4.悪い遊び
翌朝。
先に起きたテオドロスは、まだスヤスヤと眠っているロザリアの寝顔をたっぷりと堪能してから渋々、本当に渋々、仕事に向かって行った。
本音を言うと愛しい妻に『いってらっしゃい』と見送って欲しいのだが、健やかに眠っている彼女を起こすのは可哀相、という気持ちの方が勝るらしい。
対して夫の毎朝の葛藤など知ったこっちゃない、有閑な外交官夫人の立場であるロザリアは、陽が高くなってからようよう起き出す。実に優雅なものである。
「おはようございます、奥様」
「うん……」
寝起きがすこぶる悪いロザリアは、彼女付きのメイドであるベルがテキパキと支度を整えてくれている間も、まだ半分ぐらいは眠っている。嘘だ、八割寝ている。
「ドレスはピンクとオレンジ、どちらになさいます?」
「……むらさき?」
「承知しました」
寝起きの主がボケボケなことに慣れているベルはうんうんと頷いて、クローゼットから藤色のドレスを運んでくる。
ベルはロザリアよりも二歳年下なのだが、この時ばかりはお姉さんのように寛容に振る舞うのだ。
因みにこのロザリアのボヤボヤしている姿が大層可愛いとテオドロスに評判で、休みの日は彼が自ら妻の身支度を整えるのを至福としていた。
「では髪飾りはいかがいたしましょう? この前旦那様がお贈りになった真珠のものにいたしましょうか」
ベルが楽しそうに言うと、そこでようやくロザリアはハッと覚醒した。
「ベル、今日は街に行くから宝飾は付けないでちょうだい」
「街に? また古書店ですか?」
昨日もテオドロスと共に古書店巡りをしていたことを知っているベルに、怪訝そうに訊ねられる。
すっかり覚醒したロザリアは、大きな瞳を煌めかせニヤリと笑った。
現在テオドロスは、ロザリアと再会した国であるロベル国に在任外交官として滞在している。そして数日後にはロベルを引き上げて、また別の国へと赴任が決まっていた。
その為、外交官宿舎で働く使用人達は、荷造りで慌ただしい。
主人の妻であり、生粋の貴人であるロザリアは当然何もしないし、どうせなら邪魔にならないように、と街に出掛けることにしたのだ。
昨夜の本のことも調べたかったので、ちょうどいい、と彼女は考えていた。
「一人でいいのに。お前達も忙しいでしょ」
藤色のドレスに、真珠色のリボン。小さなポシェットと踵の低い靴。
街に到着し、馬車から降りたロザリアが後ろを振り返る。そこにはメイドと護衛の姿。
「奥様に何かあったら、旦那様に叱られます」
ロザリアに日傘をさし向けるベルの言葉に、護衛のトーマスがうんうんと頷いている。
皆の邪魔にならないように出てきたのに、人員を配されてしまっては本末転倒だ。
ロザリアは効率の悪さに唇を尖らせたが、そこではたりと己の夫の過保護ぶりを思い出す。
熟考の末、彼らを追い返した際に過保護なテオドロスがどんな対策を取るのか、考えるだけで頭が痛くなったので、二人同行ならば最少人数として受け入れることにした。
「……面倒をかけるわね」
「いいえ。ロザリア様は、我が国の宝ですもの!」
ベルはアシュバートン国から外交官宿舎に派遣されているメイドで、ロザリアの世話が出来るのを光栄だと言って、いつもニコニコと嬉しそうだ。
それというのもロザリアが王妃だった頃、国王が打ち出した数々の政策は実は彼女の献策だったことは、今や誰もが知っている事実だ。
かの素直なことだけが美点のアシュバートン国王ルイス陛下が、ロザリアがいなくなった途端凡人になった為、問い詰められてあっさりと白状してしまったらしい。薄々気付いていた者も多いとはいえ、国王がそれを認めてどうする。
