0.お前を愛することはない、だと?
長編用に、短編をリブートしました。
基本的な内容は短編と同じですが、エピソードを加筆してます!
「ロザリア、俺には愛する女性がいる。だから、お前が妻になったとて、お前を愛することはないだろう」
大陸の西に位置する、大国アシュバートン。その王城の謁見の間には、ひんやりとした空気が流れていた。
玉座に座っているのは父を急病で亡くし、王位を継いだばかりの若き王。ルイス・アシュバートン。
彼に相対しているのはこの国の宰相の娘である、ロザリア・エインズワース侯爵令嬢だった。
王に冷たく告げられて、王妃となる為に登城したロザリアはそれまで下げていた視線を上げて、表面上はおっとりと頷いた。
ロザリアは蜂蜜色の長い髪に緑の瞳の、理知的な美貌の娘だ。
今日の為に母と選んだ光沢のある青色のドレスは彼女によく似合っているしメイド達が時間をかけて万事美しく支度してくれたというのに、まさかこんな展開になるとは。
人払いされた謁見の間には二人しかいないとはいえ、とんでもなく失礼なことを言われているこの状況。どうしてくれようか、と一つ瞬きをした。
落ち着こう、相手は腐った王だ。いや、腐っても王、だ。
「……分かりました。でも、私との婚姻を拒否出来るのですか陛下」
ロザリアはルイスと正式な婚約こそ結んでいなかったが、幼い頃から王妃となる為に教育されてきた。幼い頃には王妃候補は複数名いたが、最終的に父親の社会的地位や能力などを鑑みた結果ロザリアが選ばれたのだ。
これはアシュバートンの議会の総意でもある。
仮令国王であろうとも、彼の個人的な感情で拒否出来るものではない筈だ。
すると案の定、ルイスは苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「それは……出来ない……。俺はまだ王として立場が弱い、お前の父である宰相が決めたことを拒否する力はない。それに俺の恋人は貴族令嬢だが地位が低く、現状ではとても王妃として娶ることは許されない」
ロザリアの美しい緑の瞳が、もう一度頷く。
「では……どうなさるおつもりですか?」
彼女が不思議そうに首を傾けると、蜂蜜色の長い髪がとろりと肩を流れた。
ルイスは、自身の現状をよく理解出来ている。政略結婚なのだからわざわざ教える必要はないのに、ロザリアに愛するつもりがないことと恋人のことを告げてきたのだ。そのことがいかにも不思議だった。
責められていると感じたのか、若き王は弱り切って眉を下げる。
「お前には悪いが、このまま王妃になってもらう。だが、お前を愛することは決してないし、夫婦の関係にもならない」
最初に告げられたことの復唱に感じられて、ロザリアはまた首を傾げた。
それは分かっているので、その先を知りたいのだ。まさかそのまま愛のない結婚を続けて、恋人とも付き合い続けるとでも言うのだろうか?
そんな生産性のない結婚に付き合う方の身にもなって欲しい。それならばいっそ知らない方がよかったぐらいだ。
「……その後は、どうなさるのです?」
「王には確実に世継ぎを残す為に、二年経っても王妃が身籠らなければ離縁する権利がある。それを利用して何年掛かっても必ず皆に認められる王となり、お前と離縁して恋人を妃として迎えたいと考えている」
ロザリアはなるほど、と考えて反対側に首を傾けた。
ルイスにちゃんと将来の目標があってよかった。ロザリアは彼のことをこれっぽっちも愛してはいないので、離婚されることは構わない。それを周囲が許すかどうかはルイスもしくは件の恋人がなんとかすべき問題で、愛されていない妻の仕事ではないだろう。
そんなわけで離婚自体は構わないが、あまりにも利己的な主張だったのでこちらにだって文句を言う権利はあるだろう。
「それは……私に対して、あまりにもひどい話ではないですか?」
ロザリアが冷ややかに言うと、さすがに自覚があるのか若き王は頷き、深く頭を下げた。
「悪いとは思っている。だから代わりに、お前の望みはなんでも叶えよう。どうか、仮初の王妃をしばし務めてくれ」
ちょっと嫌味をいうだけのつもりだったが、状況が変わってきた。
ロザリアとて、この結婚を拒否出来ないのは同じだ。ルイスが罪悪感を持っていようと、いまいと、仮初の王妃役に甘んじるしかなかった。
しかし、他ならぬ王自身がこんな事を言ってくれるなんて。これを利用しない手はない。かねてより、どうしてもやってみたいことがあった彼女は、この提案を呑むことにした。
ニヤリと笑う口元を、ロザリアは扇を広げて隠す。
「……その言葉、二言はございませんね?」
こうして王は、宰相の娘を娶り、王妃としたのだった。
・
前王が亡くなったばかりということで、ルイスとロザリアの結婚式は国教の大司教が執り行ったにもかかわらず小規模なものだった。身内と重鎮だけで国民にお披露目も行われなかったし、恩赦などもない。
代わりに、新しく王妃となったロザリアから国民全員に軽食が振る舞われるとお触れがでた。
炊き出し隊が国中を巡り、時間はかかったもののアシュバートン全土に王妃からの振る舞いが届く。ささやかな祝いの膳という体だったが、その軽食のおかげで一時的に飢えを凌げた者もおり、よく感謝された。
そうして、結婚してひと月。
王妃となったロザリアは、ふんふんとご機嫌で城の中を歩いていた。既婚者となったので落ち着いた色合いのドレスを用意されることが増え、肌を覆う布面積も増えた。
ドレスはいつもずっしりと重いが、これは未婚の貴族令嬢としての装いとさして変わらない。
