10.船上にて
そうしてアスターのデガルがやってきて数日後、ロザリアとテオドロスは予定通りアスター国へ向けて出発した。
快晴の空の下、煌めく海の上を滑るように船が進む。
ロベル国からアスター国の王都へ向かうには陸路もあるが海路の方が圧倒的に速く、内海なので波は穏やかだ。
朝早くにロベルを出発した船は夕方頃にアスターの港へ入る予定で、先程通りがかった船員に確認したが航海は順調に進んでいる、とのことだった。
ロザリアは、初めての海の旅なのでとても楽しみにしていて、今も甲板に出て刻一刻と姿を変える海の波間を熱心に見つめている。
「ミネル・ローグの詩に、波の変化の美しさについて描かれたものがあったけれど、まさにこのこと、という様相ね」
うっとりとロザリアが溜息をつくと、彼女を背後から抱きしめているテオドロスが頷いた。
「あんまり身を乗り出さないでください、ロザリア」
「何よ、落ちたりしないわ」
「子供のように夢中になっていて、何を言ってるんですか」
テオドロスは、先ほどから彼女が身を乗り出す度に、海に落ちてしまうのでないか、と気が気ではない。何せ彼女は、本に対する時もそうだが、夢中になると周囲が見えなくなってしまうのだ。
柵と自分の体の間にしっかりとロザリアを挟む。
尚且つ片方の手をぎゅっと繋いで、ようやくテオドロスは彼女がここに立ち続けることを許容出来た。
「しかしあまり風に当たりすぎて風邪を引いてはいけません、そろそろ中に戻りましょう」
「後でもう一度見たいわ」
「わかりました。食事の後に、またご一緒しましょう」
テオドロスが言うと、ロザリアはうんうんと頷いた。
一日に満たない旅程だが、寛げる一等客室をリザーブしてある。そちらに料理を運ばせることも出来るし、船内のレストランでも食事が出来ることを告げると、ロザリアは大きな緑の瞳を輝かせた。
「レストランに行ってみたいわ」
「そういうと思って、席を取ってあります」
「手回しがいいのね、ちょっと癪だわ。私が部屋で食事を摂ると言ったら、どうするつもりだったの?」
「勿論、部屋にご用意してあります、と言うだけです」
「……手回しのいいこと」
テオドロスの澄ました顔がどうにも癪でロザリアが唇を尖らせると、彼に素早くキスをされた。
ちなみに部屋に運ばせた方の料理は、世話の為に同行している使用人達が食べてくれるらしい。
その中には、あの騒動の後正式にロザリア付きになったベルもいる。
そのままテオドロスのエスコートでロザリアはレストランへと向かった。
ぐるりと美しいカーブを描く大階段を降りると、金の細工の施された木製の扉があり、お行儀よく両側に控えていたドアマンがそれを開く。
中は広い空間になっていてたくさんの丸テーブルが並び、ふわっと喧噪が押し寄せた。
恐らくディナーもここが会場になっていて、天井には煌びやかなシャンデリアがいくつも吊るされていた。昼間の明るい現在は、明かりが灯っていないが、夜の海の中ではこの船自体が大きなシャンデリアのように光り輝くことだろう。
既にテーブルに付いて食事をしている客も多く、テオドロスが入り口で係の店員に名を告げると、すぐに窓辺の席へと案内された。
「眺めのいい、素敵な席ね」
「食事をしながらでも海が見られるでしょう?」
「落ちる心配もないしね」
嫌味のつもりでにっこりと微笑んでロザリアが言うと、テオドロスが真面目な顔で頷くものだから、また笑ってしまった。
食事は、ここが船内だと忘れるぐらいきちんとしたコース料理で、料理に合わせてワインのグラスもどんどん増えていった。
ロザリアはアルコールに強いわけではないので一口飲む程度に留めておいたが、その残りをテオドロスがすいすいと胃に収めるのはなかなか見ものである。
「お酒が強いのね」
「そうですね。どこに行っても、酒を酌み交わして関係を深めるのは未だに常套手段です」
「前時代的だわ」
「前時代の方々が相手なので」
テオドロスのその物言いに皮肉を感じ取って、ロザリアは目を丸くした。酒に強いからといって、酒宴を好ましく思っているわけではないらしい。
「お前のそういう顔、珍しいわね」
「まだ知らない私がいる、というのは貴女の好奇心をくすぐりますか?」
いつでも妻に関心を持ってもらいたいテオドロスは、彼女の顔を覗き込むようにして尋ねる。そのいじらしさが微笑ましい。
食事も終盤に入り、デザートと食後のお茶が運ばれてきた。海の上でここまで本格的な食事が出来るなんて、と驚くと共に実は平民達の食べている軽食もちょっと体験してみたかったロザリアである。
甲板にずらりと並んだベンチに腰掛けて、硬い紙の箱に入ったサンドイッチやホットドッグを美味しそうに齧っている姿は、とても楽しそうだったのだ。
今日は、アシュバートンの外交官とその夫人としてアスターへ向かう船に乗っているのでその体裁を保たなければならないが、いつか船デートを提案しよう、と頭の中にメモをする。
船上での宿泊もしてみたい。
きっとテオドロスは喜んで付き合ってくれる筈だ。
