!
大地を割るような咆哮とともに、草原の向こうから巨大な影が現れる。四本の角、赤黒い毛並み、炎をまとった蹄。――『バロルホーン』。ムームー・ブルガノスの中でも、伝説とされた幻の個体だ。
「チッ、歓迎ってわけじゃなさそうだな」
辰人は斧を構え、ニッと笑う。
「ちょうど力試しといこうぜ――!」
疾風! 轟音! 衝突!
バロルホーンが突進してくる。一歩踏み込むだけで地面が裂けるその威力に対し、辰人は逆に前に出た。
「うおおおおおっ!!」
反動で吹き飛ばされそうな一撃を、斧で真正面から迎え撃つ! 凄まじい火花とともに、巨牛が弾かれ、よろめいた。
その隙を逃さず、斧を振るう。斬撃は風を切り、魔力をまとった角を打ち砕く。
「……やれやれ、もっと来てもよかったのに」
バロルホーンはうなだれ、その場に崩れ落ちる。
「お見事」
低く、よく通る声が響いた。
納屋の影から現れたのは、全身を革の鎧に包んだ斧戦士の女性だった。燃えるような赤髪と、鋭い瞳。彼女こそ――ミネルバ・グラディアータ。
「その斧、ただの斧じゃないわよ。持てる時点で、あんた、只者じゃないわね」
「へえ、お姉さんがここの人か?」
「名乗るほどのもんでもないけど――まあ、あたしがこの牧場の番人よ。強い者にだけ、牛乳も乳製品も売る。それがウチの流儀」
「なら……試してみるか?」
辰人の提案に、ミネルバの口元が吊り上がった。
「いいじゃない。ちょっと本気、出したくなってきた!」
「この練習用の斧でやり合おう!」
試合開始! 筋肉と斧技のぶつかり合い!!
金属が激突する音が草原に響く。振り下ろし、受け流し、反撃の一撃――ミネルバの技は洗練され、容赦がない。だが辰人は、それに筋力で対抗する。
「このっ……おぉぉおおお!!」
「はっ、なかなかやるじゃない!」
斧と斧がぶつかるたび、衝撃波で周囲の草がなぎ倒される。見ていたムームー・ブルガノスたちが、なぜか遠巻きに観戦を始めるほどだった。
数分間の激闘。最後の一撃、斧と斧がぶつかり合い――互いに吹き飛ばされた。
どさっ。
ほこりが舞う中、辰人が先に立ち上がった。
「ふぅ……勝ちってことで、いいか?」
「……クッ」
地面に寝転がったまま、ミネルバが笑う。
「……気に入った。好き……いや、仕入れ許可、出してあげるわ!」
顔を真っ赤にして、ミネルバはそっぽを向いた。
「ま、負けたのに好きって言っちゃうのやばくない!?」
「う、うるさいっ! たまには強い男に惚れたっていいでしょ!」
「……あー、でもこの斧、気に入ったな」
「ふふ……それも、ついでにあげる。あんたなら、使いこなせると思うし」
照れながらも、しっかり手を握ってくるミネルバ。
「じゃあ、仕入れは任せて。最高のミルクとチーズ、届けさせるわ」
「頼むぜ、ミネルバ」
ミネルバは斧を地面に突き立て、乱れた赤髪を片手でかき上げる。まだ頬がほんのり染まっているのは、戦いの熱か、それとも——。
「はー……久々に心から楽しかったわ。筋肉で語り合える人なんて、こっちじゃ滅多にいないしね」
「言い方、斬新だな。普通『気が合う』とか『感性が近い』って言わない?」
「いや、筋肉がすべてでしょ?」
サラッと即答され、辰人は思わず吹き出す。
ミネルバはくるりと踵を返すと、納屋のほうへ歩き出し、「こっち来なさい」と手招きした。
「ついてきな。最高の乳製品、見せてあげる。あんたみたいな『良い筋肉』には、ちゃんとおもてなししないとね」
納屋の中は、想像以上に広く、そしてどこか神秘的だった。
天井から吊るされた光苔ランプがふんわりと光を放ち、壁には並ぶチーズ熟成棚。透明な瓶には金色に輝く**「聖乳エッセンス」**が詰められ、時おり中からもふもふした何かが「ムー」と小さく鳴いている。
「これが、うちの搾乳補助具、『フルード・オートミルク』。温もりを保ちつつ魔力で優しく圧搾する、最新式よ」
「うわ……魔法で搾乳とか、進んでんな」