ルイスに提案された仮初王妃の期間は二年。その後の自分の為に、ロザリアはこの二年の間にめいいっぱい自分の為に出来ることをするつもりだった。
真っ直ぐに図書館を目指し朝から晩まで貴重な文献をずっと読むのが、目下の彼女の至福である。
「今日からは新しい書架に取り掛かれるわね。楽しみだわ」
知識はどれほどあっても困らないし、王城の図書館の全ても閲覧することを許されている王妃という立場を存分に利用すべきだ。
宰相の娘という身分でも読むことの出来る本の範囲はかなり広かったが、王妃ともなればどんな文献でも読み放題。
司書立ち合いの下で扱いに細心の注意が必要な古文書すら、望めば開かれるのだ。これが最高の環境と言わずに何と言おう。
図書館にたどり着くと書架からどっさりと本を取り、お気に入りの奥まった閲覧スペースに陣取ったロザリアは早速一冊を手に取り、ページを捲った。
王妃としての公務も淑女としての貴婦人達との交流も、必要最低限はこなしている。多忙な身だが、ロザリアは必ず読書の時間を捻出していた。
「今日もご機嫌ですね、妃殿下」
そのまましばし他国の民間療法を纏めた本を夢中で読んでいた彼女は、突然声を掛けられて眉を寄せた。
「……たった今機嫌が下がったわ、外交官殿」
「おや、お邪魔してしまいましたか」
書架の間に顔見知りの外交官、テオドロス・オルブライトが胡散臭い笑顔を浮かべて立っている。
襟足の長い黒髪に青い瞳、長身に一応文官である筈なのにがっしりとした体躯。濃紺に金刺繍の制服をきちんと着こなす姿がよく似合っている美丈夫だ。
しかしこの男は何故か定期的に王妃の読書の時間を邪魔をしてくるので、ロザリアは塩対応を取ることにしていた。
「分かってるなら声を掛けないでちょうだい。そもそも臣下から王妃に声を掛けるのは不敬よ」
びしっと言ってやったが、彼が思わせぶりにチラつかせた本を見て、彼女は目の色を変える。
「そ、その本はもしや……!」
「王妃様……不敬をしてしまい申し訳ありません。私は御前を下がらせていただきます……」
ロザリアの目が自分の手元の本に釘付けなことに気づいている筈なのに、テオドロスはわざとしおらしいフリをして本を持ったまま立ち去ろうとした。
「不敬を許します。さっさとその本を置いていきなさい……!」
「追いはぎみたいなことを仰る」
彼が差し出した本を、ロザリアは素早くひったくると中身をざっと確認する。表紙を見ての予想の通り、ロザリアが読みたくてたまらなかった一冊だ。
「やっぱり! 西大陸の政治学の本!」
「こんな古い時代の本にまで興味がおありなんですね。愚かさで滅んだ国の文化ですよ?」
「愚かさからは、これが愚かである、ということが学べるわ。良いことも悪いことも両方知っておくことが大事なのよ」
「我が王のように?」
テオドロスは恐れ多いことに、ニヤニヤと笑いながら言う。王城内で王を愚かと罵るなんて、随分怖いもの知らずである。
すごい速さでページを捲りながら、ロザリアは彼の言葉を穿った。
「また不敬ね。その首刎ねられたいの?」
「王が王妃を蔑ろにし、別の令嬢と懇ろなことは皆が知っています」
そこで意外な程真剣な声を出し、彼は眉を寄せる。
ロザリアは一瞬顔を上げたが、相手の表情を見てまた視線を本に戻した。彼が何を言いたいのかは知らないが、これ以上深追いはしたくなかった。
テオドロスに会う度に少しの会話を通してお互いのことを知ってきたが、ロザリアは王の妻、王妃だ。彼とこれ以上親しくなるのは互いの為にならない。
少なくとも、今は。
「……隠す努力ぐらいはして欲しかったのだけれど、何事にも素直なところが我が王の美点ね」
「よく御父上のエインズワース侯爵が怒ってきませんね」
「我が父は、私を王に差し出すことで望む権力を手に入れたから、大満足よ。差し出したものがどう扱われようと気にする人ではないわ」
彼の方こそ珍しく怒っているらしい。テオドロスの声を聴きながら、ロザリアは顔を上げることなくさらにもうひとページ捲る。どうやら彼は自分の為に怒ってくれているらしく、その声の響きは心地よかった。
でもこれは利害の一致した婚姻なので、心配は無用だ。
「それは……王妃様は、お辛くないですか?」
「全く辛くないわ。素直な王が、結婚前にきちんと話してくれていたし」
速読して一旦満足したロザリアは、ようやく顔を上げる。
そこには意外なほど真剣な顔をしたテオドロスがいて、緑の瞳を瞬いた。
「なんて顔しているの、らしくない」
「……それで、貴女に利はあるんですか? 図書館の本が全て読めるだけで満足なんですか? 貴女が望むなら、私は……」
それ以上この男に言わせてはいけない、とロザリアはさっと話を引き取る。
彼がどんな気持ちで言っているのか、汲み取るわけにはいかないのだ。
「まさか。見縊ってもらっては困るわ、外交官殿。私の望みはこの程度じゃないのよ」
それからトン、と本の表紙を指で弾いて、ロザリアはにっこりと微笑んだ。
ロザリアが言う通り、彼女の父である宰相は自分の望み通りに政治が出来て上機嫌であり、『王妃を蔑ろにして恋人にうつつを抜かす愚王』それが王であるルイスへの周囲の評価だった。
唯一、宰相の嫡男であり王妃の兄、ベネディクト・エインズワースが激昂し父のアルバートに苦言を呈したが、受け入れられることはなかった。
しかし、結婚からふた月、み月と経つ間に、だんだんと風向きが変わってくる。
王が議会で打ち出す施策が、どれもこれも有効なものばかり、ということが続いたのだ。
