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ホリグ大陸のほぼ全土を占めるハニスフレグ国は、かつては精霊による精霊のための精霊の楽園であった。
そこに一人の冒険者───のちに初代ハニスフレグ国の国王陛下となる男が流れ着いた。
もともと人ならざる何かを見る特異な能力を持っていた男は、あっという間に精霊と仲良くなり、そして精霊王の一人娘と恋に落ちた。
しかし、どれだけ想い合っても人と精霊では生きる世界が違う。容姿も違えば、寿命の長さだって遥かに精霊の方が長い。
でも男は、精霊姫をありのままに愛した。限られた時間を精霊姫と共に過ごしたいと思った。
対して、精霊姫は違った。男と同じになりたかった。同じ容姿で同じ寿命を求めてしまった。
そして、精霊姫は人になる薬を飲んでしまった。それが自分の命と引き換えに、たった10日だけ人間になれる薬とは知らずに───
人間になれる薬は精霊にとって命を奪う毒である。けれど解毒剤は存在しない。
その結果、精霊姫はわずか10日で息を引き取ってしまった。
「どうか何百年経っても、またあなたの妻にしてくださいね。その時は、わたくしとわかるように、あなたが好きだと言った雪花を胸に刻んで生まれてきますから」
そんな一方的な願いを男に押し付けて。
精霊姫に愛された男はその後、精霊王と何かしらの話し合いが持たれここにハニスフレグ国を建国した。
そして死ぬ間際、この後に続く子々孫々に「生まれながらに雪花の紋章を刻む人間が現れたら、必ず妻にせよ」と命じて、生涯の幕を下ろした。
そうして、精霊姫は400年経って、人として生まれてきた。約束どおり雪花の紋章を胸に刻んで。
ただこれ、おとぎ話としたら良くできたものかもしれないが、実際この身に降りかかってみると大っ迷惑な話である。
ま、これもまたローガンと同意見であった。
「─── だいたいこの醜女が本当に初代ハニスフレグ国王陛下の伴侶という証拠はどこにある!?これだって、ただの刺青じゃないのか!?俺は信じないぞっ」
これ、と言ったと同時にローガンはノアの胸を指差した。
ちなみにノアの胸......というより鎖骨のちょっと下。襟がつまった服でなければ見えてしまう微妙な位置に薄桃色の雪の結晶のような6枚の花弁の痣がある。
おくるみに包まれた自分を拾ってくれたロキの証言によれば、その頃から痣はしっかり刻まれていたそうだった。
ノアが育った村では刺青をする文化はあるが、それでも乳飲み子にそれをする親はいないし、そもそも刺青文化は男性だけのもの。
つまり、認めたくはないがノアの痣は生まれつきのもので間違いない。
しかし、ローガンはどうやっても認めたくないようだ。
その気持ちはしつこいが、わかる。
自分だって、できることなら「これ刺青です!」と主張したい。そして孤児院に帰りたい。キノコ食べたい。
だが、ノアに発言権は無い。
平民が許可無く発言することを許されていないからではなく、現在、ノアは物理的に声が出ない状態なのだ。
それは、今しがたローガンを嗜めたグレイアスの魔術で声帯を麻痺させられているから。
しかもそれだけではない。
ノアの両手は、逃亡防止のために拘束されていたりもする。
ひっそりと孤児院で育って、盗みも騙しもしないでそこそこ堅実に生きてきたのに、拉致されるわ。縛られるわ。声は出せないわ。醜女呼ばわりされるわ。キノコ食べ損ねるわ────。
まさに踏んだり蹴ったりの状況だった。
だが今日はノアにとってとことん厄日なようで、ここにきて更に厄介な状況になる。
「ねえローガンさま、こんな者でも国民の一人です。あまり虐めては、なりませんわ」
悲痛な声を上げて怒り狂うローガンを宥めたのは、一人の淑女だった。
名をクリスティーナ・サッチェと言い、大貴族である公爵家の一人娘であり、ローガンの婚約者。ど派手なドレスと厚化粧で、もはや原型を留めていない。
ちなみにこの女、ずっとここにいた。
ノアが醜女と罵られている時も、足蹴にされた時も、扇で口元を隠しながら目をらんらんと輝かせて傍観していた。
そんな女がこのタイミングで、わざわざローガンを止めに入ったのだ。
まかり間違っても、自分を助けるためでは無いだろう。
(……なんだろう。めっちゃ嫌な予感がする。っていうか悪い予感しかしない)
ノアはごくりと唾を飲む。声帯が麻痺しててもそれはできるのがなんだが不思議だった。
ただ、この後のクリスティーナの発言のほうがもっと摩訶不思議なものだった。
「ローガン殿下、わたくし一つ名案を思いついたんですの。聞いてくださいます?」
自分から名案だとハードルを上げるこの内容、絶対にロクなもんじゃない。
だがローガンはクリスティーナの豊満なお胸に釘付けで、でへへっと鼻の下を長くしながら、雑に続きを促した。
「このお嬢さんを、わたくしの侍女にしませんこと?」
「……は?」
(……は?)
ローガンとノアは同時に首を傾げた。
しかし、クリスティーナはこのリアクションは想定の範囲だったのだろう。嫌な顔をすることなく補足する。
「ですから、これは一応初代国王陛下の伴侶の生まれ変わりと国王陛下が認めてしまっておられます。そうなると、このまま野に捨てるのは、厄介ではございませんこと?万が一、この者を妻にした男が、よからぬことを考えるやもしれません。不穏分子は事前に排除しておかなければ……。ですから、わたくしの侍女として監視しておけば、今後も殿下を不安にさせることはないと思って提案させていただいたのですわ」
「それは名案だ」
(絶対に嫌だっ)
残念ながら、今度はローガンと意見は分かれてしまった。
そして運悪く、クリスティーナと目が合った。
彼女は扇で口元を隠しているが、その目は「これから、なぶり殺しにしてやるからな」と訴えている。
確かに見方を変えたら、自分は突如現れた二人の間を引き裂く邪魔者だ。クリスティーナにとったら、自分は迷惑者以外、何者でもない。
でも、冗談じゃない。こっちだって好き好んで、ここにいるわけではないし、痣だって消せるものなら消してしまいたい。
そして孤児院に帰りたい。しつこいと言われるかもしれないが、本当にキノコが食べたい。好物なのだ。
だからノアは首を捻って、傍観を決め込んでいるグレイアスに目で訴える。
(ちょっと!もういい加減、喋れるようにしてよ!!)
こうなったら、きちんと言葉で自分の意図を伝えて和解に持っていくしかない。
しかし、グレイアスから返ってきたのは口パクで3文字。
「だ、ま、れ」だった。