40.出立
ロザリアがアシュバートンに一時帰国することを決断すると、まるで止まっていた時計が突然動き出したかのように、物事があれよあれよと動き出す。
テオドロスがアスターを離れる間の代わりの外交官が到着する日取りが決まり、授爵式の日が決まり、オルブライト夫妻がアスターを旅立つ日が決まったのだ。
元々アスターには、アシュバートンから赴任してきて長年駐在している老齢の外交官がおり、テオドロスは彼の補佐の為に赴任してきていた。今回は一時的にその任を別の者が請け負う形だ。
あれこれ予定が決まる中でロザリアは旅支度をしていたが、義父となったオーケンはまるで生来の愛娘が旅立つがごとく寂しがった。
彼は本当に愛情深い男であり、この短い間にそれほどまでにロザリアのことを大切に思うようになってくれていたことに柄にもなく感動してしまう。
何せ実の父親は、何の感慨もなく娘を愛されない王妃として差し出したのだから。
「ああ、ロザリア……足らないものはないか? アスターのどの街でも私の名を使えば路銀に困ることはない。アシュバートンに着いてからも、アスター公爵家の名でツケにして構わないからな」
「お父様ったら、生粋の王族なのにツケなんて言葉知ってるのね」
荷造りをするメイド達。その横でオロオロとしているオーケンを見ながら、ロザリアはころころと笑った。
「こんなに可愛い娘のことを心配するのは当たり前だろう? ツケはリッカから教えてもらった言葉だ」
「お父様に碌なことを教えませんわね、あの馬鹿お兄様は」
ヤレヤレと溜息をついて、ロザリアはお茶を淹れる。
「冗談ではなく、私はあなたに深く感謝しているし、とても大切に思っているんだよ。稀代の才女だとは分かっていたが、柔軟な発想や明るい考え方は、私の後悔ばかりの人生に一条の光を齎してくれた。素晴らしい娘を持つ幸運に恵まれたことに感謝しているし……ロザリア、あなたのことが父として、大好きだよ」
オーケンがやや照れながら真面目に告げた言葉に、ロザリアは微笑む。
「……私の方こそ、『父親』とこんな風に穏やかに過ごしたり、政治の話を好き勝手に出来る日が来るなんて思ってもみませんでした。お父様、あなたの娘になれて私は幸せです」
もしも実父とこんな風に過ごせたら、どれほどロザリアの心は満たされただろうか。
たらればの仮定は無意味と知っている彼女は、それを考えない。今はただ、自分の歩み続けた後ろに咲く美しい花を大切に育むばかりだ。
「それに、今生の別れみたいに言わないでくださいませ。授爵式とやらが終わればすぐ帰ってきますので」
「そうだな……そうだな」
うんうん、とオーケンは頷いた。
散々面倒なプロセスを経たおかげで、ロザリアの存在は驚くほどスムーズにアスター政権に受け入れられている。勿論表立って彼女が矢面に立つことはないが、オーケンを通じてコンタクトを取って来る政治家も少なくない。
幸か不幸かアスター政権には『アスター一人勝ち』の思想が育っておらず、それゆえに今までも事なかれ主義が蔓延していたのだろうが、とにかくロザリアの助言を望む者達もアスターの利益だけを追求している者はいなかった。
こんな平和な考えで大丈夫だろうか? と心配にはなるものの、ロザリアの望みは『出来得る限りの皆の幸福』なので、思想が一致している。
今は四カ国同盟に所属する国としてどういう政策を取るのが最善か、ということがよくよく議題となる。
ロザリアは使える使えないに関わらず思い付きのアイデアをどんどん出し、それらはオーケンを通じて発表されるなり議会で賛否両論を呼び、次第に彼らの思考を刺激しだんだんと長期的視野を意識して深く考える政治家が育ちつつあった。
学生達との議論もあり、ロザリアとしてはとても充実した楽しい日々だ。しばし離れなくてはならないことが寂しいぐらいである。