しかもきちんと根拠になる資料が用意されていて、それには各国の歴史を引用して成功例と失敗例を示し、我が国の気候や状況などに合わせて適宜取り入れてあったのだ。
そんなことが何度も続き、前王の急逝で王位についた若造、愛に溺れる愚王だとルイスを侮っていた大臣達は、だんだんと王の言葉に耳を傾けるようになっていった。
結婚から一年経つ頃にはルイスの施策は全て良好な結果を出し、彼は皆の認める賢君となっていた。
しかし勿論、これには裏がある。
「うううーーーん。本当に、政治って楽しいわ」
いつものように図書館で、いつものお気に入りの閲覧席。こちらもいつものようにテオドロスが向かいの席に座って、やや呆れた表情を浮かべていた。そんな彼を気にした様子もなく、頬に手を当てたロザリアはうっとりとため息をついた。
「正しい施策を行い、結果が出る。問題が起こればその都度最適解を導き出して、先の先まで読んで対処する。そりゃあお父様が夢中になる筈よね。良い政策を行えば、民は喜び、国は肥える。イイコトずくめじゃない!」
そう。
ロザリアは、歴史書から仕入れた知識と生来の政治的発想を合わせて、国にとってもっともよい案を作成し、ルイスに議会で発表させていたのだ。
ウキウキと楽しそうなロザリアに、テオドロスは困ったようにため息をつく。
「政治馬鹿なのは御父上譲りでしたか……確かに今の宰相も地位の割りに富を望みませんね。娘を王妃に、と推挙してきた時は、ついに我欲を出したな、と思ったが、本当にご本人も自分の自由に政治がしたかっただけとは……」
先程まで散々本運びを手伝わされていたテオドロスは、さすがに疲れてぐったりとしている。外交官としての制服はやや着崩されて、普段隠されている首元が晒されていて艶っぽい。
もう書棚を何往復させられただろうか、梯子いらずの彼の長身にロザリアは大層ご満悦だ。
幸いなのは、彼女が指示する書棚には目当ての本がきちんと収まっているので、無駄に探し回る必要がないことぐらいだ。
「ふふん。そのお役目は私が奪ってやったけどね」
ルイス王が見事に良策を議会で発表するので、宰相もそれに従わざるをえないのだ。
勿論ただロザリアの考えた案を伝言ゲームのように言っているだけでは、それこそ宰相に鋭い質問をされて言葉に詰まってしまうだろう。
政策を確実に議会で通す為に、必要書籍の読み込みと提出用の資料作成はルイスの仕事だった。
そうすることで強制的に内容を頭に叩き込み、自分の言葉として議会で説明出来たからこそ、宰相を含めた大臣達は彼を賢君と認めたのだ。
「こんなに我欲のない政治家など、見たことがありません」
今は、そのルイスに渡す必要書籍を選別しているところだった。
ロザリアは一度読んだ本の場所を全て覚えていて、次はあの棚の一番上、などと外交官に優雅に指示を飛ばす。文字通り、いいご身分である。
「あら、とても取り組み甲斐のある仕事でしょ。国を好きに操るんだから、手段とご褒美が一緒なだけで、我欲まみれよ?」
それを聞いて、テオドロスは苦笑した。優しい笑顔だ。
「その結果が善政なのだから、我が国と我が王は幸福ですね」
元々、膨大な書籍を読み込み、その中から自国に使えるアイデアをピックアップしてアレンジするのは、幼い頃からのロザリアの趣味だった。
しかしどれほど有効な政策を思いつこうと、女である彼女の意見は常に無視される。そして宰相の嫡男である兄のベネディクトは優しく誠実だが、父親の才覚を継いではいない。
そして父であるアルバートの仕事を見て来たからこその趣味だったというのに当の父でさえ、彼女の案はユニークだと評したが取り合うことはなかったのだ。そしていつも、女に生まれたことをロザリアは嘆かれる。
その度に、いつも彼女は悔しい思いをしてきた。
「ですが、そもそも貴女は貴女である、というだけで素晴らしい」
テオドロスが優しい声で言うのを、ロザリアは顔を上げずに聞いた。
自分の実力を示したくて行動していたのに、ただロザリアであることを肯定されてしまっては泣きそうだ。
泣いたりなんてしない。まして、夫でもない男の前で。
「……そうでしょうとも! 王妃になれと言われた時は、あの父親どうしてくれようかと思ったけど、陛下が私の望みを叶えてくださったので、私は今大変満足してるわ」
だからわざとロザリアはにっこりと微笑み、参考文献の山を追加する。
彼女の表情の変化をじっくりと見たテオドロスは、ほんの少しだけ苦く笑った。
「そうですか……しかし、残念です。せっかく楽しそうな王妃殿下のお姿なのに、私は他国に赴任することが決まったのでしばらく見ることが叶いません……本当に、残念です」
「お前……私を見て、面白がっていたということ? 不敬よ、首を刎ねるわよ」
彼の妙な言い方に、ロザリアは眉を顰める。
首を掻っ切るジェスチャーを彼女がすると、テオドロスはしおらしい様子でまた一冊の本を取り出した。
「ああ……そういえばコレを出し忘れていました」
「ああああ、それはひょっとして、幻と言われている南国の医学書……」
チラチラと見えるのは、南国特有の顔料で描かれた表紙。王妃の権力を駆使しても手に入れることが出来なかった本が、今、目の前にあるのだ。
しかしテオドロスは無情にも本を上着の中に仕舞う。
「首を刎ねられてしまうので、このままでは私の血で汚れて読めなくなりますね……残念です」
「許す許す、刎ねない刎ねない」
「王妃様、ちょっとチョロすぎませんか? 私め、心配です」
