第26話:魔女の記憶、禁忌魔法の代償
焚き火の光が、ぱちぱちと小さな音を立てて揺れる。
赤く染まる炎の向こうで、ルミナは毛布にくるまり、そっとまぶたを閉じた。
――その瞬間だった。
ぱちり、と木がはぜる音。
目を閉じたはずの視界に、淡い光がゆらりと差し込む。まるで焚き火の残像が空気中に染み込んだかのように、暖色の輝きが宙を舞う。
そして、光は広がり、繋がり、ひとつの“映像”をかたちづくっていく。
ホログラムのように、そこに――“過去のルミナ”が浮かび上がった。
* * *
石造りの天井と、果てしない書架の迷宮。
そこは、聖都アルフェリアの一角にある〈大魔法図書館〉。
書棚の谷間に差し込む光は静かで、埃の匂いとインクの香りが入り混じる。
その片隅――
「……はぁっ……う、うまく……っ」
幼い少女が、額に汗をにじませていた。
ブロンズ色の長い髪。背も低く、手足も細い。だが、その瞳には鋭い意志が宿っていた。
ルミナ。八歳の頃だった。
分厚い魔導書を開き、両手を空へ向けてかざす。
――沈黙。
空気が震えるでもなく、火花も散らない。
「……また……ダメ……」
唇を噛みしめ、涙がにじむのをこらえる。
周囲の同年代の子供たちは、もうとっくに初歩の光魔法くらいなら自在に扱っていた。
けれどルミナは、なぜか、いくら理論を覚えても、魔力の流れをなぞっても、一向に魔法を発動させることができなかった。
そのとき――
「ふーん。まだ光も出せないの?」
冷たい声が背後から落ちる。
振り向くと、金糸のローブを纏った少女たちが立っていた。魔導院でも特に家柄の良い子たちである。
にやりと笑って、ひとりの少女が言った。
「やっぱり、飾り物の令嬢ってだけのことはあるわね」
「魔法使いって名乗るの、早すぎたんじゃない?」
「魔力があるなら、今ここで何か見せてみてよ。あ、でも光も出せないんじゃ無理か」
くすくすと笑う声。
「ほんと、図書館にばっかこもって……お勉強はできるのにねー。かわいそう!」
「落ちこぼれ令嬢さん!」
ルミナの背筋に冷たい何かが走った。
けれど、声を上げなかった。
怒鳴りも、泣きも、せず――
「……私は、私のやり方で、魔法が使えるようになる」
静かに、だが確かに言い返した。
ページをめくる指先は震えていたけれど、その瞳は、まっすぐだった。
* * *
夜。図書館の灯りが消えても、ルミナはこっそり残っていた。
キャンドルの残り火で照らしながら、床に魔法陣を描く。
誰もいない石床に、小さな足音がぽつぽつと響く。
「集中して……魔力を、手に集めて……」
両手を伸ばし、空をなぞる。何度も、何度も、何度でも。
ふっと指先が熱を帯びる。
空気がわずかに揺れた。
「――……!」
その瞬間、光が灯った。
ほんのわずかな、小さな、小さな光。
それでも――
「……やった……できた……!」
ルミナの目に、涙がにじんだ。
頬を伝う雫は、嬉しさと悔しさと、あらゆる感情が混ざった証だった。
自分でつかんだ、初めての魔法。
誰にも気づかれない、ちっぽけな灯火。
でも、それはルミナにとって、確かな“光”だった。
* * *
翌朝。
ルミナは街角の広場で、パンナ・ミルフィーユと顔を合わせていた。
パンナはふわふわの髪をポニーテールに結び、今日も変わらず元気いっぱいだった。
片手には、まだ湯気の立つベリージャムの焼きパンを握っている。
「ルミナ、また徹夜したでしょ〜? 顔、くまクマしてるよ」
「……う、してないもん……ちょっとだけ夜更かししただけ」
