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リツがジジイの異変に気づいたのは、朝の狩りから戻ったときだった。
いつもなら、気づけば火を起こし、仏頂面でちゃぶ台の前に座っているはずのジジイが、今朝に限って起きてこない。
「……ジジイ?」
返事はない。
寒気を押して布団を剥ぐと、白髪の老人はまるで昼寝の途中のような顔で、静かに横たわっていた。
「……本当に死んでんじゃねえか」
リツは軽く頬を叩いたが、ぴくりとも動かない。
リツは崩れたままのジジイの身体を静かに見下ろした。その表情には、悲しみはない。
風が、遺体の上に吹きかけて、毛布の端が揺れる。
死んでいる。ただ、それだけのことのようにも思えた。
心の底に小石が沈んだような、冷たい感触だけがリツの中で生まれた。
『森で死ねば、山の獣どもが血を嗅ぎつけてくる。ワシが死んだら、すぐ燃やせ』
ジジイがそう言っていたのを思い出す。
けれど、小屋の周りは木々が近すぎる。ここで火を焚けば、風が吹いただけで森ごと燃える。
「……チッ」
薪を取りに、リツは斧を手に外へ出た。
そのときだった。
「やあ、こんばんは」
声が、真上から落ちてきた。
反射的に背を強ばらせ、リツは顔を上げる。
屋根の上に、見知らぬ男が立っていた。
金の髪を一つに束ね、黒の外套を纏った妙に整った顔立ち。
雪が積もっているはずの屋根に、足跡が一つもついていない。
「てめぇ……誰だ」
斧を構えたリツに、男は悠々と微笑んだ。
「それはこちらのセリフですよ。なぜ、“師匠”を燃やさない?」
「……師匠?」
「今朝亡くなった方です。師匠と呼ばせていただいています」
男の声は穏やかだったが、底がまったく見えなかった。
リツの皮膚がじわじわと冷たくなる。内臓の奥が、警鐘を鳴らしていた。
屋根の上から男は軽く跳ね、三メートル以上の高さを一息に飛び降りた。
片足で雪を踏み、音も立てずに着地する。
「名乗りが遅れました。カガチと申します。師匠に言われまして――あなたを、迎えに来ました」
ぞわり、とリツの全身を何かが撫でた。
敵意とも違う、けれど明確に“こちら側”ではない何か。異質の気配。
言いようのない重さが空気に満ち始めた、その時だった。
――バチィンッ。
空を裂くような音が、森に響いた。
雷鳴でもなく、獣の咆哮でもない。何かが鳴いた。
雪が揺れ、木々が震える。足元から空気が浮き上がるような圧。
「おい、なんだこれ……」
反射的に耳を押さえたリツの隣で、カガチが空を見上げてニヤリと笑った。
「ほら。すぐに燃やさないから、降りてきた。匂いの“核”が、ここだとバレちゃったんですよ」
「匂いの核……?」
「リツ、家に入って師匠の遺体を死ぬ気で守ってください。今から、師匠の取り合いが始まります」
「取り合いって……は?」
言葉の意味を飲み込めぬまま、リツは空を見上げた。
次の瞬間だった。
――ズズン。
雪を踏みしめる、重く、異常な音。
背の高い木々の隙間から、何かが這い出てきた。
異様に長い首。ぬるぬると光る皮膚。顔には三つの目があった。
そのうちの一つは、真っ直ぐにリツを見ていた。
一つはカガチを。
そして残る一つは、小屋の扉――その奥にある“ジジイの遺体”を見つめていた。
リツは背筋に氷を流し込まれたような感覚で、走り出した。
ジジイの遺体を抱きかかえ、小屋の奥へ。
奥にある地下室――ジジイが昔、「穴を掘っとけ」と命じて作った、寒くて湿った空間が頭に浮かぶ。
「なんなんだよ、マジで……」
リツは地下へ駆け下り、重たい扉を背中で閉めた。
背後で、何かが木を押し倒す音が、近づいていた。