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「殿下、お待たせしました。どうぞ」
「ん、ありがとう。美味しそうだな」
切り分けた菓子を取り皿に乗せてアシェルの前に置けば、彼は皿に目を向け笑みを深くした。
そんなことを言うアシェルは目が見えない。常に瞳は閉じられている。
かれこれ3か月近く彼の婚約者として傍にいるけれど、ノアは彼の瞳の色を未だに知らない。
でもアシェルは目を閉じていても、どこに何があるかは大体わかるようで、いちいち手渡すことをしなくても、食器をぶつけることも、ティーカップを倒すこともない。いつも優雅にお茶を飲むし、菓子もこぼすことなく奇麗に食す。
一度、好奇心を抑えきれずにどうやったらできるのかと尋ねたら、食器が置かれた音で位置を把握していると教えてくれた。
試しにやってみたら、テーブルが大惨事になった。二度としないと誓った。
でも、アシェルが声を上げて笑ってくれたので、得るものはあった。
アシェルはとても穏やかな人だ。どっかの馬鹿王太子と違って声を荒げることもしないし、地団太を踏むこともしない。
いつも微笑んで、でしゃばることなく不満を口にすることなく、離宮でひっそりと過ごしている。
婚約者を始めた当初、ノアはその人柄にとても尊敬の念を抱いた。
修道院長のロキほどではないが、自分は短気だし、喧嘩っ早いところもあるし、決して善人ではないことを自覚している。
ただ、アシェルは穏やかであるが、声を上げて笑ったのを見たのは数える程しかない。
一度目は、声帯が復活した自分が、これまでの鬱憤を晴らすかのように魔術師グレイアスに馬乗りになりながら特大クレームをぶつけた時。
二度目は、離宮の茂みに生えている珍しいキノコを発見して、近くのメイドに「これ、夕飯に出して」とお願いしたとき。
三度目は、アシェルの真似をして目を閉じたままお茶を飲もうとしてテーブルを阿鼻叫喚の図にしてしまったとき。
(あ……なんか、全部こちら側としては笑えない状況だったな)
仮初めの婚約者とはいえ、自分が選んだ相手が人の不幸を喜ぶ性根が腐った男とは思いたくなので、ノアは遠い目をしてお茶を一口飲む。
心は切なさでいっぱいだけど、このお茶を美味しいと感じる余裕はあるらしい。
いや、ただ単にこれが美味し過ぎるという説もある。きっと後者なんだろう。さすがロイヤル。庶民の心なんかちょちょいのちょいで癒やしてくれる。
「では、殿下、食べましょう」
「うん。戴こうか」
気を取り直したノアは、フォークを手にしてファーブルトンを一口大に切る。
切り分けた側面からドライフルーツが溢れ、またラム酒の良い香りがする。名前も品が良いが、食べる前からもう美味しさがお上品に伝わってくる。
そしてそれを豪快に口に放り込もうとした瞬間、アシェルがおもむろに口を開いた。
「ノア、何度も言っているけれど毒味なんてしなくて良いよ。私はそんなものの為に君をここに呼び止めている訳じゃないんだからね」
そう言ったアシェルは穏やかだった。口許には笑みさえ浮かんでいた。
でも、3ヶ月近く一緒に過ごしていれば、彼が怒っているのはわかる。
あと、そぉーっと物音を立てないように食べたのに気付かれるとはアシェルは、ただ者ではないと思う。
まぁ王子様なんだから、そもそもただ者ではないんだけれど。
「うん。でも、今日はあんまりにも美味しそうだったから、ちょっと先に失敬しちゃっただけ。......ねえ、つまみ食いって最高に美味しいと思うでしょ?」
(だからさぁ......大目にみてよ)
多分これからもノアは率先して毒味をする。でも、雇い主のアシェルとは良好な関係でいたい。
そんな小狡い計算で小さな嘘を吐けば、アシェルは笑った。
その笑みは、微笑みではなく───苦笑だった。
*
それから数時間後。
場所は変わって、ここは壁一面に書物が並べられた部屋。グレイアスの執務部屋。ノアにとったら拷問部屋である。
「──── というわけで、我々が魔法と言っているものは全て精霊からの恩恵であり、その加護を受ける為には精霊を見る【煌眼】が必要不可欠となります。精霊の存在を目視し、また精霊にも己の存在を認めてもらって、初めて魔法が使えるのです。ちなみに、魔力の強さには段階があり、緑が底辺となり、次に青・紫・銀と続き最高ランクは金となります。といっても金の煌眼は文献でしか記されておらず────......ノア様、聞いておられますか?」
教科書片手に教鞭を振るっていた魔術師グレイアスは半目になって、ノアを睨み付ける。
「はいっ、もちろん聞いてます!」
すかさずノアは挙手をして答える。
しかし、理解はしていない。右から左に聞き流していた。
でも、聞いてはいた。
聞こえていたという方が正解ではあるが、嘘は8割ついていない。四捨五入すれば”聞いている”ので間違いない。
そんなわけでドヤ顔決めて返事をしたは良いが、返ってきたのは出来損ないの子供を見る親の哀れんだ視線だった。
ノアは仮初めの短期仕事ではあるが、表向きはアシェル殿下の婚約者である。つまりゆくゆくは、王族の仲間入りになる予定の存在である。
そして現在ノアがこのお城に居るのは、近い将来アシェルの伴侶となるための花嫁修行の期間の為。
もちろんノアはアシェルと結婚するつもりはない。お世話になった修道院の屋根の補修工事の資金が貯まったらおいとましようと考えている。
しかしそれまでは、真面目に花嫁修行という名の王室教育を受ける所存だ。
……とは思っているが、現在歴史と魔法と文化を教えてくれるグレイアス先生はとんでもなくスパルタで、ちょっぴり心が折れそうになっている。
「───......わたくしは魔術師でありますが、残念ながら不真面目な生徒を真面目にさせる魔法は取得してないんですよね」
(うわぁー、嫌味全開!!)
どうせだったらそんな魔法を習得するより、嫌味を言わなくする魔法を是非ともご自身にかけて欲しいものだ。
しかし、絶賛お仕事中のノアは黙って教科書に目を落とす。
意味不明なダンスを踊っているような魔法文字は、2行読み終える前に心地よい眠気を誘う。
きっと不眠症に悩む人なら、薬やお酒に頼る前にこれを読むべきだろう。しかしノアは、不眠症ではないので、苦痛でしかない。
それでも必死に魔法文字を解読しようと頭を動かす。
ちなみにノアは魔力ゼロである。希代の魔術師グレイアスからのお墨付きだ。
しかし、魔法文字は知識があれば、解読できるし王族は皆、魔法文字を使いこなすことができる。謂わばこれは王族になるための必須科目なのだ。
そんな訳で、ノアは辞書に手を伸ばして本日の課題をこなそうとする。
しかしここでグレイアスが口を挟んだ。
「ノアさま、教科書が逆でございます」
「......はっはは。さようですか」
冷たいグレイアスの声にひきつりながら、ノアはくるりと教科書をひっくり返した。