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もくもくとした雲海が後ろに流れていく。
あの優しいベッドのような雲に全身を包まれたなら、
このやるせない気分もすっかり飲みこんでくれるだろうか。
ハルトはエッグポッドの中に浮かびながら、
魂を抜かれたようにぼんやりと眼下の雲海をながめていた。
心は曇り空のように灰色一色だった。
この分では、ツアー二日目を心から楽しめるかどうかさえ分からない。
『――でさー、今日これから行く、その、スカイサーキットだっけ?
どんなとこなんだろうなー?』
『サーキットというんだから、何かのレースをやってるのはたしかだよな。
昨日とはまた趣向がぜんぜん違うというか』
『フラップたちはまだくわしく教えてくれなかったよね。
あたしたち、レースの観戦でもするのかな?』
『だからってアカネさん、フリッタに聞いちゃだめですよ。
着く前に聞いたら楽しみが減っちゃうじゃないですか』
東京の四人組の話し声が、
ポッドの内部スピーカーを通じてぺちゃくちゃと聞こえてくる。
今回の行き先も、四人ともはじめてのようだ。
その一つ一つの声が、ハルトの頭にはまったく入ってこなかった。
朝九時。
ターミナルからオハコビ竜たちに抱かれて飛びたった参加者たちは、
《オハコビ・スカイサーキット》という施設がある場所へと運ばれていた。
十二頭のオハコビ竜は、
昨日とは違って左右に隊列を組みながら固まって飛んでいた。
警備部の勧告もあって、黒影竜の襲撃にそなえているのだ。
フリッタとフレッドは、フラップの左右についていた。
*
今日の行き先が発表されたのは、
ホテルのあの最上階レストランで朝食を食べていた時だった。
モニカさんが子どもたちのテーブルにやってきて、
今日行くのはここだ、八時半になったらフラップたちが迎えに来るので、
彼らに続いて出発するように、とだけ連絡した。
ハルト以外の子どもたちは、
昨日とは趣の違う行き先に期待に胸をふくらませ、
うるさいほどにしゃべりあった。
しかし、モニカさんの連絡はそれだけではなかった。
彼女のそばには、退院したスズカの姿があった。
頭にテレパシー・デバイスを装着したスズカを見た子どもたちの中から、
退院を祝う声や、デバイスのかっこよさに反応する声がしたが、
それほど気のある声ではなかった。
当然スズカは、嬉しそうな顔にはならなかった。
「スズカさんは、ツアーの最後まで、
みんなとは別の日程をすごすことになりました」
モニカさんは、どこか残念そうな表情でそう言った。
「昨日の夜に、黒影竜の対策本部からお願いがあったの。
今のところ、あの竜の脅威にもっとも近いのはスズカさんだから、
ターミナル内でかくまうことになってね。
その関係で、みんなと同じツアー日程をすごすのが難しくなってしまったの」
スズカが厳重な保護を受ける理由は分からなかったが、
子どもたちはあまり気にしていなかった。
自分たちのツアーに変な支障がでなければそれでいいとさえ思っていたのだ。
しかし、ケント、タスク、アカネ、トキオは別だった。
四人とも、ひとりぼっちのスズカを思って、たがいにささやきあっていた。
「ねえ、スズカちゃんは今日、どこに行くの?」
アカネが手を上げてモニカさんに聞いた。
「うーん、それがね、ターミナルからは出すなと言われているから、
外へ飛んで出かけることはできないの。
担当の引率者といっしょに、このターミナルを見て回ったり、
いろんな施設をめぐったり……まあ、そんなところです」
そんなところ、じゃない。
スズカだって、同じようにツアーを楽しみたいはずなのに、
それではあまりにかわいそうだと、ハルトは思った。
でも、反論できなかった。
オハコビ隊の決定なら仕方がないし、それに、
今はスズカのために何かを物申す気にはなれなかった。
『――ハルトくん、昨日はありがとう。
わたし、ひとりは慣れているから大丈夫だよ』
デバイスを通じて、スズカはそう伝えた。
他の子どもたちの前だったのに、スズカはいくぶんか冷静な面持ちだった。
昨夜のことが薬になったのだろうか。
だがハルトは何も言わず、ただ弱々しく笑って返した。
どうせ彼女は、ハルト自身のことを何も見ていないのだ。
*
『おーい、ハルト、聞いてるー?』
ケントの声が飛んできた。
視線を引きずるようにして雲海を見ていたハルトは、はっとして顔を上げた。
「えっ、なに? なんか言った?」
『ったく、ハルトー。またぼやっとしてたな?