本に飛びついたロザリアに、さすがに彼は胡乱な目を向ける。が、彼女は一切気にした様子もなく、食い入るように紙面を見つめた。
「……では御前を失礼いたします」
「ええ。どこに行くのか知らないけど、どうぞお元気で」
ロザリアは、わざと本から顔を上げない。
彼の顔を見たら、余計なことを言ってしまう予感があったからだ。
そうしてこの日を最後に、テオドロスは他国に赴任する為にアシュバートンを出て行った。
もう図書館に行っても彼に会うことがないのだ、と思うと単純な寂しさと、そして別の感情が湧き上がってきたが、ロザリアはその気持ちから目を背ける。
今の自分にはやり遂げるべき仕事がある。それに集中していれば生まれかけの思慕を封印することも出来た。
そしてもしもいつか、またあの嫌味な外交官に会える日が来たら、胸を張って自分の仕事をやり遂げたことを自慢してやるのだ。
・
春のアシュバートンには、社交界シーズンが巡ってくる。
もっとも父によって生まれながらにして、王族もしくは高位貴族に輿入れさせられることが決まっていたロザリアにとっては、夫探しの場ではなく正しく『社交の場』でしかなかった。王妃となった今でもそれは変わらない。
予定通り娘を王妃の座に座らせて、相手の王は操るのに打ってつけの程ほどに愚か者。さぞかしロザリアの父であり宰相であるアルバート・エインズワース侯爵は気分がいいだろう。
パン屋の娘に生まれたらパン屋を手伝うだろうし、農家に生まれても宰相の家に生まれても、きっと家業を手伝うのは同じだ。そういう意味で父のことは恨んではいないが、敬う気にもならない。
そしてロザリアは、おっとりとした良妻賢母である母のフレデリカ・エインズワースよりも明らかに父であるアルバートに気性が似ている。
そんなわけで、大人しく王妃として愛想を振りまくよりも、滅多に会えない引退した政治家達から話を聞いて夜会を過ごしていた。
勿論義務として、夫であるルイス陛下とファーストダンスを踊った後、である。
ルイスの方も、一曲踊った後は皆からの挨拶を受け、その後早々に姿を消していた。恐らく『恋人』の元に向かったのだろう。
王家主催の舞踏会には全ての貴族が招待されていて、なかなか会うことの出来ない王と恋人にとって絶好の逢瀬の機会だ。
件の恋人は、アンジェリカ・コルトー子爵令嬢。亜麻色の髪と水色の瞳の大人しそうな美人で、ロザリアは独身時代に彼女を何度か夜会で見かけたことがあった。
いつもひっそりと壁の花を務めているような女性だったと記憶していたが、国王の愛人になる豪胆さも兼ね備えているとはなかなか見どころがある、とロザリアは評している。
自分の祖父ぐらいの年頃の老貴族達と、過去の政策について論じていたロザリアは、ふと話が途切れたタイミングで近づいてきた若い男を見て唇を引き攣らせた。
彼女の目の前で足を止めた男は、ニヤリと笑う。
「オイオイ、随分ご挨拶だなアシュバートン王妃」
「イートン王太子殿下。ごめんあそばせ、わたくし素直な気性でございまして」
ほほほ、と笑顔を取り繕うながらロザリアはじりじりと後退する。
灰色がかった茶色の髪に薄い水色の瞳の、精悍で嫌味な表情のこの男の名はダヴィド・イートン。北の国イートンの王太子で、アシュバートン国王の結婚の祝いに駆けつけた、という体で滞在している筈なのに事あるごとにロザリアに嫌味を言ってくるので辟易しているのだ。
騎馬民族が発祥のイートンは一夫多妻制で男性優位の国だからなのか、政治の話をしたがる女であるところのロザリアのことが気に入らないらしい。
「一曲お相手願えますか、王妃様」
「お断りいたしますわ」
「拒否権があると思ってんのか?」
キッパリと断ったのに、ダヴィドに無理矢理ロザリアの腰を抱かれ、ダンスホールへと連れ出された。
親善国の王太子と不仲を見せるわけにもいかず、ロザリアは内心で行儀悪く舌打ちしつつ背筋を伸ばした。
「……強引な殿方は嫌われましてよ」
「そうか? うちの国では俺は大層人気者なんだが」
「まあ、幸福なお考えですこと」
ふふん、と笑われて、それはお前の国だからでしょうが! と心の中で叫ぶ。
ロザリアはダヴィドが嫌いだ。失礼な人は嫌いだし、女だからという理由で馬鹿にしてくる男も嫌いだし、そもそもなんかもう生理的に無理だ。
「あなたも、私のことが嫌いなら無視しておけばよろしいのに」
ダンスのステップを踏みながら、ロザリアは悪態をつく。するとダヴィドは意外そうに目を丸くした。
「こう見えて、俺は結構お前のことが気に入ってるぞ? 美人だし、気の強い女を屈服させるのは楽しい」
「最低。さっさと国にお帰りあそばせ」
そこでちょうど曲が終わったので、目立たない程度に彼の腕を振り払い、ロザリアはさっとホールを離れた。ダヴィドに挨拶など不要だろう。
護衛と侍女が後ろから付いてくるのを確認しつつ、今夜はもう部屋に戻っていいか、と考える。
王家主催の舞踏会とはいえ、王族の仕事は最初の挨拶ぐらいで後はトップがいない方が皆伸び伸びと過ごすだろう。
「それにしてもアレが人気だなんて、イートンの女は男を見る目がないわ」
小声でつい文句を言ってしまう。
ロザリアなら、もっと優しい男がいい。
男女で態度が変わらず、しかし自分のことだけは一途に愛してくれる人がいい。賢くなくちゃ話してもつまらないし、ユーモアのある人がいい。
宰相の娘だとか関係なく、ロザリアだから愛してくれる人がいい。
そこまで考えて、一瞬今はここにはいない男の顔が浮かびそうになったので、打ち消す為にわざと口を開いた。