「こっちは発酵用の『チーズ・アルケミーポット』。精霊契約してるから、季節に合わせて勝手に温度調整してくれるの」
ミネルバは一つひとつを誇らしげに紹介していく。まるで小さな王国の女王のように、堂々と、でもどこか嬉しそうに。
そんな彼女の姿に、辰人は気づく。
斧だけじゃない。彼女は、この牧場と、その営みに誇りを持っている。
「……本気で、すげぇな。どこかの牛丼屋チェーンと違って、ここは『魂』がある」
「でしょ? ……だからさ」
ミネルバが振り返る。その眼差しは、さっきまでの鋭さではなく、どこか頼るような、期待するような色があった。
「うちで……働いてみない? 酪農って、意外と筋肉いるのよ?」
「は?」
「な、なによ! あんたなら搾乳も桶運びも斧で薪割りも全部いけるじゃない! それに……その……」
言い淀むミネルバ。手に持っていた牛語翻訳首輪(牛の言葉が人間語になるが、時おり変な方言で話す)のベルトをいじりながら、モジモジしていたが――
「……その、今日の夜、泊まっていってもいいのよ? 部屋あるし。シャワーもあるし。ベッドもあるし」
「いや、だんだん勧誘の方向性がおかしくなってない?」
「ち、違うのよ!? 別にやましいことがあるとかじゃなくて! でも朝のミルク、飲ませてあげたいなとか……」
「今のだけ切り取るとだいぶアウトだぞ!?」
「うっ……!」
顔を真っ赤にしてうずくまるミネルバ。その耳まで熱を帯びていて、牛モンスターのムームー・ブルガノスまで「モォ……」と気まずそうに横を向いた。
辰人はふと、斧の柄を見つめながら呟く。
「……確かに、ここでしばらく斧振るのも悪くねぇかもな」
「えっ」
ぱっと顔を上げるミネルバ。光が差し込んで、彼女の目がきらきらと輝いていた。
「ま、今はバーガー屋の仕入れ交渉がメインだから、泊まりは……やめとく」
辰人は言いながら、背中に背負っていたリュックをゴソゴソと探る。
「……でも、今日はありがとな。斧も、牛も、戦いも。全部、マジで最高だった」
「えっ、あっ……そ、そう……?」
ミネルバが照れたように頬をかく。その指先に、まだ戦いの余韻が残っている。
そして——。
「ほら、これ。使えよ」
辰人は小さく折りたたまれたタオルを取り出して、ミネルバに差し出した。
「ちょっと汗、すごかったからな。顔、拭いとけ」
「えっ……あ、ありがと……」
受け取ったタオルは、使い込まれているのに、ふんわりとした感触があった。どこか、辰人の体温が残っているようで、ミネルバの指が小さく震える。
「そんなに汗かいてた? ……恥ずかしいな」
「いや、なんか……真っ直ぐだったし。カッコよかったよ、アンタ」
「なっ……!」
不意に言われた一言に、ミネルバの鼓動が跳ね上がる。
その瞬間、ムームー・ブルガノスが「モーッ」と鳴き声を上げ、ちょっと空気を読んだように離れていった。
「じゃ、また来るかも。今度は……チーズの仕入れとかでな」
「……っ! うん、うん! チーズでも、バターでも……あんたのためなら、いくらでも用意するから!」
ミネルバの声が少し上ずる。隠しきれない笑顔が、じんわりと広がっていた。
「タオル、ちゃんと洗って返すから! ……だから、その、また会いに来てね」
「ああ。またな、ミネルバ」
そう言って背を向ける辰人の足取りは、どこか軽やかだった。
斧の余韻、牛の咆哮、そして——
戦士の少女が初めて見せた、乙女の顔。
そのすべてが、この異世界での出会いを、少しだけ特別にしてくれた。
風が吹いた。酪農の香りと、少し残る汗の匂いと、タオルの柔らかな手触りが、ミネルバの心をふわりと撫でていった。
胸に抱きしめたタオルを見つめながら、ミネルバはそっと呟く。
「……今度は、もっと長くいてくれるといいな。がんばっていれば、きっと、こんな出会いもあるんだ」
──太陽が照らす牧場で出会った彼は、ミネルバにとって、風のように心をなでる存在だった。