第48話:モカ・リヴレットとしおりの秘密
嵐の去った街は、まるで長い夢から覚めたばかりのようだった。
空気は澄み、石畳にはまだ水たまりが残り、ところどころに空の青が映りこんでいる。
「よしっ、次はこの板を運ぶぞー!」
「それなら任せておけって!」
辰人が声を張り上げ、濡れた木材を肩に担いでいく。その後ろを、杏奈とティオが魔法ホウキで落ち葉を掃きつつ、わちゃわちゃと追いかけていた。
「ねえ、これ自動でやってくれるんじゃなかったの〜!?」
「し、知らない! いつもより暴れてる……!」
「杏奈嬢、ほうきは放していいのです」
「クラウスさん、冷静〜!」
通りのあちこちでは、クレープ屋のフローラとエルミナが看板を立て直していて、前を通る子どもたちが「また焼いてー!」と笑顔で手を振っていた。街のみんなが、できることを少しずつ持ち寄って、昨日の嵐の痕跡を片づけていく。空には新しい風が吹いていた。
そんななか、屋台の前ではモカがタオルで豆の瓶を拭きながら、控えめに頭を下げていた。
「……あの、きのうはみなさん、ありがとうございました!」
小さな箱を抱えて戻ってきたモカの手には、月の刺繍があしらわれた小さなしおりが整然と並んでいた。淡い銀糸が、朝の光にきらきらと光っている。
「これ……?」
「これ、お礼です! このしおりには、願いを込めてあります。“このしおりを持っていれば、また会えますように”って」
ナナが「きゃわいい〜!」と声を上げ、フェリィも「お守りみたい〜!」と嬉しそうに受け取っていた。
いろはも、モカから一枚をそっと受け取った――そのとき。
「……え?」
手が止まった。胸の奥が、ざわざわと騒ぎ出す。バッグから出した文庫本。そのページのあいだに、挟まっていたもの。それは――目の前のしおりと、まったく同じだった。
「これ……持ってた。前から」
「それ……どこで?」
千尋の問いに、いろははゆっくりと口を開く。
「“月夜のしおり”っていう喫茶店。現代にあったお店。わたしが小さい頃、よく通ってた場所。そこで本を読むと……このしおりをもらえたの」
そして――脳裏に、ページの中の記憶が広がっていく。読んでいた物語。その中に登場していたのは――
「モカ・リヴレット、って名前の女の子だった」
みんなが息をのむ。
「それは……小さな喫茶店を始める、ひとりの女の子の話」
声は穏やかで、まるで物語を読み聞かせるようだった。周囲がしんと静まり返り、屋台の近くを通る風だけが、どこか遠いページをめくるようにそよいだ。
「彼女は毎日、準備をして。メニューを考えて、棚を磨いて、豆を並べて……いつか誰かが来てくれるのを、楽しみにしてるの。ある日、そのお店にひとりの女の子がやってきて、ふたりはすぐ仲良くなるの。コーヒーを飲んで、おしゃべりして。ほんの短い時間だったけど、すごく大事な出会いになって……」
いろはの目は、過去の記憶と物語のあいだをさまようように揺れていた。モカは静かに息を呑み、ルミナも黙って聞いている。
「でも、その次の日。嵐が来るの。屋根が飛びそうになって、豆の瓶が揺れて……お店も、思い出も、全部風にさらわれそうになって……みんなで止めようとするんだけど、それでも、もうだめかもしれないって思うの」
一拍の静けさのあと、いろははゆっくり顔を上げた。
「そのとき、魔女が現れるの。空から、ふわっと」
風がまた吹いて、誰もがあの瞬間を思い出す。昨日見た、あの光、あの杖、あの笑顔。
「……えっ」
その小さな声は、フェリィのものだった。ナナは目をまんまるくしていろはを見ている。
いろはの声がかすかに震えた。
「……昨日のことと、そっくりだったの。物語の中で読んだのと――全部、同じ」
そしてもう一度、しおりを見つめた。淡い月の刺繍が、朝の光にきらめいていた。
そのときだった。いろはの胸ポケットに入れていたしおりが――ふわりと、淡く光りはじめた。
「……!」
銀糸の月が、やさしい光を放っている。まるで呼応するように、モカも小さく息を呑む。
ルミナが真剣な顔で近づいてくる。
「……今、何かが共鳴した」
クラウスが低く呟いた。
「これは、ただの装飾品では……ないのでは……」
「しおりが、反応した……?」
いろはは光るしおりを胸に、そっと目を閉じた。まるで、物語が――動き出したみたいだった。
* * *
そのあと、片づけをひと区切りつけたころ。モカが、屋台の奥で「ふぅっ……」と小さく息をつきながら、あたたかいココアのカップを両手で抱えていた。
「おつかれさま」
いろはが隣に座ると、そっと手を伸ばして、持っていたマシュマロを一つ、ぽんっとココアに落とした。白い粒がふわりと浮かび、ゆっくりと溶けていく。
「……昨日もらったやつ。まだ一つだけ残ってたから」
モカは目を丸くしたあと、静かに笑った。
「……ありがとう、いろはさん」
あたたかい時間が、そっと流れていった。その胸の奥では、まだ微かに――しおりの光が、ほんのりと灯っていた。
* * *
そのころ、路地の影では。ひとりの少女が、そっと顔を出していた。彼女の手にも、同じ銀糸のしおりが握られている。その小さな光を、まっすぐに見つめながら――少女は、静かに歩き出した。