ぷいっと目をそらすルミナに、パンナは苦笑いを浮かべながらパンを差し出した。
「ぜーったい“ちょっと”じゃないな。ほら、パンあげる。お腹すいてるでしょ?」
ふいに差し出されたパンの匂いに、ルミナの鼻がぴくりと反応する。
ベリージャムの甘酸っぱい香りと、こんがり焼けた生地の匂い。
――こんなにも、あたたかい匂いがあるんだ。
ルミナの目が潤んだ。
ああ、こういう時間が、いちばん心があったかくなる。
「……ありがと、パンちゃん……」
「どういたしまして! 今日は特に焼き具合、いい感じなんだよ!」
ふたりで並んでパンをかじりながら、広場を包む朝の光を見上げる。
やわらかな日差しが、石畳の街を穏やかに照らしていた。
少し肌寒い風。屋台の立ち上る香り。誰かの歌声。きらめく水路の音。
そのすべてが、ふたりの背中を押すようだった。
そしてルミナは、ぽつりと呟いた。
「パンちゃん。私ね、いつか、お店を開きたいの」
「お店?」
「うん。魔法で料理をいっぱい作って、みんなを笑顔にするの。
パンちゃんと一緒に。冒険者でも、貴族でも、街の子でも、関係なくて――誰でも、お腹いっぱい食べられて、笑ってくれるお店」
パンナはぱちくりと瞬きをして、それからにっと笑った。
「いいじゃん、それ!」
「……ほんとに?」
「うん! 楽しそうだし、なんか、ルミナらしい夢って感じする!」
ルミナの胸が、ほわっと温かくなった。
「じゃあ、パンちゃんは焼き係ね」
「任せてよ! あと、ハンマーで看板も作る!」
「ふふっ、万能パンちゃん」
「ルミナは……ふわふわソース魔法担当だな!」
「ふわふわソース魔法って、聞いたことないけど……めっちゃおいしそう!」
「じゃあ私、それ専用の魔法陣つくるね!」
ふたりで笑い合う声が、街に溶けていった。
魔法で料理を作る。
誰かが笑ってくれる。
そんな未来を想像するだけで、胸がときめく。
それは、ルミナのすべての原点だった。
小さな希望が灯った、静かな朝。
だが、運命は待ってはくれない。
その夜、世界は音を立てて、崩れ去る。
空が赤く染まり、聖都アルフェリアが魔物の軍勢に襲撃されたのだ。
鐘の音、叫び声、焼け落ちる建物――街中が、火の海だった。
「逃げてっ、ルミナ!」
パンナ・ミルフィーユが、震える声で叫んだ。
手には血がにじんでいる。それでも、彼女は必死にルミナの手を握って、瓦礫のあいだを駆け抜けようとしていた。
しかし、闇より現れた魔物の鎖が、足元から絡みつく。
「くっ……!」
逃げ場を塞がれ、二人の身体は無慈悲に引きずられる。
炎の柱が夜空を裂き、屋根が崩れ、逃げ遅れた人々が叫びながら倒れていく。
魔物の爪が人々を襲い、家族の名前を呼ぶ声が、遠く、遠くまで響いていた。
やがて、捕らえられた者たちは、鉄の鎖に繋がれ、聖都の地下へと連行された。
* * *
そこは、生きる希望さえも奪われるような過酷な奴隷労働の地だった。
空はない。
光もない。
あるのは濁った水と、泥のような粥、そして魔物の監視の眼。
毎日が、飢えと病との戦い。
弱った者は、次々と倒れ、そのまま戻ってこなかった。
「……ルミナ……水、もう……」
パンナの声は、日に日にかすれていった。
元気いっぱいだった体も、今は骨と皮ばかりで、頬はこけ、唇はひび割れ、目に光はなかった。
ある日、彼女はついに地面に崩れ落ちた。
「パンちゃん!? パンちゃんっ!」
ルミナは必死に呼びかける。
「……もう……だめかも……」
パンナの手には、小さな紙片が握られていた。
