1-8
「リツ、気になるでしょうが、振り返らないでください。……目が合えば喰われますよ」
「そんなこと言ってもよ!!!!」
足をもつれさせながら、ひたすら山道を駆け降りる。背中のジジイから漂う微かな腐臭すら、今は気にならなかった。
リツの背後を、カガチが化け物を目で牽制しながらついてくる。
「なあカガチ、さっきから――あの足音、近づいてねえか!?」
肩で息をしながら叫ぶ。
「ええ、幼体を潰された怒りでしょう。すごい顔して追ってきてます」
平然と答えるカガチに、リツはキレ気味に返す。
「カガチどうにかしろよ!」
「……気軽に言いますね」
「だってこのままじゃ逃げ切れねえぞ。このさきは断崖だ!」
「……え、そうなんですか?」
初耳ですと言わんばかりの反応で、カガチは軽くため息を吐いた。そして走りながら、ポケットから小さな携帯端末を取り出す。驚くほど無駄のない指の動きで、走りながら通話を繋いだ。
「セン、応答しろ。母体と遭遇、現在逃走中。座標を送る、急行してくれ」
数秒の沈黙。
やがて、機械越しの気怠げな男の声が応じた。
『了解。座標確認。三分で到着する』
「……いつも思うけど、早いですねぇ〜。電話待ってたでしょ」
『物理法則の制約下にある限り、移動時間は最適化可能。……問題はカガチ、お前の立ち回りだよ』
「はいはい……いつもどおり、お願いしますね」
通話を切ると、カガチはふっと息をつき、立ち止まった。リツもつられて立ち止まると、無意識に振り返ってしまった。
森の向こう――雪が吹き荒ぶ空間の、その奥に“それ”はいた。
最初、ただの岩のように見えた。あまりにも動かないし、形もよく分からない。だが、その岩の中央に、ひとつだけ“目”があった。
眼球。丸く、濡れていて、まばたきひとつしない。それがぬるりとこちらを見ていると気づいた瞬間、リツの膝が砕けた。
――違う。生き物じゃない。
鼓動も、呼吸も、気配も、ない。
でも、確かに“生きている”としか言えないものが、そこにいる。
全体の形すら分からない。肉がねじれ、骨のようなものが突き出し、皮膚らしき膜が半透明に光っている。
顔はないのに、口だけがある。しかも四つ。
それぞれが違う方向を向き、どれも何も喋らず、ただわずかに震えていた。唇の代わりに、爪のような硬質のフチがあった。
その中心から、濁った唾液がぽたぽたと雪を溶かす。
あまりに“輪郭がなかった”。
視線を合わせるだけで、リツの脳が“自分を壊していく”。
呼吸ができない。喉が開かない。
理解するという行為自体が、禁じられているような“存在”。
それが、リツの背負った死体を、じっと見つめていた。
「カ……ガチ……」
声にならない声が、かすれた。
一方でカガチは、顔色ひとつ変えずに、当たり前のように化け物に近づき、すっと片手を前に出した。
「よく見ていてください、リツ。僕の式律はアイツには使えないんです」
カガチは、静かに告げた。
カガチの掌がゆっくりと、形をなぞるように宙をなぞる。
次の瞬間、
「理を忘れし神々よ、
縁を断ちし雷の刃よ、
我が声を聞け――此処に“結果”を刻め」
カガチの真剣な声。
空気が凍る。
否、それは“凍結”ではなく、“断絶”だった。
何かが音もなく裂け、ねじれ、引きちぎられる。
風が止み、雪が宙で固まり、空間そのものが“切断”されていく。
不可視の斬撃。世界の理が一時的に否定され、再編される。
そして――母体と呼ばれた巨体は、中心から真っ二つに裂けた。
声もなく、ただ断ち割られ、内側から“何か”が流れ出す。
胎内から吐き出される無数の異形。歪んだ肉塊たちが、這い、蠢く。
「……うわあ気持ち悪い」
カガチは顔を顰め、顎を引く。
「このようにですね、どうも僕の式律は、過程をすっ飛ばして“結果”だけを切り出すから、向き不向きがはっきりあるんですよね」
足元で蠢く肉塊を見下ろしながら、どこか困ったように笑う。
「は………」
リツの口から漏れたのは、ただそれだけだった。
濡れた胎膜に包まれ、血のようなものを滴らせてうごめく幼体たち。
生き物の形をしているのに、命の匂いがしない。
吐き気がするほど“異質”だった。
膝が砕ける音がした。
リツは立っていられなくなった。
ただ、頭を抱え、震える手で顔を覆う。
「なんなんだよ、これ……なんなんだよ……!」
カガチはそんなリツをちらと見やり、小さく息を吐いた。
「ああ、流石にキャパオーバーしちゃいましたか」
カガチは震えうずくまるリツの顔を、優しく持ち上げた。
「理解しなくていいですよ。次第に分かるものですから」
その表情は、あまりにも柔らかく、そのせいでリツは顔を触られていることに無意識に受け入れた。
カガチは、リツに救いの手を差し伸べるよう、優しく微笑んだ。そして、山肌の方を見て言った。
「それにほら、僕の仲間が来ましたよ」
「はぁ……?」