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フロルの個室は、病院の二階にあった。
この階は、病や怪我で倒れたオハコビ隊員のための個室が集合した階だった。
清浄な宇宙船内のように、壁も床もほとんど真っ白な廊下は、
天井に光るライン照明のおかげで、いつ歩いても昼間のように明るい。
「そうだ。ぼく、フロルには言いたいことが山ほどあるんだ」
フラップが思い出したように言った。真剣な表情だった。
白犬の看護婦は、「218」の文字が壁に書かれたドアの前で止まった。
ドアプレートには、
『フロル様――オハコビ竜。オハコビ隊・お運び部所属』と書かれていた。
オハコビ竜の病室のベッドは、人間のそれとは形が違い、
なんだか横長の巨大な犬用ベッドにそっくりだった。
布団のない広々としたそのベッドの縁に、
桃色の体毛を生やしたフロルがのんびりと座って、みんなを出迎えていた。
患者衣は着ていなかった。
「フラップ! それにスズカちゃん、ハルトくんまで」
フロルの表情がほころんだ。どう見ても体がピンピンしていて、
とてもあのガオルから強力な攻撃をもらったか弱いオハコビ竜には見えなかった。
「お帰りなさい。わたし、みんなに会いたくて仕方なかったんだよ。無事でよかった」
「フロルも元気そうで、よかったよ……」
フラップは、フロルのベッドのそばによっていった。
その顔には、安心感というより、なぜだか憂わしげな感情が貼りついていた。
「でもフロル。キミときたら、無茶するんだから……
キミはまだ、虹色の翼の訓練生なんだ。そんなキミが、
スズカちゃんのためとはいえ、ガオルに挑みかかるなんて。
ホント……死ぬかもしれなかったんだよ?
親友のぼくが、どんなに心配したことか……!」
「ふふふっ、ごめんなさい。でもフラップだって、十分ヒトに心配かけてるよ。
ガオルと、戦ったんでしょ? いくら悪いやつだからって、
フラップがあいつの息の根を止めちゃうんじゃないかって、心配だった。
タワーの講堂で、あいつの素顔を見た時から、自分たちと同じ……
オハコビ竜の同族なんじゃないかって、わたし思ってから」
「そっか……キミも気づいてたのか」
フラップが言った。
ハルトとスズカは、
フロルの温厚でやわらかな雰囲気の中に、毅然とした強みを感じていた。
「ねえ聞いて。わたしね、
ガオルに吹っ飛ばされたはずみで、右翼の骨を折っちゃったの。
でも、ここでしっかり治療を受けたら、一晩で翼の骨が元通り。
ほら、さっきまで包帯を巻いてたんだけど、この通りすっかり直ったから、
さっき看護婦さんたちに解いてもらったの。このあとすぐにでも、退院できるって」
オハコビ隊は科学力だけでも十分すごいのに、
どうやら治療技術も相当なもののようだ。
部屋いっぱいに広がるフロルの翼が折れていたなんて、想像がつかなかった。
「もう、フロルは今の自分の立場が、本当に分かってるのかい?」
いきなり、フラップが語気を強めた。
「ぼく聞いたよ。キミがガオルに挑戦しにいく時、
ハルトくんも連れて行ったって。隊員としてかなりまずい行為じゃないか。
大事な人間のお客様を一人、隊員みずから危険にさらすなんて。
それもここ、オハコビ隊の本拠地であるターミナルで!
