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(だれか、わたしをよんだ……?)
スズカの意識は、星一つない真っ暗闇の中で目覚めた。
手足の感覚がない。心臓の鼓動すら聞こえない。
しんとした無の世界がスズカを包んでいる。
まるで重力から解放されて、ふわふわと空中をただよっている気がする。
方向感覚も分からない闇の中、ただちっぽけな意識だけがぼんやりと生気を灯し、
心地よい眠気に抱かれてただよっていた。
(スズ、カ? それって、わたしの名前……?)
意識の片隅にひびいたその名前で、一度もよばれた実感はない。
それなのに、どうしてこんなにも意識の中に広がっていくのだろう。
(わたしって……だれだっけ……)
このままだと、少し不安な気がした。
スズカは、がらんどうになった心の中に、ちらとでも見えるものはないかと、
静かに意識の中をまさぐった。
すると、奇妙な感覚がやってきた。
自分の意識が、何か大きな生物の中に閉じこめられている感覚だ。
なんとなくだけれど分かる――これは、竜?
昏睡したようにピクリともしない竜の体だ。
でも、温もりがない。なんだか冷たい人形のようだ。これがわたしの体?
寝床にしてはずいぶん冷やっこい。
もっと温かいところに行きたい……だれか連れて行って。
そう願ったとたん、また新たな感覚がやってきた。
意識が竜の体を離れ、今度はぐんぐんと上昇していく。
空っぽだったはずの闇の世界に、
さまざまな音がごうごうたる川の音のように聞こえてきた。
(流れこんでくる……え、何……?)
唐突だった。
意識の中に、ありとあらゆる光景が早回しの映画のようになだれこんだ。
シーンに続くシーン。それらが怒涛の勢いで、意識の底まで流れ落ちてくる。
それは、一人の少女の苦難と悲しみに満ちた人生だった。
大好きだった祖父母を五歳にして交通事故で亡くすところからはじまり、
お気に入りペットのインコが家から逃げ出したこと。
六歳の頃に、川で遊んでいておぼれかけ、両親にひどく叱られたこと――
そこから先は、さらに辛らつな思い出続きだった。
小学生に上がって早々からいじめを受け、
友達獲得のために躍起になって勉強に励むも、
思わぬ濡れ衣を着せられて努力が無駄に終わり、学校中で非難の嵐を受け――。
(やめて! わたし、こんな思い出なんていらない……!)
覚醒しきった意識が、狂おしいほどの悲鳴を上げた。
無いはずの胸が痛む。無いはずの頭が破裂しそうになる。
耐えがたい苦しみの渦に、意識が打ち砕かれそうだ。逃れようがない。
早く終わらせてほしい。この感覚をすべて忘れさせて、どうか――。
(助けて! だれか――)
その時だ。思い出のフィルムがぷっつりと消えてなくなり、
苦しみがきれいさっぱり過ぎ去った。
スズカの意識は、再び深い闇に転がるように落ちていった。
下へ……下へ……下へ……。
スズカちゃん……ぼくだよ、ハルト……迎えにきたんだ……。
かすかな声が、波紋のように反響しながら降ってきた。
落下していた意識が、ふうっ……と静止するのを感じた。
聞き覚えのある声だ。
ハルトと名乗っている。その名前を知っている。けれどなぜ?
ぼくを見て……。
深い水面から浮上するように、
スズカの意識の中に一人の少年の顔が浮かび上がった。
何か空飛ぶ乗り物の中、清々しい青空をバックに、
少年の顔がこちらに笑いかけている。
(この子――わたし、知ってる)
懐かしい感覚が、温かい湧き水のように心を満たしていく。
どこにでもいそうな普通の男の子なのに、
どうしてこんなにも優しい気持ちになれるのか。いったい何が――。
友達なんだ、ぼくたち……それを思い出してほしい。
その時、別の光景がぷかぷかと浮かび上がってきた。
見ると、どこかの川岸のようだった。ゆらめく木漏れ日と、涼やかな風の音……
その中に、ハルトが立っている。帽子を持っていないと嘘をついた自分に、
何の疑いもなく「貸してあげようか?」と言ってくれた。
さらに別の光景が――たった一人で洞窟に入る羽目になった時、
他の子どもたちにむかって「ぼくもいっしょに入るよ」と名乗り出てくれた。
あの時の彼の、なんと心強かったことか。
そしてさらに――カレーのニンジンを食べるのを渋っていた時、
彼が隣にいて「がんばって」と応援してくれた。
ニンジン一つで、あんなふうに応援してくれる人なんてめずらしい。
彼との思い出が、どんどんあふれてくる。
はじめてフラップと出会った時。はじめてスカイトレインに乗った時。
はじめてスカイランドに降り立った時。はじめてハクリュウ島にやってきた時。
彼の隣にはいつも自分が――スズカという人間がたしかにいた。
その実感がよみがえってきたのだ。
その実感が、元の自分の存在感をじわりじわりと形成しはじめた。
自分の胸の温もりを感じ、手足を感じ、涼やかな風をほほに感じていた。
――肉体だ。
全身全霊で、美空スズカだった頃の体の感覚を思い出している。
もう意識だけの存在ではなかった。心臓の鼓動、血のめぐり――
体を持つということが、こんなにも素晴らしいことだったなんて知らなかった。
いっしょに元の世界に帰ろう。
辛いことが待っていても、これからはぼくが力になるから。
その言葉の意味を飲みこむのに、スズカは少し時間がかかった。
言葉の意味がその意味なだけに、かえって頭が混乱していた。
(ハルトくん……いいの……?)
わたしはこんなに困った人間なのに。
辛い思い出を嘆いて、何もかもどうでもよくなりかけているのに、
そんなわたしに力を貸してくれるというの?
――スズカ。
頭の中に、つと声がした。ハルトの声とは違う。
でも、彼よりもずっと聞き覚えがあって、深く、温かく、力強い声だ。
世界って、とっても広いだろ?
お父さんの声だ。十一年の記憶が証明する、疑いようのない声だ。
そのセリフを聞いた場所は、今でもはっきり覚えている。
六歳の時に参加した、パラグライダー体験会でのことだ。
インストラクターを務めるお父さんと二人、
雄大な自然の広がる農村をタンデムで飛んでいた時だ。
体じゅうに感じる空の風と緑の絶景に、
六歳ながら深く魅せられていたまさにその時、
グライダーを自在にあやつっていたお父さんが、耳元でささやいてくれたのだ。
きっとこれから、たくさんの人や物事に出会うよ。
人生は、悪いことばかりじゃないんだ。
思い出が鮮やかなフィルムになって、心の中に満ちていく。
(うん。悪いことばかりじゃなかった)
スズカは、意識の中に広がるお父さんの笑顔に、そう答えた。
(わたし、ハルトくんと出会えたんだ。あの子を思い浮かべると、胸がね――)
スズカは浮上した。
闇のはるか上から注ぐ白い光にむかって、ふんわり、ふんわり、ふんわり――。
『――ピピピッ! エッグポッドを解放します』
出しぬけに、妙な機械音声が聞こえた。
目を開けると、スズカは白いエッグポッドの中にいた。
体じゅうを包んでいた機械の鎧が一つまた一つと解放され、
ポッドの屋根がゆっくりと開け放たれていく。
『ハルトくん……!』
ポッドの外に、ハルトの姿があった。息をのむようにこちらを見ている。
本物のハルトの顔が、今目の前にある。
今の今まで半べそをかいていたように、目もとを腫らして――。
「えっと……やあ」
ハルトは、照れくさそうに手を上げてそう言った。