ロザリアの淹れたお茶をのんびりと啜っていたオーケンだが、ふと思い出した様子で微笑んだ。
「そうそう、テオドロス殿が心配していたので、当家の護衛をロザリア専任に選んでおいた」
明日の天気でも話すかのようなのほほんとした調子で言われて、自分用に好物の干菓子を取り分けていたロザリアがギクシャクと義父に顔を向ける。
「……それは……代々アスター王家に仕えた一族、ということですか?」
「そうだ、腕は確かだし年もロザリアと近いので仲良く出来るだろう」
にこ、と無邪気に笑う義父オーケンに、そんな由緒正しい血統の護衛が急ごしらえかつ他国出身の『公女』なんかに仕えるのを良しとするだろうか? とロザリアは新たな頭痛の種を抱えることとなるのだった。
・
そしてついに出立の日がやってきた。
アシュバートンへは、最初にロザリア達がアスターに来た時とは逆の旅程を辿ることとなる。つまりアスターの港からロベルの港へ、そこから陸路でアシュバートンを目指す。
大陸内で地続きなのだから単純にアスターからアシュバートンへ陸路で向かうことも可能だが、アスターの王都は入り江の先端に位置する場所に存在するので、ぐるっと迂回することになり、ロスが多いのだ。道中、投宿にちょうどいい立地の街もない。
しかしそれも、四カ国間での共同事業である鉄道が通れば街も出来るし、行き来はぐっと楽になるのだろう。
イートンの属国になってまでこの事業に是非とも乗り遅れたくない、と考えたアスター議会の必死さもよく分かるというものだった。
かくして順調に旅程は進み、一行は予定通りロベル王都からアシュバートンの国境を目指して出発する。その国境に近い街で今夜は宿泊することになり、宿に荷物を下ろして食堂で夕食を食べている時だった。
たまりかねたようにロザリアが口を開く。
「……ところで、なんでお前まで来てるのよ?」
ずっと疑問だったのだが、何故か護衛に混じってリッカ・アスターが同行していたのだ。
面倒だったので問い質したくなかったの
だが、そろそろ目的地に着いてしまうので無視も出来ない。そして護衛に混じっているくせに、食事はロザリア達と一緒に摂るあたりが、いかにもリッカは図々しい。
「何って護衛だよ護衛。ロザリアはアスター公爵令嬢でもあるんだから、他国を訪れる時は護衛が付くのは当然だろ? あ、美味いなこれ」
「私の肉巻きオニギリ取らないでよ! じゃなくて、護衛ならニライがいるわ」
同じテーブルについているリッカと違い、扉の横に立っている美しいアスターの騎士を示した。
短く刈った銀の髪と紅い瞳の、ニライ。目立たないようにアシュバートン風の服装を着ているが、やはりアスター国民独特の雰囲気がある。
彼女は、今回他国に向かう養女を心配してオーケンが護衛として付けてくれた、すらりとした体躯の涼し気な美貌の女性の騎士だ。
アスターは職業選択に性差が関係ないので女性の騎士も大勢おり、ニライはその中でも指折りの実力者であり、由緒正しい『アスター王家に代々使える一族』だ。
当初の懸念は杞憂であり、幸いなことにニライはロザリアを主と敬い、良好な関係を築けている。
「うん、まぁそうだけどさ。いいじゃん、別に。俺、休暇取ったし」
「クビにするように武官所に奏上してやる……」
取られた肉巻きオニギリの代わりに、リッカの皿の上でまだ手を付けられずに大事に取られていた煮卵に容赦なくフォークを突き立ててロザリアはドドン、と宣言するのだった。
ちなみにその後、猫の額よりも心の狭い夫によってテオドロスの煮卵と交換させられたことは、特に重要なことではなく、いつものことである。
ややこしいけど、リッカの煮卵はテオドロスが食べて、テオドロスの煮卵をロザリアが食べた、ということです。リッカは煮卵を食べ損ねました。
す、すごくつまらない注釈ですみません…ロザリアは二個煮卵を食べています…