万事恙なく整えて出てきたつもりだったが、さすがのロザリアもルイスの素直さを甘く見積もってしまっていたようだ。
しかし、そのおかげでアシュバートン国内で女性の社会的地位が少し向上したらしいので、何が功を奏するのかは分からないものだ。
そのような経緯だが、策など最善であれば性別も立場も関係ない誰が申し出ようと同じこと、という認識のロザリアには、『国の宝』などと呼ばれるようなことをした覚えはなかった。
だというのに平和な治世の為に陰ながら献策し、王とその恋人の為に身を引いた伝説の王妃、のような扱いになってしまっているのだ。
まったく、全然、ちっとも、ロザリアはそのつもりはなかったというのに。
*
ちなみにこの件に関してテオドロスは、
「もう私のロザリアなのに、いつまでも王の妻であるかのような言い方をされるのは気に食わないです」
と言うので、
「……お前はなんだか変なところにプンスカしているのね」
なんて会話をしたのは、つい最近の記憶だ。
*
「それで奥様、今日は何をお求めなんです?」
行動派の奥方がただ街歩きの為にやってきた、とは忠実なメイドは思っていなかった。
ベルに言われてロザリアは顔を上げる。が、すぐ傍の屋台では粉焼きを売っているのを見つけてしまった。
この誘惑に、ロザリアは滅法弱い。
粉焼きとはその名の通り、出汁と粉を水で溶いた生地を薄く焼き、野菜と細かく切った肉を巻いて食べる、どこの街にでも必ず一軒はあるであろう素朴な食べ歩きグルメだ。
贅を凝らした美食を食べて育った筈のロザリアの、近頃一番の好物である。
「粉焼き! おじさん、一つ頂戴。甘辛いタレのほうで」
ロザリアは屋台に駆け寄ると、自分のポシェットからサッと硬貨を出して支払う。その素早さに付いていけなかったベルは地団駄を踏んだ。
食べ歩き、はお嬢様育ちのロザリアがテオドロスと結婚してから覚えた、悪い遊びだ。
デートと称して二人で街歩きをする時は、必ず何か食べ歩きグルメを購入し半分こして食べるのがロザリアには新鮮で、楽しくてたまらないのだった。
「あ! もう、奥様!」
「なに、お前達もいる? よしよし、買ってあげましょう、塩ダレ? 甘辛ダレ?」
ベルに咎められたので、目的の為なら手段を厭わない敏腕政治家のロザリアはさっそく賄賂で懐柔しようとする。
「いりません! それより毒味……ああ!」
店のおやじが、焼き上がった粉焼きを薄い油紙で巻いてロザリアに渡す。彼女は、すぐそれに被りついた。
「もう! 奥様ー!」
ベルがじたばたと暴れるのをしり目に、ロザリアはもぐもぐと口を動かしながら無情にも通りを進んでいく。
こんな行儀の悪いことは二度目の結婚をしなければ、生涯知ることすらなくその生を終えていただろう。この点に関して、テオドロスに非常に感謝しているロザリアだった。
「見ていたでしょう? 目の前で作ってたじゃない。毒を入れる素振りはなかったし、そもそも今の私相手に毒を盛る需要なんてないわ」
ロザリアは宰相家の娘として生まれたので、ある程度の毒に耐性をつける訓練は受けている。しかし、まさか外国の屋台で毒殺を企む者もおるまい。
「猛毒なら匂いで分かるし、無味無臭の毒程度なら私には効かないわよ?」
「そういうことを言ってるんじゃありません!」
ベルはぷんぷん怒っている。
その間にペロリと粉焼きを完食したロザリアは、次は甘いものが食べたいな、と物色する。
ガヤガヤとした屋台はそれだけでお祭りのようで楽しく、馬車の窓から見ていた時よりもその中を歩く方が何百倍も楽しい。
「あ。まさか食べ歩きがしたくて出て来たわけじゃないですよね?」
「ふふ!」
ベルのそんな言葉に、ロザリアは思わず両手で口を覆って笑ってしまった。




