1-7
リツは呆然としながらも、横たわる化け物を見据えた。
胸に穿たれた穴は、確かにその分厚い肉体を貫通していた。
「これ……死んだのか?」
声には、まだ恐怖が張りついていた。
その隣で、カガチは何事もなかったかのように薪を運んでいる。
「リツ、師匠を火葬して、さっさとここを離れましょう」
「なあ、こいつ……本当に死んだのか?」
「さあ?」
カガチは適当に相槌を打った。
「そいつらにとって“死”が何なのか、こっちの常識は通用しませんよ。定義すら曖昧ですし」
興味がないと言いたげな態度だった。
しかしリツは自分自身の問いに、怯え続けた。
リツは再び化け物を見下ろす。
遠い昔、罠にかかった熊を銃で撃ち抜き、熊は横たわった。その瞬間、死んだと確信したリツは、横たわる熊の血抜きをしようと、首に刃物を当てた途端、熊は最期の力を振り絞り、抵抗するために、リツの腕を噛みついた。
リツにとって、あの熊は、死んでいたはずだった。
けれど、死に損ないの牙は、リツの腕に深く食い込んだ。流れた血より、噛み砕かれる骨の音のほうが記憶に残っている。
その時からか、リツは生物がもつ、底しれぬ力か恐ろしく、死を確かめなければ落ち着かない。
リツはカガチの開けた穴をよく見た。血は流れていないし、なんなら死臭のような独特の獣臭すらもない。
心臓が別の場所にあるのだろうか。ここまでの巨大だ。そういう例外があってもおかしくはない。
ーーーリツ中途半端なことはするな。だから熊に腕を食いちぎられそうになるんだ
ジジイが繰り返し口にした言葉が、脳裏をよぎる。狩は一挙手一投足、丁寧に行わなければならない。命の取り合いをするんだ。手を抜けば、こちらの命を差し出すことになる。
リツは手の震えを抑えるために、両手で腰のナイフを抜いた。迷いはなかった。
その動きは、もはや反射に近い。
ナイフの刃は、ぬるりと肉に沈んだ。
だが、手応えがない。脈動も、血潮も感じない。
その瞬間。
カガチの眉が、わずかに動いた。
「リツッ!!」
叫び声と同時に、リツが顔を上げる。化け物に背を向けて。
「キャアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
脳髄を焼くような、金属を削るような絶叫が、倒れていた化け物の口から漏れた。
喉ではない。肺でもない。
まるで体内の、どこか別の場所が“叫んでいる”。
リツは反射的に跳ねて後退し、距離を取る。
全身の毛穴が開いた。
何かが、間違っている。
「おい……なんだ、今の……」
振り返ったリツに、カガチはいつもの薄笑いを浮かべながらも、
その目だけは冗談を捨てていた。
「リツ、あなた……触っちゃいけない器官に触れましたね。あんな巨体の中で、それを一発で突くとは。さすがと言うべきか……」
「なんだよ、“器官”って!」
「“鳴芯”ですよ。仲間を呼ぶための器官です」
「は……!?」
「リツ、師匠を抱えて。今から“来ます”」
カガチの声が変わった。軽さが抜け落ちている。
その目が、遠くの山の向こうを見据えていた。
「来るって……今度は、何が?」
「──こいつの“母体”です」
風が止んだ。
リツの鼓膜が、内側から押し潰されそうに軋む。
違う。
これは音じゃない。空気が、震えてる。
また指で丸を作り、遠くを覗くような仕草をするカガチが呟く。
「……あはっ汚ねえ顔だ」
森の向こう。
一面の雪が、色を失う。
木々が沈黙する。
その奥に、“何か”がいた。
「リツ。走れ」
その一言で、全身に電流が走った。
いつもなら文句を垂れるリツも、このときばかりは黙って従った。
ジジイの亡骸を抱きしめ、雪を蹴って駆け出す。
その背後で。
森が、音もなく“潰れていった”。