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グレイアスは夜会の前日、ノアにこう言った。
「夜会では、想定外の出来事が起こる。ちょ、マジでぇぇっ!?って思うことなんて軽く起こる。だから、絶対に気を抜くな。いかなる場合でも、冷静に対処しろ。……キノコ料理が食べたいなら、な?」
最後の”な?”には、凄みがあった。
しかしやれることは全てやったと自信を持っていたノアは、元気に返事をしつつも内心、グレイアス先生の「ちょ、マジでぇぇっ!?」という言葉のチョイスが面白いなどと不届きなことを考えていた。
……そんな自分を今、ノアはひどく後悔している。
(先生の言った通りだった)
振り向く勇気が無いノアは、ぴきっと固まったまま冷や汗を浮かべた。
しかしアシェルは、この予期せぬ人物に驚かず、優雅に振り返る。当然、彼にエスコートされているノアも、強制的にロキと対面する形となった。
正面から見たロキは声音の通り、隠し事をしていた自分に怒り呆れているのだろうと思いきや、ただただ意地悪く微笑んでいるだけだった。
それだけでも驚きなのだが、それよりもっと驚くことがあった。
「え?ええっ??本当にロキ院長ですか!?......いや、違う。こんなに院長は綺麗な人じゃな......痛っ」
自問自答の末、人違いという結論を出そうとしたノアであったが、脳天を直撃したゲンコツがあまりに痛く馴染みがあるもので、間違いなくロキであることを身をもって知る。
「ったく、言うに事欠いてそれかい?」
腕を組んで憤慨するロキに、ノアは物言いたげにジト目で睨む。
だって......だって、今、目の前にいるロキは全く別人なのだ。
身体の線がくっきりと出る青紫色のベルベット生地のドレスを見事に着こなす彼女は、誰がどう見たってちょっと歳がいってる妖艶な美女。
ちなみにロキは普段、よれよれの修道服にひっつめ髪が定番のスタイルだ。しかも子供達に「いい加減風呂に入れ!服を洗え!!」と言われているのに、「はぁーめんど」の一言で済ますズボラ人間。
そんなロキしか知らないノアからすれば、魔法を使ったとしか思えない変身っぷり。驚くなという方が無理がある。
などと頭の中では言葉が溢れて溢れて止まらないノアを無視して、ロキはアシェルに視線を移す。
「ったく、アシェルの坊や。あんたよくも面倒な招待状送ってくれたね」
「はははっ......不躾な頼みではありましたが、本日はご出席いただけて光栄です」
苦虫を口一杯に詰め込んだような表情をしているロキとは対照的に、アシェルは物怖じすることなくにこやかに対応している。
それも驚きだ。あと、アシェルのことを坊やと言ったことも更に驚きだ。
他にもロキの後ろで騎士服ではなく貴族服をまとっているワイアットにもびっくりだし、少し離れた場所にいるお偉いさんが青ざめているのも「なんで?」って感じだし、ローガンとクリスティーナが狂犬と出会ってしまったかのようにすたこら逃げていくのも意味不明。
とにもかくにも不可思議な現状が起こりまくっているせいで、ノアは一周回ってポカンとする。
そんなノアを見て、アシェルは一瞬だけ悪戯っ子のような顔をした。
でもすぐに、とろけるように甘く笑う。
それはまるで心から愛している婚約者に向けるような柔らかなもの。……なのにノアは絵に描いたような間抜け面をさらしていた。
一方、元王宮魔術師で王族の内情を良く知るロキとしては、たったそれだけでアシェルがどれほどノアを想っているのか痛いほど伝わった。
とはいえ、諸手を上げて二人の婚約を祝う気は無い。
だってロキはとっくの昔にノアが城に誘拐されたことを知っているし、割の良い仕事が仮初の婚約者を演じることだというのも知っている。
言っておくが、知っていてノアを放置していたのは、仕送り欲しさからではない。
かつて王宮魔術師の頂点に君臨していたロキは、魔法のスペシャリスト。大事な孤児院の子供たちすべてに”護りの魔法”を与えている。有事の際にはそれが発動し、身の危険から守ってくれる優れもの。
ただし、そう簡単には発動しない。むろん、無傷で誘拐された程度ではうんともすんとも言わない。
ロキは愛情深いが、溺愛はしない。厳しい環境でも雑草のように生き抜いて欲しいと願うロキは、獅子が我が子を千尋の谷に落とすスタイルを貫いている。
それこそがロキの愛情なのだが、当の本人が子供達に語る気が無いので、ロキはずっと鬼ババアよりの存在だったりする。
……という余談は置いておいて、兎にも角にもロキは大事な我が子をたぶらかそうとしている第二王子をギロリと睨み付けた。
「アシェルの坊や、言いたいことはごまんとあるけど……一つだけ、泣かせたら承知しないよ」
沢山の思いを凝縮した言葉にアシェルは居住まいを正してロキに身体を向ける。
「もちろんです――ノアは私にとって命より大切な人ですから」
過去、国王陛下の胸倉を掴んで暴言を吐いた凶暴な魔術師を前にしても、アシェルは物怖じすることなくそう言い切った。
対してこれ以上無いほどの愛の告白を聞いたノアは、間抜け面を維持しつつも顔を真っ赤にする器用な芸を見せる。
そんな二人を見て、ロキは大仰に溜息を吐く。しかしすぐに意味ありげにニヤリとった。
「あ、そうかい。まぁ、口では何とでも言えるさ。後は坊の頑張り次第だねーーじゃあ、行くよワイアット」
「はっはいっ。って……ちょ、院長っ……苦しいですっ!タイを引っ張るのはやめて……って、苦し!」
ひらひらとアシェルに軽く手を振って、ロキはワイアットのタイをぐいっと掴むとヒールの音を鳴らして会場の奥へと歩いて行った。
向かう先はローガンとクリスティーナのようだ。
だが、盲目のアシェルは都合よく気付かないフリをして、真っ赤に染め上がっているノアの小さな耳に唇を寄せた。
「それじゃあノア、さっそくダンスを踊ろう」
ーーこんなふうに踊れるのは、今日で最後だから。
含みのある最後の言葉は声に出すことはせず、アシェルは優雅にノアをダンスホールへと導いた。