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何が起きたのか。どうしてスズカはまだ生きているのか。
なぜスズカは、あんなに危険だったガオルの胸に抱かれてなぞいるのか。
しかも、悠然と空中に浮かびながら。
静寂が満ちる舞台の上で、スズカはガオルの堅固で温かな両腕に包まれながら、
しばし胸の中で固まっていた。
ハクリュウ島では感じる余裕もなかった感覚が、今ここで一度に押しよせてくる。
彼の体からただようのは、ただの体臭ではなく、
いろんな意味を持つ複雑なにおいだった。
近所で飼われている柴犬の体のようなにおいや、
干し草みたいなかぐわしいにおいに、廃墟のような埃臭いにおい。
わずかだが煙のような焦げ臭ささもある。
頬にふれるのは、ガオルが来ている皮ベストのボロボロとした質感。
スズカの腕や首筋にチクチクと刺さるのは、
老いた犬の毛のように硬くて黒い豊かな体毛だった。
「……やっと願いが叶う」
スズカを抱きしめたまま、
凍てつくような声にかすかな喜びをにじませて、ガオルはそっとささやいた。
彼の生温かい吐息が、スズカの首筋にもただよってくる。
「キミに会いたかった。俺の心の穴を埋めてくれるのは、キミしかいない」
自分は死なないのか。
次に彼に会う時は、確実に食い殺されると思っていたのに。
『……わたしのこと、食べないの?』
どうやら頭の思考が返ってきたようだ。
恐怖と絶望がゆるやかに潮を引いていくとともに、
スズカの体と心にわずかだが余裕が生まれたのだ。
「食べる? なぜ俺がキミを食べなくてはならない?」
ガオルは、スズカの肩を両手で包んで自分の胸から離すと、
仮面の裏からまっすぐにスズカの目を見すえながら答えた。
「聞いてくれ。キミは、俺の『希望』なんだ。
だからキミも、俺のことを人生の希望だと思っていてほしい。
その証拠に見せよう……俺の素顔だ」
ガオルは、右手の指で仮面の右側面を軽く押した。
すると、その悪魔の仮面が赤く焼け焦げるように消え去り、
その裏に隠されていた彼の素顔が明らかになった。
オハコビ竜の顔が、そこにあった。犬の耳に犬の鼻。
広葉のように大きな瞳に、琥珀色の深みがかった虹彩と黒い瞳孔。
もしもフラップが、生き残りをかけた厳しい世界で生きてきたなら、
こうなるだろうという精悍な犬の顔が目の前にあった。
ガオルは、どことなく悲しげな表情でスズカを見下ろしていた。
『……あなた、何者なの? 願いってなんのこと?』
「それはね……」
プシュウウ!
講堂の上から、ドアの開く音がした。
そのむこうから、一頭の桃色のオハコビ竜と、一人の少年が入ってきた。
彼はスズカと同じツアー参加者の服を着ている。
「ガオル!!」
少年は階段の上から、ひどく驚いた調子で名をよんだ。
少年の目に映ったのは、
スズカが空中で今にも食べられそうになっている瞬間だった。
「やめろ、ガオル! やめろって!」
少年はオハコビ竜の手におさえられながらも、
今すぐにスズカのもとに駆けつけようともがいていた。
ひどく切羽詰まった表情が見て取れる。
「スズカ、話はあとにしよう」
ガオルはスズカの耳元で小さくつぶやくと、
彼女の顔にむかって桃色の吐息を短く吹きかけた。
その甘やかな吐息を吸ったとたん、スズカは急激な睡魔に襲われた。
全身が鉛のように重たくなりはじめ、ガオルの顔が霧のようにぼやけていく。
黒く太い両腕が体を包み、頬が胸に押しつけられるのを感じる。
いいか! お前たちに俺は止められない。
ここへ来たのはとんだ無駄足だと知れ!
レトロフィルムのように曇ったガオルの声……
スズカは睡魔と戦いながら、ここへ駆けつけてくれた少年にむけて、
おそらく届かないかもしれない言葉を、意識のかぎりに伝えた。
『ハルトくん……助けて……』
すると上のほうから、桃色のオハコビ竜がガオル目がけて飛びかかってきた。
溶けてなくなりそうな意識の最中、そのオハコビ竜が両手を突き出し、
ガオルがそれを片腕で受け止めるのをスズカは感じた。
あ、あなたが何者だとしても、スズカちゃんは連れて行かせない!
や、やめろ……お前、俺と戦うつもりなのか!
この声、この体の毛の色――
ああ、これはフロルだ。ふたりで助けに来てくれた。
でも、もう何もかもはっきりしない。
ガオルが身を激しくよじりって、フロルを階段の上のほうへ
思いきり投げ飛ばしたのも……ステージを蹴って飛び上がり、
そのままハルトたちにむかって黒い煙をどっと吐き出したのも。
スズカの視界が急に真っ暗になり、焦げ臭いにおいが鼻孔を刺激する。
スズカの意識は、そこで完全に闇に落ちた。
――風と雷の音。全身を包む日の光のような温もり。
一度だけ意識を取りもどした時、
スズカはあおむけになって空をただよっている気がした。
意識がもうろうとする。そこが本当に空の上なのか、
または果てしない闇の中なのかははっきりしなかった。
なんだかアイマスクにおおわれているような……
まわりの音も、まるでガラス窓にはばまれたように曇っている。
胸から両脚まで、一直線の棒のように固定されていた。
それと口と鼻をおおっている、このドーナツのようなやわらかい物体はなんだろう。
清々しい空気がのどの奥に染み入るのを感じる。
背中をしっかりと抱きかかえている二本の太い何か。これは動物の腕だろうか。
母親のように両手で肩やわき腹を叩いてくる。何度も、優しく。
もうすぐ着くよ。それまであと少しの辛抱だ。
頭のすぐ上で、ガオルと思しき声が聞こえた。
ということは、自分は今、ガオルに抱かれて飛んでいるのか。
でも、居心地はそんなに悪くない。
どこへ連れていかれるかは見当もつかないが、どうやら疲れがたまっていたようだ。
スズカはまぶたがまた鉛のように重たくなって、
再び眠りに落ちていくしかなかった。