「……なんてね」
実際のロザリアは今はアシュバートンの王妃で。二年経てば離縁されるが、形式上王に捨てられた女に求婚してくる男などいないだろう。
元々、愛し愛される結婚をして所謂女の幸せなどを望んだこともないロザリアは、それで構わなかった。
期間限定で好きに権能を振るってアシュバートンで政治をし、その後はたんまり慰謝料をもらって、まだ見ぬ知識を求めて世界を旅する予定だ。
その為の『賢王イメージ戦略』の仕込みも、上々と思いたい。
「今夜は部屋に下がるわ」
「はい」
後ろのお付きの者達に声を掛けると、控えめに返事が返ってくる。
廊下には煌々と明かりが灯り、等間隔で兵士が配備されていた。その中をスイスイと歩いて彼女は自室を目指す。
舞踏会の開かれている会場と王族の住まいでは、かなり距離がある。勿論、夫であるルイスとは別室だ。
恋人に操をたてているルイスは、結婚した初日ですらロザリアを同じ部屋で夜を過ごすことはなかった。
ダヴィドのような他国の者にはひた隠しにしているが、国王夫妻の関係が冷え切っているのは周知の事実であり、王の恋人の存在も公然の秘密だった。
「あなた一体どういうつもりなの!?」
「あら?」
廊下を進み続けるロザリアが一般立ち入り禁止エリアに差し掛かろうとした時に聞こえきた、鋭い声。
視線を巡らせると、外に面したバルコニーで複数の女性が言い争っている姿が見えた。
「あれは……」
一人の女性を、複数の女性が取り囲んでいる。複数方で一番前に立っているのは、ユリアナ・ノートン伯爵令嬢だった。
ロザリアと同じ、王妃候補の一人だった令嬢で、性格も口調も厳しいが誇り高く自分に自信のある典型的な貴族令嬢で、ロザリアは自分よりもよほど彼女の方が王妃に向いていると思っていた。
本人の資質は関係なく、ノートン伯爵よりもエインズワース侯爵の方が、政治的に強かっただけだ。
ユリアナの周囲にいるのは、彼女と仲のいい友人達。夜会ではいつも男性にダンスをひっきりなしに誘われている令嬢ばかりが揃って、こんな端で何をしているのだろう?
「王家主催の舞踏会にやってくるなんて、恥を知りなさい!」
「しかも今どこに向かおうとしていたの? 嫌らしい」
彼女達が責めている方の女性に目をやって、ロザリアはさすがに驚く。
そこにいたのは王の愛人、アンジェリカ・コルトー子爵令嬢だったのだ。
彼女が一般立ち入り禁止区域、つまり王族の住まいへと通じる廊下にいる、ということは、やはりルイスの元へ逢引に向かうところだったようだ。そこをユリアナ達に見咎められたという、本人不在の修羅場である。
「王妃様が寛大なお心でお目溢しくださっているというのに、堂々と陛下に会いに行こうだなんて、浅ましいと思わないの?」
「アシュバートン王家の忠臣として、国王ご夫妻の仲を引き裂く不忠、看過出来ないわ!」
ユリアナ達の言い分もよく分かる。だが、当のロザリアが許していることなので彼女達には今回は退いてもらうことにした。
数年後にはその王妃の座にアンジェリカが就くのだ、ユリアナ達がここで行き過ぎた行動を取って、後年この真面目な令嬢達の立場が悪くなるのも避けたい。
「まぁ、皆さま賑やかですこと」
わざとそう声を上げて、ロザリアはバルコニーへと進み出た。皆がハッとしてカーテシーをする。
「ユリアナ様、お久しぶりね」
「王妃様……!」
ユリアナは、アンジェリカへのイジメ現場を見られた羞恥で顔を赤くしている。ロザリアならば、夫の浮気相手に対して自分で戦いを挑むことを承知の上で、余計なことをした、という自覚もあるのだろう。
その真っ直ぐさは嫌いではない。
「コルトー子爵令嬢を私室へお招きしたのは私なの。だから、アンジェリカ様を責めないでちょうだい」
「……分かりました出過ぎた真似をいたしましたわ」
ユリアナが眉を寄せつつも素直に謝ったので、ロザリアは鷹揚に頷いた。アンジェリカに向かって謝罪させる必要はない。
「いいえ。それより……今度王妃主催の茶会を開くの。招待状をお送りしてもいいかしら?」
「え? は、はい、勿論です。喜んで」
「よかった。楽しみにしてますわね」
ロザリアは微笑んで、ユリアナと友人令嬢達を舞踏会会場へと戻した。
そうして、バルコニーにはロザリアとアンジェリカだけが残る。
「王妃様……助けてくださって、ありがとうございます」
桃色のドレスを着たアンジェリカは、ぎゅっと自分の胸元を握った。
「自分より身分の高い者から声を掛けられるまで、発言しては駄目よ。人によっては大激怒するから覚えておきなさい」
「は、はい……! 申し訳ありません」
アンジェリカは小動物のように縮こまって謝罪する。愛らしい容姿の美女だが、人を容姿で判断しないロザリアには特に響くものがない。
「あとお前を助けたわけじゃないから、勘違いしないで。陛下に会いに行くにしてももう少し上手く出来なかったかしら」
堂々と廊下を通って王族の居住区域を目指すなど、ユリアナではなくとも見咎めてしまうに違いない。
「だってルイス様がここを通っておいでって……」
「自分で考える頭はないのかしら、と聞いているの」
素直さだけが唯一の美点であるルイスが、最短の道を教えたからといって、馬鹿正直にそこを歩くなという話だ。まさにお目溢ししているだけで、アンジェリカはルイスの愛人、ただの貴族令嬢だ。
兵士に止められてしまえば成す術もない。ルイスが助けに来るまで大人しく衛兵室で拘束されて待っているつもりだろうか?