ロザリアが想像してニヤニヤとしていると、妻が微笑んでいるだけで嬉しいテオドロスも自然と笑顔になる。
「何を考えているんですか?」
「次のデートのこと」
「それはとても素晴らしいアイデアですね」
「まだ内容を話していないわ」
「次のデート、が素晴らしいアイデアなんですよ」
相変わらずのロザリア至上主義だ。しかし結婚してしばらく経つのに、今でもデートの提案ひとつでここまで喜んでくれるのは、ロザリアとしても単純に嬉しい。
それが愛する相手ならば、ひとしおだ。
「……お前は、私が今日は髪を切ろうと思うの、と言っても素晴らしいと言いそうね」
「貴女の髪は綺麗だから、出来れば切らないで欲しいけれど……うん、そうですね、貴女が提案することは、私にとって何もかも素晴らしい提案です」
そんなことを言うので、テオドロスが可愛くてつい意地悪なことを言いたくなった。
「あら、離婚しようと思うの、と言っても?」
「それは、私と言葉遊びをしたい、という提案ですよね。ええ、勿論、離婚は嘘に決まってますものね」
しかし相手も慣れたもの。最初は傷ついた様子を見せていたののに、今ではすっかり反撃してくるようになってしまった。
これは、可愛くない。
「図太くなったこと」
「貴女好みになれましたか?」
「お前は、出会った時から私好みだけど?」
ロザリアがあっさりと言うと、テオドロスの顔から表情が消えた。
デザートの柑橘とチョコレートのケーキを食べていたロザリアは、首を傾げる。
「どうしたの」
「……感動しているところです。もっと言ってください」
あんまり可愛いので、テーブル越しに今度はロザリアの方から彼にキスをした。キスは、当然チョコレートの味がした。
食後レストランを出た二人は、海を見るのは後にして少し休もうということになり客室へと戻る。
合図をするとメイド達は隣の使用人控え室へと下がっていき、その途端に、テオドロスはロザリアを抱き上げて一緒のソファに座った。
「外で食事すると、こういうことが出来ないのが不便ですね」
「私は別に不便は感じないけど?」
ツンと澄まして言ってみせると、彼はわざとしょげたので笑ってキスをしてやった。可愛いテオドロスは、すぐに機嫌を直す。
むしろキスが欲しくて、しょげたフリをしているのかもしれない。
しばらく彼はキスの余韻を味わうように目を伏せていたが、そうやく顔を上げる。
「……貴女は次の赴任先がアスター国だから、かの国の歴史書を読んでいたんですか?」
「そうよ。事前学習というところかしら」
「アスター語まで修得している方が、何を今更」
テオドロスは肩を竦めたが、知識はいくらあってもあり過ぎるということはない。元々学びの好きなロザリアだ、次に向かう国が決まったのならば、その国に付いて詳しく知りたいと思うのは自然な流れだった。
テーブルの上に出しておいた件のアスターの歴史書を手繰り寄せて、ロザリアはそれを膝の上で開く。
「貴女の気になっている箇所というのはどこなんです?」
「ここよ」
西のアシュバートンと南のロベル、東のアスター、そして北のイートン。
何十年も前に、その四カ国が集まって、交易や文化交流など、更なる発展と友好を築くことを約束して、四カ国同盟が結ばれた。
これが、珍しくアスターが歴史書に登場する直近の出来事だ。
各国は互いに争ったことはなかったが、これからはどうなるか分からない。その芽を早めに潰し、互いに牽制しておく目的もあったのだろう。
同盟に際しての会談も恙無く進み、歴史的に大きな意味を持つものの意外なほど和やかにその同盟は締結された。
と、いうのがアシュバートンの教師が教える歴史であり、歴史書にもそう記されている。
ロザリアが説明すると、テオドロスが頷いた。
「確かにそうですね。こんなに簡単に結ばれた同盟も珍しいのでは?」
「そうね。当時の政治家達の優秀さがよく分かるわ」
ロザリアが目を輝かせると、テオドロスは眩しそうに目を細める。
彼女の好奇心がうずいた時の煌めくような表情が、テオドロスは大好きなのだ。
別の視点も知りたかったので、ロザリアはロベルとイートンの歴史書も読んだが、どちらも同じように書かれていた。
同盟を組んでいるものの、国自体が閉鎖的なアスター。そのアスター国で発刊された歴史書は、残念ながらアシュバートンの王城図書館の蔵書にはなかった。
だが、四カ国の内三カ国が同じように記しているのならば、裏付けは十分だろう、と気にはしていなかった。
そして今回、たまたまテオドロスがアスターに赴任することになったので、初心に戻ってアスターのガイドブックのようなものはないだろうか、と本屋の棚の前をウロウロして見つけたのが、このアスター発刊の歴史書である。
「問題の記述はここ」
ロザリアが紙面を指で辿る。
テオドロスは、彼女の爪は綺麗な珊瑚色だな、この人は爪先まで美しいのだな、と感嘆した。
「なるほど」
「何故かは分からないけど、今気がそぞろなのは分かるわよ」
ロザリアは厳しく言ったが、テオドロスは機嫌よく彼女の手の甲にキスをしてから、本に視線を落とす。




