12
(してやられた。くそっ)
アシェルはノアの肩に額を付けたまま舌打ちした。
今ごろきっと、絶対の信頼を置いている宮廷魔術師は、ニヤニヤと意地悪く笑っているだろう。
アシェルは自分が性格が良い方ではないと自覚しているが、それでもグレイアスほどではないと思っている。
あの男は自分の価値をちゃんとわかっている。
不敬罪ほぼ確定のことをしても、何の処罰も受けないことをわかっているし、仮に咎められたとしても、言い返せる材料をごまんと用意している。絶対に。
それに何より、グレイアスは無駄なことはしないし、面白がって人の色恋をかき乱すようなこともしない。
こうすることが一番だというタイミングで、背中を押すのだ。
(……まったく、なんでアイツはあんなに性格が悪いんだ!?)
長年友として、頼れる家臣として傍にいるが、時折アシェルは宮廷魔術師の手のひらで踊らされているような気がしてならなかった。
「─── 殿下、驚かせてごめんなさい。やっぱり、直接私からお伝えすれば良かったですね......本当に、申し訳ないです」
無防備に肩を差し出している少女は、そう言ってまた背中を優しく叩いてくれる。
ゆるゆると顔を上げると、お互いの吐息をとても感じる。そしてノアが、緩く微笑んだのが気配でわかった。
「......殿下、ここにずっと居るのはアレなんで一先ずお部屋に戻りましょう」
「良いのか?」
「良いですよー」
─── 殿下を一人で帰らせる訳にはいきませんから。
最後に言ったその言葉の中に、自分と同じ想いがあればと祈るが、どうしたって見つけることはできなかった。
でも、なんの躊躇いもなく自分の手を取って立ち上がり、「ってか、どっちが帰る方向だろう??」とオロオロするノアが愛しくて堪らなかった。
気づけばアシェルはまた、ノアを己の胸に抱き寄せていた。
(......誰かが居なくなってしまうのが、こんなにも怖いなど知らなかった)
盲目になって精霊を見る瞳を失って、アシェルの前からたくさんの人が消えていった。王位継承権が無い自分は、なんの価値も無いとあからさまに態度で示された。
それは確かに辛かったし、悔しかった。しかし、怖いとは思わなかった。
失った権威は取り戻せば良いだけだし、身近な人間の本心を見ることができたと思えば、それはそれでと割り切れることだってできた。
なのに、たった一人の少女が自分の元から消えてしまうと思った瞬間、例えようの無い恐怖に襲われた。
ノアを抱き締めたまま、無意識に柔らかい髪に口付けを落としていた自分に気づいて、アシェルは笑い出したくなった。
己が選んだ道に、こういう感情は必要なかったはずなのに。でも違うと否定しても、湧き出る感情に名前を与えてしまったのだ。もう理性だけでは押さえられない。
「あのう......殿下、つかぬことを聞きますが、もしかして歩けないほど具合悪くなっちゃいました?」
異性の男に抱きしめられたというのに、愛しい彼女は気遣う言葉しかくれない。
そしてその声音には、やっぱり自分と同じ想いは含まれていない。
(......彼女を利用しようとしているのに、私と同じ気持ちになってほしいだなんて望みすぎなのはわかっている。......でも、どうやったらノアは私のことを好きになってくれるのだろう)
そんなことを口にできないアシェルは、またノアに小さな嘘を重ねる。
「ああ。ちょっとだけ目眩がするんだ。だから、ノア......もう少しだけこうしていて」
すぐさま「いいですよー」という呑気な声と共に、小さな手を背中に感じて、アシェルは不意に泣きたくなった。
***
一方、ノアといえば。
(うわぁあああ、なんか自分から抱きついちゃった!)
ノアは人生で初めて成人した男をぎゅっとしている現実に、なんだか恥ずかしくなって顔が熱くなる。
でも、これは具合の悪い雇用主こと盲目王子を介抱しているだけだと言い聞かせる。
だってそうしないと、なんだかいけない場所に踏み込んでしまったような気持ちになってしまうから。
ただ、こんなふうにアタフタするのは、そもそもアシェルのせいだとノアはちょっとだけムッとする。
(もうっ、私たちはお仕事だけの関係のはずなのに、そんな顔であんなことをするのは少し狡いと思う!)
そんな主張をしながら今、抱きしめ抱きしめられている相手に八つ当たりをしたくなる。
だけど口から出た言葉は別のものだった。
「殿下、私は急に居なくなったりはしませんよー」
「……本当に?」
「はい。約束します……って、殿下、苦しいです」
即答した途端に腕の力を強められるのは、なぜ?とノアは首を傾げる。
あと、こんなに元気ならもう歩けるんじゃないかとも思ってしまったりもする。
「殿下、そろそろ戻りましょう。お部屋まで案内しますよ」
「……嫌だ」
「えー」
無理難題をふっかけたつもりはないのに、掠れた声で首を横に振られてしまい、ノアは困惑した声を出すことしかできない。
だからと言って、今度はアシェルに対してムッとしたりはしない。それがとっても不思議だなとノアは頭の隅でふと思う。
でも、その小さくて大切な疑問をちゃんと考える前に、ガサッと植え込みが音を立てて揺れた。
「……ノア様、突然ですが残念なお知らせがありますが、お伝えしてもよろしいでしょうか?」
瞬きする間に消えて、絶妙なタイミングで現れたのはフレシアだった。
ぶっちゃけ、彼女の登場の方がよっぽど突然のような気がする。
だが、それに突っ込みを入れる前に、まずは誤解されそうなこの状況をなんとかする方が先決だとノアは思った。けれども───
「ん?この声はフレシアだね。良いよ、言って」
なぜかアシェルがフレシアに許可を出す。しかもノアを抱きしめたまま。
(え?殿下はこのままで良いの!?)
ノアとしては、早急に離れるべきだと思う。だがしかし、身じろぎをしても頑丈な腕はピクリとも動かない。
そしてフレシアは抱き合っている二人なんぞ興味が無いようで、感情を乗せない声で衝撃的なことを告げた。
「では、失礼して───……ノア様、申し訳ございません。実は用意していた馬車に不具合がありまして、本日はどう頑張っても替えの馬車を用意することができません」
(……はぁ?)
「……はぁ?」
心の中で思ったと同時に、ついそのまま口から出てしまった。
しかし……まぁ、今回の一時帰宅はグレイアス先生の善意で成り立っているのがほとんどだったので、ノアが言えるのはこれだけだった。
「フレシアさん、わざわざ先回りして馬車を見に行ってくれたんですね。ありがとうございます。あと、殿下……そういうことですので、動けるようになったら」
「うん。動けるようになったよ。ノア、帰ろう」
ノアの言葉にかぶせるようにそう言ったアシェルに、ノアは「随分タイミングが良いな」と思うべきだった。
でも、なんかもう疲れてしまったノアは全てを放棄してこくりと頷くと、アシェルの手を取って離宮へと歩き始めた。
ちなみに今回は、フレシアは消えることなく離宮まで先導してくれた。