とはいえ夫と愛人の逢瀬の手引きなんて、ロザリアがする必要はない。
「そんな……王妃様は、私とルイス様の仲を認めてくださっているんだと思ってました」
「……興味がないので放っているだけで、認めてはいないわ」
何せロザリアは今政治家として活動するのに大忙しなのだ。些末なことに構っている暇すら惜しい。
ルイスはアンジェリカと結婚するといって聞かないし、彼を説得するよりも周囲に彼を認めさせて、アンジェリカとの結婚を許す状況を作る方がロザリア的にも無駄がなかっただけのこと。
「え……」
「お前と陛下が愛し合うのは自由だけれど、結婚した男と恋愛関係を続けているなんて図々しくて理性のない女だと思っているわよ、当然」
ロザリアはあっさりと言った。
結婚出来ない身分のアンジェリカとの愛を貫こうとするルイスは王の自覚に欠けるし、それを受け入れて愛人関係を続けているアンジェリカも愚かだ。ロザリアには到底理解出来ない。
何せルイスの結婚後、アンジェリカは諾々と彼の愛を享受するだけで何の努力も働きかけもしていないのだから。
「なんて心のない言い方……ロザリア様には、本当の愛がお分かりにならないんだわっ」
アンジェリカは自分が王妃になる為に何の努力もしていない。
貴族令嬢としての基本の礼儀もなっていないのに、この先でルイスの妻に収まった時にただ愛を受け入れるだけで済むと思っているのだろうか?
興味はないが、ロザリアには疑問だ。
「本当の愛ってなぁに? それってそんなに偉いの? じゃあ私がルイス様に本当の愛を抱いて、嫉妬でお前を殺したとしても称えられるものなの?」
「え……なんて恐ろしいことを!」
「え、でもそういうことじゃないの? 本当の愛で何でも許されるのならば、愛の為の殺人すら肯定されてしかるべきじゃない。理性がない点は同じだし」
理性のない行動はロザリアの主義に反するので実行することはないが、もしアンジェリカ殺害を実行するならばロザリアには必ず理性があるので完全犯罪を行うだろう。
アンジェリカの理屈でいえば、そんな危うい状況に彼女はいる、ということなのだ。重ねていうが、ロザリアはしないけれど。
「う……う……それは……」
真っ青になって怯えだしたアンジェリカに、ロザリアは呆れた。心外である。
「だから、私はお前に興味がないと言っているでしょう。主旨はそこではなく、お前は自分のやっていることと自分の立場に自覚を持ちなさい、という話よ」
ロザリアはアンジェリカを害するつもりはないが、父宰相がどう思っているかまでは知らない。もしくは別の派閥の者が、アンジェリカを邪魔に感じて亡き者にしようとしてもおかしくないような状況なのだ。
ルイスの寵愛ひとつ握りしめてフラフラと歩き回れるほど、王城は安全な場所ではないのだ。
「で、ではどうすればいいのでしょう……」
「私に聞くの?」
「だって……他に聞ける相手がいません」
ルイスに聞け、と言いたいところだが、それには向いていないことをアンジェリカも分かっているのだろう。
「まずは、淑女として誰にも文句言われないような実力を身に付けなさい。大勢の人の前に出て、きちんと評価されるように動くの」
目立つ存在になれば、誰もがアンジェリカの存在を消しにくくなるだろう。
彼女が王妃になる道は、ロザリアが結果的に作ることになる。問題はその時に、アンジェリカ自身が王妃に相応しい、と思われる女性になっていることだ。そこまで面倒見きれないので。
「は、はい……あ、でも私……王の愛人として遠巻きにされていて、令嬢達のお茶会には招待されないんです」
「でしょうね」
ユリアナのように王妃候補だった令嬢は勿論、他の貴族女性達も『王の愛人』を招待したりはしないだろう。
「ああ、じゃあ丁度いいわ。王妃の茶会、お前にも招待状を送るからいらっしゃい」
「そ、そんなイジメられに行くみたいなものでは……!?」
「私の目の届く範囲ならイジメられないわよ。そこで実績作って、王妃との仲も良好なことを示して、皆の意識を変えなさいよ。それぐらい、自力ですべきでしょう?」
社交の面倒くさいロザリアは、王妃になって以来ずっと茶会を開かずにいたが、立場上そろそろ開催して王妃の威光を示すべき頃合いだったのだ。
それもあって、ユリアナがしょんぼりしていたのが可哀相で茶会を開くと言ったものの、あまり親しくない令嬢達に長時間愛想を振りまくのも面倒だと思っていたところだ。
アンジェリカという爆弾のような存在が茶会にいれば、皆の関心がそちらに向く。しかも王妃が愛人に親切にすれば、皆アンジェリカを虐げにくくなるし王妃のイメージアップにも繋がるだろう。
ちなみにこれは実はルイスとの逢瀬のアシストになってしまい、後々ルイスに感謝されてしまったのは業腹だった。
