10
時は少し遡り、ここはノアの私室。
鬼の形相で労働者の正当な権利である休暇を却下されそうになった数分後、手のひらを返したようにお優しくなったグレイアス先生は、ノアに「善は急げと言いますから、今日にでも孤児院の皆さんに会ってきなさい」と言った。
しかも辻馬車を拾って移動するつもりだったノアに、道中危険が無いようにと個人の馬車まで貸し出してくれる気遣いが妙に怖かった。
でもノアは、うら若き乙女のお尻を潰してしまったせめてもの償いなのだろうと、勝手に解釈して、ありがたく使わせてもらうことにした。
余計な出費はできるだけ控えたい。浮いた金でまた仕送りできるという、こすい計算が働いたかどうかは内緒である。
─── というわけでノアは、出掛ける準備を終えると、休日まで護衛をする気満々のフレシアに声を掛けた。
「そろそろ行こっか、フレシアさん」
「......もう少し、お待ちを」
「あー......はい」
実はこの会話、もう8回目だったりする。
女性の支度は何かと時間がかかるものなので、フレシアが待ってと言えばノアは朝まで待つのは苦ではない。
だがしかしフレシアは、もうすでに外套という名の魔術師御用達のローブを羽織っている。それに王都に近い街まで行って帰ってくるだけの日帰り旅行にもならないお出掛けだ。
(うーん......これ以上、一体何を待てば良いのだろう)
もしかして手土産的な何かを用意してくれてるのかな?などと図々しいことを一瞬だけ思ってしまったが、すぐに違うと判断する。
だって今の時刻は夜だ。夕食も終えている。
普段ならお風呂に入って、ベッドの上でゴロゴロしながらアシェルが貸してくれたキノコ図鑑を読んでいる頃だ。
さすがにキッチンでは後片付けも終わっているだろうし、シェフの皆さんだって、もう就業時間外のはずだ。
まぁ、シェフの勤務形態がどうなっているのかは知らないけれど、夜中に菓子を用意しろと言われたら、「えー、今からぁー」ときっと思うだろう。
フレシアは無口だし無愛想だけれど、どっかの馬鹿殿下と違って無理を押し通すようなことはしない。
と、なると一体、何をそんなにモタモタしているのだろう。
ぐだぐだと考えた結果、結局、答えは出ないし元の疑問に辿り着いてしまったノアは、フレシアを急かすのも悪いと思いサイドテーブルに置いてあるキノコ図鑑を手に取り、ふかふかの猫足ソファに移動する。
そして、ノアが図鑑を開いて最初のページをめくった瞬間───
「......お待たせいたしました。では、今から向かいましょう」と、フレシアに声をかけられてしまった。
(いや、別に良いんだけれどね......別に)
準備が終わるまでと思って読み始めただけなので、中断されて当然だ。
だがしかし、あまりの間の悪さにちょっとだけ、このタイミングですか?と思うノアだった。
と、いう気持ちは隠していざ出発!でも……なぜか扉からではなく、窓から。
コソ泥よろしく、そんなことしているノアだけれど、やっている本人も疑問を抱えている。
しかしフレシアから「夜遅い時間帯だから他の人の迷惑にならないように、そっと出ましょう」と提案された為、窓から出発する羽目になっている。
確かにフレシアの言い分はごもっともだ。
すぐ近くの部屋にいるアシェルがもう寝ていたら、睡眠妨害になるだろうし、巡回中の衛兵さん達もお化けと間違えてびっくりするだろうし。
でも、こんなに遅くなったのはフレシアがもたもたしていたのも原因の一つだし、そもそも、明日の朝一番に出発する予定だったのにグレイアス先生が「絶対に、今日の夜にしろ」と急かされたせいでもある。
(魔術師兄妹は、ちょっとのんびり屋でせっかちさんなんだなぁ)
無事に窓を乗り越えて離宮の庭園を歩くノアは、呑気にそんなことを思う。
まかり間違っても、兄妹そろって何かを企てているんじゃないか?なぁーんてことは、欠片も思わない。
ちょっとは疑うべきなのに、まぁいっかで済ますノアは、おおらかな性格なのか、大雑把な性格なのか、このお城ではキノコ以外に興味を持てないのかは不明である。
本人に直接問うても、きっと答えはでない。なので、とにかく魔術師兄妹にとってはある意味扱いやすい存在、それがノアである。
「───…… ノア様、こちらを通って行きましょう。近道です」
「あ、はーい」
声量を落とさず指示を出すフレシアに、ノアは何の疑問も持たずに素直に従う。
だって厩の場所がわからないから。
誘拐された時は、お城の中のかなり奥まで馬車で乗り付けたから、一度も馬車が停まっているその場所を目にしていないのだ。
ただ一回こっきり見たところで、お城は広いし、ノアは数か月ここで働いでいるが、ほとんどの時間を離宮かグレイアス先生の私室で過ごしているため、城内の間取り図が頭に入っていない。
そんな状態でフレシアの道案内無しに一人で厩まで行こうもんなら、間違いなくお城の敷地内で朝日を拝むことになるだろう。
(やっぱ、フレシアさんと一緒で良かった。休日返上して付き合ってくれて、ありがとう。あと、ちょっとだけ準備が遅いなって思ってごめんなさい)
ノアは前方を歩くフレシアに、手を合わせて感謝しつつお詫び申し上げた。
─── っとここで、なぜか突然フレシアが消えた。
「ええええっ、噓でしょ!?」
瞬き一つで頼れる存在が消えてしまった現実を受け入れたくなくて、ノアは絶叫した。
だってここはお城だけれど、棟と棟の間のなんか林みたいな所なのだ。整えられた庭園のようにガーデンライトなんて一つも無いし、今日に限って月は雲に隠れている。
「……ちょ、ど、ど、ど、どうしよう」
元来た道を戻りたいが、動揺しすぎてグルグル回ってしまった結果、帰る方向がわからないし、向かうべき方向もわからない。
とどのつまり、遭難確定である。
はぁーっというため息を吐いたノアは、その場にへたり込んだ。
けれど、地面に膝を付いた瞬間、ものすごい速さの足音がこちらに向かってくる。そしてノアが振り向く前に、耳をつんざくほど大声が辺りに響いた。
「ノア、待って、行かないでくれ!!」
混乱を極めた状態でも、他の誰とも間違えようがない美しい声の持ち主が誰かなど振り返らなくてもわかる。
声の主は、アシェルだった。