5.裏路地の店
それもいいな、と思ったのだ。
だが本当にそれを口に出すと、真面目なベルは卒倒してしまうかもしれない。
どうにも『伝説の王妃』を神聖視しているこのメイドは、ロザリアが庶民的な振る舞いをするたびにどう扱ってよいのか分からなくて困惑するらしい。
「行きたいお店があるのよ」
「お店、ですか? 買い物でしたら私が……」
ベルがそう言ったので、ロザリアは首を横に振る。自分の目で確かめなくては、面白くないではないか。
今朝の朝食の折に、外交官宿舎の執事に予め聞いておいたのだ。彼はこのロベル国での赴任が長く、街にとても詳しい。
質問はひとつだけ、
『アスター国の、雑貨や本を取り扱っている店はないか』、と。
アスター国とは、近年君主制を廃止して共和制となった小国だ。
古来から独自の文化を保ち平和主義を掲げていて、ほとんど大きな争いもない為大陸の歴史書にその国名が登場することは少ない。
しかし昨夜ロザリアが夢中になって読んでいたのは、そのアスター国の歴史書だったのだ。
「アスター国? あの閉鎖的な小国ですか? ……その国の商品を扱っているお店に行って、どうなさるんですか」
歩きながら、ベルが説明の途中で口を挟む。無粋な横やりに、ロザリアは拗ねた子供のように唇を尖らせた。
陽は高く路地は乾いていて、影の色すら薄い。アシュバートンよりも高温多湿なロベルでは薄着を纏っている者が多いが、外交官夫人としてここに滞在しているロザリアはアシュバートンの服装を貫いていた。
心が極狭の夫が彼女の肌の露出をものすごく嫌がる、というのも理由の一端ではあるのだが。
「本の記述について、詳しいことを知りたいのよ。……でも、今日のところはヒントがあるかどうか、どんなお店なのか、見るのが目的かしら」
一人でどんどん調査したら、なんでも妻と一緒にやりたがるテオドロスが拗ねるに違いない。
勿論ロザリアだって、出来れば彼と一緒に調べたいし、真相に辿り着いた時には同じ興奮を味わいたいと思っている。
どうにも夫の愛情表現が派手なので隠れがちだが、ロザリアとてテオドロスのことを深く愛しているのだ。
しかしこの件については、他国のことなのでロベルにいる間に調べきれるとは思っていないし、詳しいことは転勤後に調べても構わない。
とりあえず今日は取っ掛かりとして、アスター国の者が異国でどんな商いをしているのかを見るのが目的だった。
このロベル国に滞在している時間は少なくなってきたので、せっかくならこの国で見られるものを見ておきたいのだ。
「あ、この果物屋の角を右に曲がる……っと」
執事に聞いた道を、ロザリアはうきうきと辿る。ちょっとした冒険気分だ。
賑やかな通りを一本奥に入ると、平日の昼下がりとは思えないぐらい路地はシンとしている。石畳みのそこを歩きながら、ロザリアは戸口に下がる看板の一枚一枚を見つめた。
ぱちり、と瞬きをすると金の睫毛が陽光を弾く。
「うん。ここね?」
少し癖のあるロベル国の文字で店名の書かれた看板。そこに指で触れると、ロザリアはにっこりと微笑んで、扉のノブに手を伸ばした。
「奥様、俺が」
しかしそこは、護衛のトーマスがすかさず止める。
思うように進まないことに、ロザリアの唇は尖りっぱなしだ。ここにテオドロスがいたら、我慢出来ずにその突き出した唇にキスされていただろう。
「……危険はないと思うけど?」
「初めての場所に入る時は、護衛に先を行かせてくださいませ」
控えめにトーマスに言われて、それもそうか、とロザリアは道を譲った。これは彼の仕事だ。
短い茶髪の水色の瞳というごく一般的なアシュバートン国民の容姿をしたトーマスは、護衛らしくがっしりとした体躯だが、穏やかな性格のおかげか初対面でも相手に威圧感を与えない。
彼は、そっと店の扉を開いた。
「ごめんください」
几帳面なトーマスの声に、店内の奥から陽に焼けた老人が顔を出す。
「どうかなさいましたか」