「はい! ありがとうございます……私、頑張ります!」
アンジェリカは感激した様子で言うが、ロザリアには本当に興味がない。
とはいえ彼女が次期王妃として成長してくれるのならば、アシュバートン国民であるロザリアにとって長い目で見て良いことなのだろう。
奮起するアンジェリカに、ついでにロザリアは告げておくことにした。彼女はまだ、自分の立場の危うさを分かっていないから。
「アンジェリカ様、早く成長することをオススメするわ。人から奪ったものは、また別の人に奪われるものだから」
「え……?」
アンジェリカとルイスからすれば、二人の間にロザリアが割って入ったようなものなのだろうけれど。歪な手段で手に入れた場所は、脆い。
それを知っているから、ロザリアは正道を貫くのだ。
・
そして、あっという間に結婚してから二年が経った。約束の、二年である。
白い結婚だったので当然だがロザリアは身籠ることなく、無事に離縁の条件が揃う。
その頃には王を愚かだと罵る者はどこにもおらず、むしろ一人の女性を愛し続けていることさえ評価されるようになっていた。
正直妻のいる身で、それもどうかと思うが。
離縁の書類は恙無く議会の承認を得ることが出来、賢王となったルイスは本当に愛する女性であるアンジェリカとの結婚も認められることとなった。
全てが終わった後、王妃と王そしてその恋人は、最後に三人でお茶を飲んでいた。
「王妃様、本当にありがとうございました」
王の恋人アンジェリカの言葉に、王妃ロザリアは特に感慨もなく頷く。
「お前もご苦労様。日陰の身の扱いは、結構大変だったでしょう?」
「いえ……ルイス様は私をずっと愛してくださっていましたし、王妃様が折に触れて気遣ってくださったおかげで社交界でもつま弾きになることなく過ごせました」
「それはよかった。私も、お前が王妃主催の茶会に毎回出席してくれるおかげで、話のネタに困らなくて助かったわ」
「ひどい! ロザリア様……!」
「いや、愛人の分際で大きい顔してたお前には負けるわよ」
すっかり砕けた冗談も言い合える仲になっている女二人である。アンジェリカを愚かな女だとは思うが、その根性と一途さは称賛に値する。
アンジェリカが茶会に頻繁に招かれロザリアと親しくしている姿を見て、周囲の貴族夫人達も『王妃公認の恋人』を軽視することが出来なかったのだ。
するといつもはお気楽なルイス陛下が、珍しく難しい表情を浮かべていた。
「ロザリア、本当に離縁したら政治の世界からもスッパリ手を引くのか」
「はい。やりたいことは粗方やって、今のところ取り組むべき難題がありませんから」
「問題はいつでも起こる。離縁しても、このまま相談役として残ってもらえないか……」
ロザリアの徹頭徹尾政治家としての言葉に、ついルイスは甘えたことを言った。
途端ロザリアの眉間に皺が寄ったが、彼女が口を開くよりも早くアンジェリカが彼を叱った。
「ルイス様、それはさすがにムシがよすぎますわ。ロザリア様が私達の無茶な条件を呑んで今まで力を貸してくださっていたのは、双方の利害が一致していたから。これから先は、ロザリア様にただ犠牲を強いるだけになってしまいます」
彼女の言葉にロザリアは満足して、言葉の矛を収める。そうでなければ最後のチャンスなので、王をケチョンケチョンにしていたところだ。
「……その通りですよ陛下。素直なのはあなたの唯一の美点ですが、ちょっとはお口を慎みなさいませ」
「ぬ……そ、そうか……」
シュンとするルイスを見てロザリアは軽快に笑い、アンジェリカには政治的才覚はないが王をよく愛していて、そして確かに常識人であることを快く思った。いい国母になりそうだ。
彼女は、ロザリアの想像以上に素晴らしい成長を遂げた。
今はもう王の寵愛だけを頼りに生きる女ではなく、王妃としての資質も覗かせている。あとは平和になったアシュバートンで徐々に王妃として開花していけばいい。
ロザリアは政治家としては優秀だったと自負しているが、王妃としては落第生だ。一方アンジェリカは社交性も身に着けたし、今のように上手にルイスを愛情深く諭すことも出来るし、ここでバトンタッチしても上手くやっていくだろう。
先王が急逝した所為で荒れていた国も無事立て直したことだし、予定通りたっぷりの慰謝料もいただいたのでロザリアはすぐに旅立つつもりでいる。
国は王と議会の面々で十分に治めていけるだろう。アシュバートンには、未練はない。
「うちの父、エインズワース侯爵も年で宰相を引退しましたし、次は兄のベネディクトを宰相として重用なさいませ。平和な国にはぴったりの、真面目で誠実な人です。必ず国にも陛下にもお役にたちましょう」
引き留められるのは自分の仕事の成果を評価されたことで嬉しいが、正直迷惑だった。ロザリアには他にやりたいことがあるので、忙しいのだ。
