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午後の授業がお休みになった喜びを嚙み締める間もなく、アシェルに抱き上げられたノアはビックリ仰天する。
そして、オロオロとしている間に気付けばホールを出て廊下を進んでいた。抱き上げられたままの状態で。
「ちょ、あの……殿下!?」
「ノア、大人しくしていて」
身動ぎしたノアを嗜めるように、抱き上げるアシェルの腕が強くなる。
それにつられるように、ノアの声も大きくなる。
「ダメです、殿下。今すぐ、降ろしてください!!」
「だーめ。このままでいて」
「……えー」
これまでアシェルからこんな雑に却下をくらったことは無いノアは、思わず不満の声を上げる。
だがしかし、お仕事熱心なノアは、一度くらい却下を受けても主張を引っ込める気は無い。なぜなら、まだ晩夏の今日は、いつにも増して暑いのだ。
「殿下、一人で歩くのは危ないですよ。私が手を引きますから」
「ああ……なるほど。でも、今日はすこぶる調子が良いから大丈夫だよ」
「そうなんですか?」
「うん、珍しくね」
「それは何よりです。良かったですね」
「ははは」
大変都合の良いアシェルの発言を聞いても、ノアはぱっと笑みを浮かべるだけ。
雇用主の体調を気に掛けるとても良い子であるが、もう少し人を疑うことを覚えたほうがいいと思う。
もちろんアシェルもそう思っている。だがしかし、それを指摘すると墓穴を掘ることになるので、涼しげな笑みを浮かべで聞き流すだけ。
ちなみにアシェルの後ろにいる護衛騎士のイーサンとワイアットは苦笑交じりに「へーそうなんだぁー。そりゃ、初耳で」と気の無い独り言をつぶやく。
もうアシェルのご都合主義の台詞は慣れっこになりつつある。
しかし、ノアはいつまで経ってもアシェルの言葉を純粋に信じている。
と、いっても盲目王子の調子が良かろうが悪かろうが、抱き上げられたままで移動するのは辞退したい。
「……あのう、殿下。逃げたりしませんから。降ろして貰えませんか?」
「ははっ、私はノアが逃げるなんて思っていないよ。それに目的地はもう目の前だから」
「へ?……あ、そうですか」
「そう。ノアを降ろしている間に到着できる距離だよ。だから、もう少し大人しくしてて」
「はぁ」
馴染みのある扉が視界に入り、アシェルが言った目的地とは、どうやら彼の執務室のようだとノアは気付く。
そして間抜けな返事をした時には、もうアシェルは扉の前に到着していた。
どうでも良いが、自分の足ではこの倍以上の時間がかかる。ノアは自分と盲目王子とのコンパスの差を感じて、ちろっと自分の足を見る。そして、これからもっと歩幅を大きくしてアシェルの手を引こうと固く誓った。
などという至極くだらないことをノアが考えているうちに、アシェルは室内に入り小声でイーサンに指示を出す。
そしてイーサンが執務室を飛び出して行ったのを確認して、アシェルはそっとノアをソファに降ろした。
「じゃあノア、靴を脱がすね」
「は?……え、ええっ!?」
いつからソファに着席するときは土足厳禁になったのだろうか。
ノアは目を白黒させながら、アシェルを止めようとする。
けれど、慣れた手つきでアシェルはノアの靴を丁寧に、素早く脱がした。その手つきは到底盲目とは思えないものだった。
それだけでもノアは驚きなのに、アシェルの手はまだ止まらない。
「靴下も脱がすね」
「はいいいい!?」
たとえ雇用主からの命令であっても、さすがにそれはダメである。
なぜなら本日は普段の膝までのそれではない。
ダンス用の靴下───いわゆるガーターストッキングと呼ばれる代物を履いているのだ。しかもそれは太ももまでの長さがある。
つまり、スカートの相当奥まで手を突っ込まれるということで。
「それはダメです!殿下!!」
ノアは、今まさにくるぶしの位置からスカートの中に入ろうとしている不埒な手を力任せに握った。
なのに手の持ち主は、乙女がこんなにも慌てているのに苦笑するだけ。
「ノア、私は目が見えないんだからそんなに恥ずかしがらなくても大丈夫。変なところは触ったりしないから」
「や、ダメ!ダメです!!」
スカートの中は、既にもう変なところなのだ。それ以外の変なところなんて、ノアの知識にはない。
ちなみに側近その2であるワイアットは、じゃれ合う二人の邪魔にならぬよう壁と向かい合い気配を消している。
「ノア、すぐに済むから」
「いやいや、ダメですってば───……あ、じゃあ、私、自分で脱ぎますからっ」
一体全体どうして自分の靴下を脱がせたいのか皆目見当もつかないけれど、今、それを聞くよりは自ら脱いでしまたほうが良いとノアは判断した。
貴族令嬢なら肌着の一部と言われている靴下を自ら脱ぐのも、他人から脱がされるのも、羞恥で卒倒してしまうだろう。
だがしかし貧乏孤児院育ちのノアは、この季節素足でいるのがデフォルトだ。何ら、抵抗はない。
そんなわけで、盲目王子の手を避けるとノアは自ら靴下を脱ごうとした。
けれどその瞬間、トンっと肩を軽く押されてしまった。不意を突かれたノアは、そのままソファに寝そべる姿勢になってしまう。
「へ?……っ!!」
くるりと回った視界に間抜けな声を出したけれど、すぐに節ばった手を足に感じてノアは息をのむ。
倒れた拍子にアシェルがスカートの中に手を突っ込んだのだ。そして、器用に素肌に触れることなく靴下を脱がしていく。もちろん、片方ではなく両足とも。
(なんで??……ええ???)
随分手際が良いことに、ノアは疑問を持つべきだった。
けれども、こんな強硬手段を取ってまで靴下を脱がしたい理由を考える方を選んでしまった。
「殿下……私の靴下に興味が!?」
「靴下には興味ないけれど、その中身に興味があるね」
なんだか変態扱いしている質問だなとノアは思ったが、受けた側のアシェルはなんとも思わないようで、さらりと答える。
そして、次の盲目王子の発言で、靴下を強制的に脱がされた意味がわかった。
「ああ、やっぱり皮が剥けてる。相当痛かっただろう?」
眉を下げながらアシェルはノアの足の裏を履くように撫でる。
繊細なガラス細工に触れるより優しい手付きに、痛みは無い。けれどゾワゾワと背中から何かが這い上がり、ノアはモゾモゾと身じろぎをしてしまう。
「あ、ごめんね。これだけでも痛いみたいだね」
更に眉を八の字にするアシェルに、ノアはぶんぶんと音がするほど首を横に振る。
(なるほど。殿下は、私の足の裏の皮を心配してくれていただけなんだ)
一人で勝手に不埒なことを考えていたノアは、心の底からアシェルに対して申し訳ないと思ってしまった。