もう、本当にさぁ……キミがどんな罰則を受けるかと思うと、
胃がよじれそうだよ……」
人間客は、人間界との共存を目指すオハコビ隊にとって、最重要顧客。
その人間客の命を死にさらしたとあらば、オハコビ隊の存続問題にかかわる――
ハルトは、フラップやモニカさんから聞いていた話を、改めて思い出していた。
「フロル、ごめん。ホントにごめん、ぼくのために」
ハルトは率直な気持ちで言った。
「迷惑かけちゃったけど、フロルはぼくのお願いを叶えてくれた。
その……だから、こっちも言わせて……ありがとう」
フロルは、すぐに返事をしなかった。少々言葉に迷うように瞳を閉じていた。
そうして、ハルトの言葉を味わい、自分の行いを見つめ返し――
十秒後、瞳を開いてこう答えた。
「まあ、わたし……隊員生活が終わってもいい覚悟で、のぞんでたから。
ハルトくんのお願いを叶えてあげたかったし、
自分の手でスズカちゃんを助けたかったし。
結局、惨敗だったけどね……えへへ」
『あのね、フロル。その……』
スズカがやけに遠慮がちな態度で、
ハルトの背後に半分隠れながらフロルを見ていた。
『わたしね、あなたにね……えっと……なんて言えば……』
スズカの脳裏には、昨日の昼、
タワーのリフレッシュエリアでフーゴに抗議した出来事がよぎっていた。
あの場面、せっかく自分の面倒を見てくれていたフロルもいたというのに、
フラップのところへ帰りたい! とわがままを言ってしまった。
フロルを悲しませてしまったのでは……その後悔で、
心の奥がもやもやしていたのだ。
それなのに、自分がガオルにさらわれそうな時、
フロルは颯爽とかけつけてくれた――ハルトを連れて。
(やだな……わたしもちゃんとお礼を言いたいのに、
言葉が頭の中から出てこないよ)
「スズカちゃん」
ハルトに名をよばれ、スズカはハッとした。
「心の声、さ……みんな聞こえちゃったんだけど。何か悩んでるの?」
『あっ、えっと、わたしね……その……ごめんなさいを、言いたくて』
スズカは、ためらっていては仕方がないと、フロルの前にゆっくりと進み出た。
『わたし……フロルがいてくれたから、
ハルトくんたちと離れても、ひとりぼっちじゃなかった。
それなのにわたし……わがまま言ってわめいて……
しかも、わたしのせいで大怪我までさせちゃって。だからね――』
「それ以上言わないで、スズカちゃん」
フロルが静かに首をふった。
「わたしもね、人間さんが大好き。
だから、あなたたちの満足と幸せのためなら、わたしね――
オハコビ竜として最高に輝けるステージを降りることになっても、
できること全部をやりつくしたかったの」
すると何を思ったのか、フロルはベッドの縁に腰かけると、
にっこりしながら両腕を広げてこう言った。
「スズカちゃん、ハルトくん、ここにきて。
元気な人間さんの温かさを感じさせて。
今日がオハコビ隊員として人間さんに触れられる、最後の日かもしれないから……」
そこには怒りのかけらもなく、
ただスズカを胸の中に招き入れようとする温かな意思が感じられた。
フロルの大きな愛情がそこにあった。
ハルトとスズカは、迷わなかった――
昔のように、自分たちの母親に抱きつく気持ちで、
もふもふとしたフロルの胸の中に抱かれた。
温かかった……フロルの心臓の鼓動が、二人の体を優しいリズムの中に取りこみ、
愛にあふれた歌声が今にも聞こえてきそうだった。
「あの、そういうわけですから、モニカさん」
自分の胸に顔を埋めながら泣いている二人を抱きしめたまま、
フロルが幸せそうな声で言った。
「わたし、退院したら、上から除名告知が出されるまで、
大人しくお家で待ってます。仕事仲間にお別れを言うのが――
とくにフリッタにお別れを言うのが怖いので、
言葉と気持ちに整理をつけておきたいです。
あの子とは、いろんな意味で大事な関係だから」
モニカさんは、病室の入り口のそばの壁際にたたずんだまま、
ただ押しだまってこの場の流れを見届けていた。
顔はずっと笑っていなかった……こんな態度を取るのも必然だった。
なぜなら昨日、
フロルがハルトを連れてタワー内へ独断先行した姿を、その場で見ていたからだ。
彼女の赤ぶち眼鏡が、厳しい眼光のようにキラリと光った。
「――あなたは、一時の感情に身をまかせて、無茶を働いたばかりでなく」
モニカさんが眼鏡を上にずらしながら、静かにしゃべりだした。
「オハコビ隊の活動規約に違反する行動をとり、
ハルトくんの身を危険にさらしました。それも、地上界のお客人を。
一歩間違えば、われわれはハルトくんを、
冷たくなった体として地上界に送り帰すところでした。
これにより、あなたが隊員資格をはく奪されるのは必至――なんだけど」
モニカさんがフロルのそばへ進み出てきた。その顔は、笑っていた。
「先ほどね、『隊員行動協議会』から判決が出て、
あなたの例の行為については、一切のお咎めなし、ということになったの!」
「「「えええっ!?」」」
フロルとフラップばかりか、ハルトとスズカもぱっとふり返って叫んだ。
「いやっ、ど、どうしてですか?」
フロルが急き立てるように聞いた。
「なんでも、フラクタール最高責任官から協議会に、
あなたの行為を評価する特別文書が届いたの。
こんなことは異例中の異例だよ!