お前さー、昨日ホテルに帰ってきた時から、どっか様子おかしいぞ』
『もしかして、スズカさんと何かあったんですか!?』
と、トキオが聞いてきた。
ずいっと迫るような聞き方だ。
ハルトは、どう答えたらいいのか見当もつかなかった。
「なんていうのかな……
ぼく、スズカちゃんがぼくのことをどう思ってるか、気づいちゃったというか。
あの子さ、ぼくのことを自分のお父さんみたいだと言ったんだ。
たぶん、気配が似てたんだと思う。
そう言われた時、心のどこかがバキンと割れちゃった感じがして……」
すると、タスクがこう言った。
『ハルトくん、たぶんそれさ、失恋の感触ってやつだよ。
なんだ、やっぱりハルトくんにもその気があったんじゃないか』
失恋、やっぱりこれがそうなのか。
『ちょっと待って。
彼女はハルトくんのことを、お父さんだと思ってたってことよね。
でもなんでそれで、心がバキンってなるの?』
アカネがそう聞くと、トキオがすぐにこう忠告した。
『アカネさん、ダメですよ。
ハルトくんは、自分のことを見てもらっていなかったことに気づいて、
ショックを受けてるんです。
それは、男心にとって、けっこうダメージでかいんですから』
「トキオ、そのセリフもダメージでかい」
ハルトはあきれ顔で言うと、あっとトキオが声をもらした。
でも、アカネとトキオの乗っているポッドは別で、
ひそひそ話もできないので仕方がない。
『――あのう、やっぱりハルトくんは、
スズカさんが隣にいないとさびしいですよね』
だれかと思ったら、フラップの声だった。
ハルトの様子をずっと心配していたようだが、
まるで自分のほうがさびしいと言いたげな声だった。
「……そうでもないよ。むしろ、肩の荷が下りた感じがするもん。
これで、だれのことも気にしないでケントたちと話ができるし」
『なるほどな、そうきたか……』
すましたような調子でそう言ったのは、フレッドだった。
『だけど、どこかいじけているようにも聞こえるな、俺は』
「べつに、いじけてないし!」
いきなり話題に加わってきたうえに、イヤミを言うとは。
『たしかにそういうショックってさ、俺たちオハコビ竜の間でもあるよ。
だけど、俺たちは失恋なんかで終わりにしない。
オハコビ竜は図太い生き物だからさ。
心に決めたカノジョにちゃんと見てもらうために、何度でもがんばるんだよ。
自分のいいとこ見せようとね』
彼女にちゃんと見てもらう。何度でもがんばる。
自分のいいところを見せる――。
「その発想、なかった!」
『だろ? 男ならそう思うよな』
フレッドは恋のスペシャリストなのだろうか。
ハルトは、オハコビ竜のおかげでようやく目が覚めた。
『ならぼく、
あなたがスズカさんの気持ちをつかめるように、何かお手伝いしますよ』
フラップが気のいい調子でそう言った。
ハルトは、そんなフラップの言葉にむっとした。
「気持ちは嬉しいけどさ、ぼく、
昨日キミにすごくおいしいところ持っていかれて、
ずっとモヤモヤしてるんだよね。あのさ、どうしようか?」
『えっ、えっ? どど、どうしようってなんですかハルトくん?』
ハルトの出しぬけなおどし文句に、フラップはあたふたした。
その動きで、エッグポッドもぐらぐらとゆれた。
「ぼくたちの保護者の立場だからしょうがなかったけど、
泣いてるスズカちゃんを抱きしめるのを見た時は、やっぱり悔しいって思ったよ。
ホントさ、どうしようか?」
『ほっほ~、だったらサ――』
ここで提案してきたのは、フリッタだった。
『もうすぐ着くサーキットで、
キミとフラップちゃんが競争すればいいんだよぅ。
あそこはね、だれでもオハコビ竜と競争ができるノ!』
えっ? という声があたりから聞こえてきた。
ケントたちだけでなく、他の十一頭のオハコビ竜たちも反応したようだ。
『レースをするヒトは、《ドラゴンスピーダー》っていう乗り物を操縦して、
好きなオハコビ竜とタイムを競えるの。
だからネ、もしもハルトくんがスズカちゃんにいいとこ見せたいなら~、
サーキットでフラップちゃんを打ち負かしちゃえばいいんじゃないカナ?』
『ちょ、ちょっとフリッタ、まだ内緒だったのに!』
フラップは目を白黒させて、
フリッタのほうに両手をふるふるさせながら伸ばした。
フリッタは目をパチクリさせてまわりを見回した。
オハコビ竜たちの冷えた視線が、いっせいにフリッタをにらんでいた。
フリッタはかっと口を開いた。
『ああぁ~、そうだった、そうだった。ごめんちゃい!
――んまあ、とにかくそういうことだからサ、
みんなもよかったらぜひ、ドラゴンスピーダーに挑戦してってネ』
思いがけないネタばらしだったが、ハルトの心はとうに決まっていた。
「ドラゴンスピーダーか、なるほど。よろしくね、フラップ」
『声が怖いよ、ハルトくん……』
とフラップは答えた。
『はぁ~、変なことが起こらなければいいんだけどなあ』