癖のあるロベル語。主言語ではない、ゆらぎのある発音だった。
ロザリアは王妃時代にアスター国の学者と謁見したことがあるが、彼は流暢なアシュバートン語を話していた。
その際に少しアスター語のレクチャーを受けたことで、歌うような発音の美しさに魅了され、その後かなりの時間を語学の勉強に費やした思い出がある。
「こちらの女性が店を見学したがっているのですが、構いませんか?」
店主らしい男とトーマスの会話を聞きながら、開いた扉の隙間からアスター国の絹織物や特徴的な銀器が商品棚に並んでいるのが見えて、ロザリアはワクワクした。
「これは、ご丁寧に。どうぞどうぞ、他に客もいませんし」
悠長なやり取りにウンザリしていたロザリアは、ベルと顔を見合わせてそこに喜色を浮かべる。
アスター国の名は歴史書ではあまり見ないが、医学書や民間療法の書物には記載が多い。
温暖な気候に育つ医療用のハーブに興味があって、ロザリアは王妃特権を使って取り寄せてみたこともあるぐらいなのだ。
「失礼します。突然ごめんなさいね」
ロザリアが優雅に微笑んで店内に入ると、店主はハッとして目を見開いた。その顕著な様子に、彼女は首を傾げる。
故国であるアシュバートンならば、元王妃であるロザリアが突然店を訪問すれば驚かれることだろう。
しかしここはロベル。しかも、アスター国の物を取り扱う店だ。『アシュバートンの元王妃』の顔を知っているだろうか?
いやいや。アスター国民が、遠いアシュバートン国の元王族の顔を知っている可能性は低い。
と、いうことは、先程食べた粉焼きのソースでも顔についていただろうか? と不安になってペタリとロザリアは手の平を頬にあてる。
しかし店主は慌てた様子で平静を装った。
「ど、どうぞ、奥様。今日はなにをお求めで……」
奥様?
ロザリアは違和感を感じつつ、それを表情に出さないようにゆっくりと意識して微笑んだ。
トーマスは店に入る際、『この女性が』とだけロザリアのことを説明したのだ。
現在、ロザリアは二十一歳。実際は離婚を経験し再婚をした身だが、既婚者だと目に見える証はなく、一目でそうと分かるかどうかは微妙なところだ。
勿論店主が勝手に既婚者と断じた可能性もあるが、客商売をしている者がそんな断定的な物言いをするだろうか?
普通に考えると、やはり彼はロザリアが何者なのかを知っている、という結論に至る。しかし、それは何故?
店主が直接ロザリアに話掛けたものだから、貴人のメイドであるベルがサッと間に入った。
「失礼。奥様は、アスター国で発刊された歴史書のことで知りたいことがあるそうです」
「あら」
ロザリアは、ぱちぱちと瞳を瞬かせる。
本来の目的であるその質問は、テオドロスと来た時用に取っておこうと思っていたのだが、気を利かせたベルが先に言ってしまったのだ。
これは拗ねる夫の為に知らないフリをしておくべきか、拗ねる夫を宥めるか、どちらの方が効率がいいだろう、とロザリアは暢気に考える。
彼の機嫌を取るのは、骨が折れるのだ。しかしロザリアにしか出来ない、彼女にとってやり甲斐のある仕事とも言えた。
すると背後でドサ、と鈍い音がして、不思議に思い振り返るとトーマスが頭から血を流して店の床に倒れていた。
トーマスの向こうには、棍棒を持った若い男。強盗か?
「トーマス!」
「奥様、逃げましょう!」
ロザリアが悲鳴を上げると、ベルがロザリアを抱きしめて庇った。わけが分からないが、このままここにいてはマズいと二人は逃げようとしたが、突然店主がアスター語で怒鳴る。
「キジャ! なんてことを!」
「こうなったら仕方ねぇよ、オヤジ!」
そのままキジャ、と呼ばれた若い男が棍棒でこちらに殴りかかってきたが、殴られる前に後ろから伸びだ手に何か薬を嗅がされて、ロザリアはあっさりと意識を手放すこととなる。
独特の香りは、アスター国の学者から教えてもらった、睡眠薬の薬草のそれだった。