第53話:朝ごはんと、白いしっぽ
朝の魔女っ子ハウスは、いつもより少しだけ静かだった。
パンの焼ける匂いが廊下に流れ、カップに注がれたコーヒーから、ほのかな湯気が立ちのぼる。
厨房ではルミナが鼻歌を歌いながら、フライパンを振っていた。
「今日はね、卵ちょっとふわふわにするんだよ!」
「……毎朝、その意気込みを持っていただければよろしいのですが」
クラウスが淡々と返しながら、食器を並べていく。
その足元を、白い影がすっと横切った。
「にゃあ」
「おはよう、ミルク」
ナナがしゃがみこんで声をかけると、ミルクは短く鳴いて、しっぽをゆらりと振る。
それだけの仕草なのに、杏奈の視線は自然とそちらに向いていた。
(……本当に、いる)
昨日の出来事が夢じゃなかったことを、白い背中が何度も確かめさせてくれる。
杏奈はテーブルに座り、両手でカップを包んだ。まだ少し熱い。その温度が、胸の奥までじんわり伝わってくる。
「……杏奈さん?」
フローラが心配そうに声をかける。
「ぼーっとしてます……?」
「あ、ううん。大丈夫」
杏奈は小さく首を振って、微笑んだ。
「なんか……朝って、こんなに音があったっけって思って」
スプーンが皿に触れる音。パンをちぎる小さな音。誰かの椅子が軋む音。どれも前からあったはずなのに、今日はやけに、ひとつひとつがはっきり聞こえる。
ミルクは杏奈の椅子の下に来ると、くるりと丸くなった。白い背中が、床に小さな雲みたいに広がる。
杏奈は気づかれないように、そっと足を動かす。するとミルクは、ほんの少しだけ位置をずらして、杏奈の足に背中を預けた。
「……」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
(昔も……こうだった)
何も言わなくても、寄り添ってくれる存在。守るでも、守られるでもない距離。ただ、そこにいる。
「杏奈、パン足りてる?」
ルミナの声に、はっと顔を上げる。
「あ、うん。大丈夫」
「そっか!じゃあミルクの分、ちょっとだけ作ろっかな」
「……お嬢様、それは何でしょうか」
クラウスの視線が、ルミナの手元でぎらりと光る黒いフライパンに突き刺さった。
「うん?これ?これはね、カリカリフライパン」
「カリカリフライパンとは……?」
ルミナは誇らしげに胸を張る。
「猫のカリカリご飯、できちゃうやつだよ」
「……お嬢様」
「大丈夫!ちゃんとお魚とお肉、栄養バランスも考えた!」
「それを、なぜフライパンで……」
「ほら、焼くと香り立つじゃん。ミルクもテンション上がるかなって!」
「理屈が、雑すぎます」
「クラウス、顔こわい!」
ナナが小さく笑い、フローラは「す、すごい……」と妙に感心していた。
ルミナはカリカリフライパンを軽く振って、香ばしい匂いを立たせる。ミルクの耳がぴくりと動き、目がきらんと光った。
「にゃっ」
「ほら!食いつき、完璧!」
「……」
クラウスは眉間を押さえたまま、しかし一歩だけ近づいた。
「念のため、味見をいたします」
「えっ!?」
一斉に声が重なった。
クラウスは真顔で、ひとかけらだけ指先に取ると、口に運ぶ。
「……」
沈黙。
ルミナが覗き込む。
「どう?」
クラウスは咳払いを一つ。
「……意外と、悪くありません」
「でしょ!」
「ですが、人間用ではございません」
「わかってるよ!」
クラウスは深く息を吸い、
覚悟を決めたようにフライパンを見下ろした。
「……では、今後も味見役は私が負いましょう」
「えっ、クラウスが?」
「安全確認は執事の務めでございますので」
そう言いながら、
なぜか少しだけ、箸を持つ手が早い。
ナナが小さく笑う。
「……クラウスさん、ちょっと嬉しそう」
クラウスは平然と食器を並べ直し、
何事もなかったように背筋を正した。
杏奈は、思わず笑ってしまう。
大きな奇跡が起きたわけじゃない。世界が変わったわけでもない。
でも――
(ちゃんと、続いてる)
昨日の涙の先に、今日の朝ごはんがあって、白いしっぽが、また揺れている。
杏奈はカップを置き、そっと息を吐いた。
「……今日も、行ってきます」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれどミルクは、返事をするように小さく鳴いた。
「にゃあ」
その声は、昨日よりも少し近くて、ずっと前よりも、確かだった。