ロザリアの言葉に、ルイスはしおしおと萎びる。
「ああ……お前が男だったら、俺はお前を宰相にしたのに」
その言葉は、彼女が父親に百万回言われた言葉である。一瞬ロザリアは眦を強くしたが、すぐに微笑んだ。
ある男が、ロザリアはロザリアであるだけで素晴らしいと言ってくれたから、こんな言葉にはもう傷つかない。
「……たらればに興味はございませんわ。私は私。性別なんて関係なく、私が優秀である、ということのみお心に刻みなさいませ」
「確かに……そうだな。悪かった、ロザリア」
「まこと、素直なところは我が王の唯一の美点ですこと」
こうして素直な王は王妃の最後の助言を受け入れて、快く彼女を送り出したのだった。
・
半年後。
故国とは違う、別の国。別の空の下。
南の国ロベル、その王都にある一軒の古書店で、棚の前に蹲ってボロボロの本を吟味している女性のところに、あの外交官が息を切らしてやってきた。
「王妃様……! 私の赴任している国に来るなら一言ご連絡ください、水臭いですよ」
「……旅の途中で通りがかっただけよ。お前の連絡先知らないし」
久しぶりに会ったテオドロス・オルブライトに、ロザリアは書棚から目を離さずにわざと冷たく言う。会いたかったなんて照れくさくて言えないし、真っ直ぐ彼を見ると顔が赤くなってしまいそうだった。アシュバートンを出る前に彼の赴任先をきちんと調べてきたことは、絶対に秘密だ。
しかしそのロザリアの態度が冷たく見えたのか、テオドロスははムッと唇を尖らせた。
「どこに宿をお取りですか?」
「さっきこの国に着いたばかりだから、まだ決めてないわ」
「まさか安宿に泊まるつもりじゃありませんよね? 外交官宿舎には客室もあります、そちらに滞在してください」
勝手に決めて彼女の荷物を持った彼に、ロザリアはやっと顔を上げて抗議した。
「宿賃交渉とかも旅の醍醐味なんだけど?」
「我が国の貴人に粗末な暮らしをさせるわけにはいきません」
「もう貴人じゃないわよ。ルイス様にたくさん慰謝料もらって、今は悠々自適なただの旅人だから、気にしなくていいわよ」
手をひらひらと振ると、力強い手にそれを掴まれる。熱い手の平の温度に、ロザリアはハッとした。
あの図書館の中で数えきれないほど言葉を交わしたが、触れ合ったのは初めてであることにお互いが気づいて一瞬目が合う。
そしてテオドロスの青い瞳にも、燃え上がるような感情が見えた。勘違いでなければ、ずっとロザリアが見て見ぬフリをして隠してきたものと同じ、恋情が。
彼の方にもその思いは伝わってしまったようだ。この機を逃すようでは、機転のきく外交官は務まらない。
「……実は外交官宿舎の側には、品揃えのいい古書店がありまして……ちょっと入り組んだ場所なので、一人ではたどり着けないかもしれませんねぇ」
「滞在するする。その古書店の営業時間ってまだ間に合うかしら?」
「本当に王妃様、チョロくて心配です……すぐにご案内しましょう」
実に素晴らしい口実を与えられて、ロザリアはようやく書棚から一冊取り出しと立ち上がる。いそいそと会計を済ませると、いかにも大事そうに本の包みを抱えた。
そのニマニマと緩んだ頬を見て、テオドロスもつい笑顔になる。
実際にロザリアが古書店の存在に懐柔されただけではないことは、彼も分かっていた。いや二割程は古書店目当ても本気なのだが。
目を見た瞬間によくよく理解出来た。お互いがお互いに、一緒にいる為の口実を欲しているのだ。
今まで離れていられたのが信じられないぐらい、強く惹かれ合い、離れがたく感じている。
こうなることが分かっていたので、テオドロスは早々に『王妃』であるロザリアから離れたし、ロザリアは感情に見て見ぬフリを貫いたのだ。
「ねぇ、ところで外交官の妻だともっと珍しい国にも行くことが出来ますよ」
「お前、私のことをチョロく考えすぎではなくて?」
二人で古書店に向かう道すがら彼がそう言うと、途端じろっと厳しい視線が向けられる。ここいらでしっかり言っておかねばなるまい。
「とんでもない。私は役に立つ男ですよ、とアピールしているだけです」
「うーん。それで、お前には利があるのかしら?」
ニヤリと笑ってロザリアがテオドロスに顔を近づける。美しい笑顔に、彼は快活に笑い返す。
「勿論です。……あなたの名前を気兼ねなく呼ぶことが出来る。そして、ずっと言いたかった言葉も」
「いいわね、それ。ねぇ、私の名前を呼んで? そして、その言葉を言ってちょうだい」
ロザリアが艶やかに笑うと、テオドロスは耳を赤くした。彼は急に喉が乾いたが、それを気にせず念願だった彼女の名前を口に乗せる。
「ロザリア」
続く言葉を最後まで聞きたかったが、二人は我慢が出来なくなって、キスをした。