それは、かつて二人で夢を語り合ったときに描いた、パンケーキと旗の絵。
「そんなの、ダメ……! ダメだよ……っ」
ルミナの叫びは、どこにも届かない。
それでも、その胸の奥に確かに何かが灯った。
――失いたくない。
その想いが、絶望の闇を照らす光となった。
* * *
記憶の奥底にあった、古びた魔導書の一節が脳裏をよぎる。
“代償を払えば、力は手に入る”
それは禁忌。存在するはずのない、破滅と紙一重の魔法。
「お願い……お願い……私の身体でいい。だから……力を……!」
ルミナは、膝をつきながら両手を天へと伸ばす。
祈るように、叫ぶように――
その瞬間、空気が凍りついた。
ごうっ、と空間が歪み、雷鳴が地下に轟く。
眩い光が降り注ぎ、ルミナの身体が魔力の波動に包まれた。
燃えるような痛み。心臓を焼く衝撃。
そして――
代償。
彼女の身体は、魔力を使うたび、極限の飢餓に苛まれる呪いを受けた。
だがその代償と引き換えに、空を引き裂いて雷槌が降臨する。
伝説の武具、雷槌。
それは選ばれし者にのみ授けられる、神域の武具。
「パンちゃん……目を覚まして……!」
ルミナの声が、雷鳴と共に空間を揺らす。
すると――
倒れていたパンナの身体が、淡く輝き始めた。
その背に、黄金の羽が生える。
光が体を包み、命の鼓動が戻っていく。
「……ルミナ……?」
か細い声で目を開いたパンナが、ゆっくりと立ち上がる。
その手に、雷槌が渡された瞬間。
彼女の瞳に、再び光が宿った。
「いっけぇぇぇぇぇぇーっ!!」
パンナの叫びと共に、雷鳴が轟く。
ハンマーが地を叩いた瞬間、魔物の群れが爆風と共に吹き飛んだ。
鎧を纏った魔獣が、一撃で地に伏す。
炎の渦の中を、稲妻のように駆け抜けるパンナ。
「これが……雷の力……! ルミナの、祈りの力……!」
魔物たちは逃げ惑い、次々と粉砕されていく。
地下はまるで雷の嵐と化し、壁が砕け、天井が崩れた。
* * *
ルミナもまた、覚悟を決めた。
燃え尽きそうな魔力のすべてを、ただ一つの想いに込める。
「――私のすべてを、ここに捧げる……っ!」
彼女は天へと両手を掲げ、瞳を閉じ、そして叫ぶ。
「覚悟せよ! これが、私の最大級の祈り!!」
「人々には癒しを、魔物には破壊を……!」
魔力が爆発的に解放される。
天空に幾重にも重なる魔法陣が現れ、その中心に眩く輝く紋章が浮かび上がる。
「光よ……我が願いに応えよ――《アルテマ・レクイエム》!!」
雷鳴のような詠唱が響き渡り、空間が震える。
降り注ぐ白き裁きの光柱――それは神託のごとく、敵を討ち、味方を癒す光の奔流。破壊と再生が同時に降り注ぎ、苦しむ人々には安らぎを、魔物には終焉をもたらす聖なる審判だった。
地が震え、魔物たちの悲鳴がかき消され、ただ閃光だけが支配する世界となる。
爆音、衝撃、閃光。
焼け焦げた空間に、ただ静寂が残る。
――終わったかに、見えた。
だが、瓦礫の向こうから、ひとつの影が現れた。
黒い鎧を纏った“何か”。
人型のようで、そうでない。仮面のような無表情の面をつけ、音もなく歩を進めていた。
その目――赤い双眸だけが、静かに燃えていた。
* * *
夢が静かに終わる。
ルミナはまぶたの裏に残る光景を抱きながら、そっと目を開いた。
焚き火の音。
星の瞬き。
かすかに風が吹いて、仲間たちの寝息が耳に届く。
「……私、もう、負けない。仲間がいるから……」
その呟きに、誰かがそっと寝返りを打ち、寄り添うように毛布が揺れた。
──そして、夜は明けていく。