しかも、今回の事件に深く関わった隊員すべてに、
こんな文書がメールで届いたから、びっくり!
わたしのタブレットにも届いているから、今開いて読んであげるね。
恐れ多いけど……」
モニカさんは、タブレット端末を少し操作してから、
その送られてきたという文書を読み上げはじめた。
『こたびの黒影竜事件の解決に貢献した、すべてのオハコビ隊員に告ぐ。
まあ、カンタンに言わせてもらうとじゃな、フロルというメス隊員のことじゃ。
彼女は、じつにあっぱれな隊員じゃぞ。
というのも、まさにオハコビ隊員として非常に道徳的な行為を行ったからじゃ。
彼女は虹色の翼のメンバーではないが、
事情により二人の人間客を獲得した。
一人はガオルの標的とされていた少女で、
もう一人はその少女を深く思う少年じゃ。
フロル隊員は、少女のために勇気をふるい立たせてガオルに立ちむかい、
同時に、その少女のもとへ駆けつけたいという少年の強い願いを叶えた。
なんと献身的で、愛情と意欲あふれる行動じゃろうか!
彼女の行動にまつわる話を聞いた時、わしは感動して涙が出そうじゃったぞ。
結局、よせられた報告書によれば、
ガオルに人間を殺害する意思はなかったというが――。
この事実も幸いし、だれ一人としてツアー客を死なせずにすんだというのに、
ここで彼女を切り捨てるのは、配慮に欠けた、無情な判決ではなかろうか?
よってわしは、フロルという隊員にたいし、ここに続役許可を表明する。以上!
著名:フラクタール』
モニカさんは音読をし終えた時、若干、頬が赤らんでいた。
フラクタールの書いた文書を口で読み上げられたことが誇らしいのか、
それとも、少々軽いノリの文章に恥ずかしさがこみ上げてきたのか……。
「なんか、偉いヒトの文書って感じじゃないけど……」
ハルトはそう言って、スズカとお互いの顔を見合い、目をしばたたいていた。
その時、フロルが急にベッドからさっと立ち上がった。
二人はフロルの腕に抱きしめられたまま、突然の出来事に驚いて小さく叫んだ。
「フラップ!」
「フロル!」
二頭がお互いの名をよび、
次の瞬間、フラップがフロルの体をぎゅうっと抱きしめた。
ハルトとスズカは、二人のやわらかい胸の間でサンドイッチにされてしまった。
「わたし、わたし……ああ、わたし……もう」
「フラクタール様は、キミのこともちゃんと見ていてくださったんだ!
あの方の言葉があれば、あらゆる状況がくつがえる……
今度はキミのことを救ってくださった!」
フラップとフロルの満ち満ちた幸福感が、体をよせあう二頭を通じて、
ハルトとスズカの中にも流れこんでくるようだった。
二人とも肺が押しこまれ、呼吸をするのが少し苦しかったが、
そんなのはまったく気にならなかった。
たとえ小さなぬいぐるみのような姿でも、
フラクタールはたしかに強い権力を持つ存在のようだった。
彼に感謝しなくては……フロルに訪れた幸福を、
ハルトとスズカは自分のことのように感じ、
祝福された静かな時間に身をゆだねていた。




