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そこは、講堂のような広い部屋だった。
段々になった足場のそれぞれの段には、
丸い青色のポイントマークが大量に描かれている。
もしやすべて、フローターが停まるスペースなのか。
ここには一台もフローターがないから分かりようがない。
階段を下った先には、真っ白な板張りの演説台がポツンとあった。
スズカ以外に人の姿はない。
部屋の一番上に入ってきたスズカの足音が、
席一つないがらんとした空間にさびしく反響していた。
『――ドアを、ロックいたします』
背後のドアから声がした。
ドアは再びスチームのような音を立ててぴたりと閉まり、
部屋にはスズカただ一人が残された。
誘われるまま入ってしまったが、こんなところに入ってよかったのだろうか。
クロワキ氏は、スズカがこの部屋に入ってくれることを見越して、
あんな閃光弾を使ったのだろうか。
(涙……ダメ、止まらない。わたし、ホントに泣き虫……)
体調不良でぐったりしていたところへ、
恐怖と喪失感が入りまじり、息も絶え絶えだった。
(あの演説台の裏に隠れていよう。どうせ何もできないから……)
スズカは服の袖で涙をぬぐいながら、下のステージへとぼとぼと降りていった。
演説台のそばに上がると、スズカは上のほうから陰になっている台の裏に、
台を背にしてゆっくりと体育座りした。
演説台にいろいろな機器が搭載されているのにも気づかなかった。
吐き気を感じていたし、心細くもあった。
あの怖いヒトたちは自分を探しているだろうか。
クロワキ氏はどうなったのだろう。
じっとしていたら、急に寒気がやってきた。ツアー一日目に着せてもらった、
あの島探索用の温かいスーツがなぜか恋しくなった。
最初に出発したキャンプ場を思い出すだけでも、とても胸が懐かしくなる――。
プシュウウ……。
ドアの開く音がした。
隔離システムが働いているなら、タワーのヒトが逃げ場を求めて入ってきたのか?
ドアが再び閉まり、一瞬の静寂がすぎた直後だった。
スズカ……。
物静かな声がした。どこかで聞き覚えのある、低く重たく満ちたような声だ。
スズカ……。迎えにきたよ……。
講堂の入り口から聞こえてくる。
スズカは、心臓が張り裂けそうになりながらじっと身をひそめ、
ただ静かに耳をそばだてた。
怖がらなくていい……。そこから出ておいで……。
気配は段々と近づいてくる。
のし、のし、のし……、と階段をゆっくりふみしめながら。
演説台の後ろから顔だけを出して見てみても、だれの姿もない。
しかし、何者かの気配は確実にある……下りてくる……舞台にむかって着実に。
冷たくも優しい声でよびかけてくるのが、余計に恐ろしかった。
声の主には心当たりがある。それが心に浮かんだ者でなければどんなにいいか。
「……だ、れ? そこ、に、いる、のは、だれ、な、の?」
スズカは自分の口からおそるおそる聞いた。頭の思考が止まっていたせいだ。
……ああ、やはりそのしゃべり方。
懐かしい『彼女』とまったく同じだ。
姿の見えない声の主が、うっとりした調子でそう言った。
とうとうスズカはパニックになり、演説台から身を離すと、
尻もちをついたまま舞台の壁の前へと後ずさりしていった。
「い、や。いや、いや!」
……すまない。姿が見えないほうがキミのためだと思っていた。
しかし、逆効果だったね……今、姿を現すよ……。
声の主の足音が、舞台のすぐ下で停止した。
そこから、ゴロゴロとのどを鳴らして息を吸いこむ音が聞こえてくる。
そして、スズカが三メートル先に目にしたもの……
透明と化していた何者かの巨体が、
陽炎の最中から浮かび上がるように姿を見せはじめ、
ものの数秒後には、黒々とした実体のある生物になっていた。
まるで暗闇そのものが生を吹きこまれ、一塊により集まり、
黒い毛におおわれた肉体となったような存在。
漆黒の怪鳥の翼と、青い炎のようなたてがみを生やし、
覇王のごとき風格を身につけた者。
『ガオル―――』
スズカは舞台の上で石になった。やはり悪い予感は的中したのだ。
夢であってほしい。のどがカラカラだ。
絶望感が冷水のように背中をはい上がってきた。
「スズカ……またキミに会えて嬉しいよ」
オオカミのように突き出た口が、魔性じみた黒い仮面の下から静かに言った。
黒い房のついた長いしっぽが、猫のそれのようにたおやかにゆれている。
「ドアロックがかかっていたのに、なぜここへ入ってこれたか、
と聞きたいだろう? 簡単なことだよ。
あのドアははなから隔離システムの役目を果たしていない。
故障している。ただそれだけのこと――」
「た、た、食べ、な、いで」
スズカはかすむような声から、かろうじてそれだけを口にした。
ガオルがどれほど不可解なことを口に出しても、
スズカの頭はもう何も機能しなくなっていた。
「大丈夫だ。もう昨日のように、爪に物を言わせたりはしない。
だが、今の俺には時間がない。
地上人の子スズカ……頼む、俺とひとつになってくれ」
ガオルは両手をゆっくりと、宙に翻る羽衣のように広げて言った。
「……さあ、この胸の中においで。俺が孤独なキミを導いてあげよう……
今までにないまったく新しい世界に。
もう地上界に帰る必要はないよ」
突然のことだった。
スズカの体が見せない手によって持ち上げられ、足が勝手に床を離れた。
全身が勝手に演説台の真上へと浮かび上がっていく。
金縛りにされたのか。痛みはないが、自由がきかない。
ガオルの秘術の力に間違いなかった。
「い、や……!」
次の瞬間、ガオルが床を蹴って舞台の上に飛んできた。
同時に、スズカの体もガオルのほうへ吸いよせられていく。
闇が……死がやってくる。そして自分は、みずから死へ飛びこもうとしている。
もうおしまいだ。スズカは気絶しかけた―――しかし。
ガオルは、スズカを優しく抱き止めた。
時が止まったかのようだった。
ガオルの跳躍で逆巻いた風が、スズカの茶色い髪をゆらした。
ふたりの体の触れあう音が、何もない講堂に広がって消えていく。




