12.港街の夜
夕方、何事もなく無事に、船はアスター国の港へと着いた。
アスターの王都へは、この港街から馬車でさら二時間ほど走ったところにあるので、今日は港街に一泊することとなる。
船のタラップを降りて、地面に足をつけたロザリアは、そこでふらついてしまう。
「ロザリア」
すると当然のようにテオドロスに抱き寄せられて、しっかりと腰を抱えられた。
「すごい、自分が揺れてるかのようだわ」
「長く船に乗っていると、そうなりますよね」
「皆そう? お前も?」
「はい」
「でも、お前は今随分しっかりしているように見えるわ」
「愛しいあなたの前なので、見栄を張っているんですよ」
「あら、カッコイイわね」
まったく、自分の夫は面白い男だ、とロザリアは感心してしまう。
彼はロザリアをどれほど見つめていても飽きない、と常々言うが、それはお互い様だ。やや、意味は違うが。
「旦那様、宿の手配が済みました」
「ありがとう」
従僕がやってきて、宿へと先導してくれる。ほど近い場所の宿らしく、馬車ではなく歩いて向かうようだ。
船に揺られた名残でまだフラフラしているロザリアにとっては、ちょうどいい足慣らしになる。
夕暮れの港街は、活気があって面白い。
オレンジ色の明かりが次々と灯され、店頭には貝殻のアクセサリーや土産物が並んでいて、あちこちで買い物のやり取りの声が飛び、即席の屋台では網の上で海鮮の焼ける香ばしい匂いがした。
「テオ、テオ」
ウキウキとした気持ちになって、ロザリアはすぐ隣を歩く夫の腕に触れる。
「荷物を置いて少し休んだら、今夜の夕食は屋台で食べましょうか」
「大好き、テオ!」
ぱぁっ、と笑顔になったロザリアが喜んで言うと、テオドロスはやや複雑な表情を浮かべた。
「……現金な貴女もまた、大変魅力的です」
「嫌味を言われているのはわかるけど、気にしないわ」
ロザリアは澄まして言うと、後でどの屋台に連れて行ってもらおうか、と辺りをキョロキョロと見渡しながら歩く。注意が散漫になっていたが、そこはテオドロスに抱き抱えられているも同然なので、特に問題なかった。
船の上で眠った所為か、一日移動していたというのにロザリアは元気いっぱいで、宿に荷物を降ろすとすぐに外に出よう、とテオドロスを促す。
「元気ですねぇ」
「だって明日にはもうここを出るのでしょう? 港街の夜は今日だけだもの」
はしゃぐロザリアを抱き寄せて、テオドロスは苦笑した。それを見て、ロザリアは眉を下げる。
「お前は疲れている? それなら私は一人……はダメよね、ベルと護衛に同行してもらって……」
「いえ、大丈夫ですよ。普段の貴女はここまで活動的ではないので、とてもはしゃいでいる姿が可愛らしくて珍しかっただけです」
ロザリアが手を伸ばすと、テオドロスはやや屈む。近づいてきた黒髪の形のいい頭を、丁寧に撫でた。
「本当? お前に無理させるつもりはないのよ」
「本当ですとも。でも貴女は今興奮して少しはしゃぎ過ぎなので……夜は早く眠りましょうね。明日も移動だし、体は疲れている筈ですよ」
初めての船旅に、初めての港街。存分に興奮している自覚はあるが、テオドロスがそう言うのならば実際にはもっと体は疲れているのだろう。
「……分かったわ。じゃ早く外に出掛けて、早く帰ってきて、早めに寝ましょう」
子供のようなことを言うロザリアに、テオドロスはいつものようにデレデレになって頷く。
明日にはもう出発するので、荷解きも必要ない。護衛を一人とメイドのベルと共に外に出ると、早速屋台を冷やかして歩いた。
ロザリアは、ロベルでの屋台の食べ歩きが大好きだったが、この港街でも存分に楽しんだ。
もしも、実家で淑女教育を担当していた家庭教師が今の彼女を見たら、驚きで倒れてしまうかもしれないほどだ。
「テオは私が何をしても怒らないのね? 愛しているから?」
ロザリアは楽しくて、笑いながら夫に尋ねた。
イカをぶつ切りにしたものを串焼きにして、甘辛いタレを掛けたものを齧る。彼女の持つ串から、そのまま一切れイカを食んだテオドロスは、ペロリと唇を舐めて首を傾げる。
「もしも……万に一つもあり得ませんが、貴女を愛していなかったとしても、貴女を怒る点なんて今のところ見当たりません」
「そう? 私、我儘ばかりだし、お前の手を煩わせてばかりのような気がするんだけど」
ロザリアが珍しく殊勝な態度でそう言うと、テオドロスは本当に意味がわからない、と眉を下げた。
「ロザリア……貴女の我儘は、ごく普通の願いばかりですよ。むしろ贅沢を望まないし、束縛もしないし、私としてはもっと貴女の要望を叶えたいぐらいです」
「……そうなの?」
今度はロザリアが眉を下げる番だった。
ロベルでもこの街でも、貴人に相応しくないことばかりやりたがり、その癖未だに貴人としての癖が抜けないので一人で行動出来ない。手のかかる、困った女だと思うのに。
愛情があるから許されているのだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「ロザリア。私は貴女を愛していますが、なんでも許すわけではありません。貴女が間違っている時はちゃんとお伝えしますよ、だから心配せず、貴女は貴女の思うように行動してください」
「テオ……ありがとう」
前の夫には好かれる必要も嫌われる心配もなかったので、ロザリアは自分の好きなように振る舞っていたが、王妃の頃に出会った外交官であるテオドロスが、今のロザリアを見ている内に段々と幻滅していくのでは、という不安がふと過ぎったのだ。
しかしそれはどうやら杞憂らしい。
テオドロスが自分にベタ惚れなことを利用して、我儘放題していると思い込んでいたのだが違ったようだ。
だがこれが世間一般の基準なのか、テオドロスが特別こだわりのない性格なのかの判断がまだつかないロザリアである。
「……もっともっとたくさんのことを知って、見聞を広めなくちゃね」
「これ以上広げるんですか?」
何故その考えに至ったのか分からないテオドロスは、不思議そうに呟いた。
「ねぇ、じゃあ酒場に行ってみたいわ」
「それは流石におやめくださいませ」
「話が違う……」
途端に却下されて、ロザリアは形ばかり拗ねてみせたが、これは流石に通らないだろう、と思ってわざと言ったので叶えられなくても構わない。
「じゃあ、あそこに売ってる果実酒を飲むのは?」
すかさずロザリアは、オレンジ色のランプの下に大きな甕が並べた屋台を指差す。
屋台をジロジロと見て、テオドロスは渋々頷いた。
「うーん……それを飲んだら、もう帰る、と約束してくれるならいいですよ」
「やった」
本当に通したい願いがある場合は、いかにも無理そうな願いを先に口にするのがいい。これもまた、テクニックだった。
「酔った貴女は格別可愛らしいので、人に見せたくないのです」
「またなんか言ってる」
「酷い人。私の気持ちなんてちっとも分かってくださらない」
「好きにしていい、と言ったのはお前でしょう?」
「私め、前言撤回してもよろしいでしょうか?」
「だーめ!」
肩を震わせて笑うと、ロザリアは夫の腕を引いて果実酒の屋台へと引っ張った。




