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「ノア、さぁ、読みなさい」
手紙を持ったまま直立不動でいるノアに、アシェルは優しい口調で急かす。
それは寛大な態度に見えるが、ノアはしつこいけれど別に急いで読みたいとは思っていないし、人前で手紙を読みたくはない。
しかし、妙に圧迫感があるアシェルに気圧され、ノアは封筒の端っこをびりっと破る。ペーパーナイフを使うという概念は無いもので。
あとノアにとってアシェルは、雇用主であり、なんか放っておけない心配な人であり、そこにいるだけで庇護欲をそそられる存在である。
だから今回も、アシェルの言動に違和感を覚えることはない。ただの気遣いだと受け止めてしまっている。
もう本当に、いい加減気付けとは思うが。
「では、失礼して……────」
ノアは便箋を取り出すと、一言断ってから手紙を読み始めた。
イーサンはプライバシーを考慮して離れてくれたし、アシェルは盲目王子なので傍にいたとて盗み読みされる心配はない。
(まぁ……読まれたところで、困る内容は何にもないんだけどね)
ロキからの手紙は毎回ほぼ同じ内容だ。仕送りのお礼と、孤児院の皆の近況報告。あと、自分の体調を気遣う言葉。それと近くの森に生えているキノコについて。
ノア的には最後のキノコ報告が一番楽しみなのだが、今回はそれは一切触れてなかった。
だが、それにがっかりすることはしない。
なぜなら、それよりも遥かに衝撃的な内容が記されていたからだ。
「……嘘……でしょ」
ノアは手紙を読み終えたとたん便箋をぎゅっと握りしめて、わなわなと震える。
「ん?どうしたんだい?ノア」
「あ……や……あはっ、あははっ……ああ……はぁ」
ノアの異変に気付いたアシェルは、心配そうに眉を下げて尋ねる。
だがノアは、どう答えていいかわからず一先ず誤魔化し笑いをして、でも失敗して、最終的にため息を吐いた。
(ど、ど、ど、どうしよう。私、お仕事終わりにしたいって言っちゃったよね?うん。間違いなく言っちゃったよね……どうしよう)
あれほど固い意思を持って退職を宣言したノアだが、手紙を読んだ途端、一気に状況が変ってしまったのだ。
ちなみに、ロキからの手紙にはこう書かれていた。
【政府の気まぐれなのか、税金が余っているのか、運が良いのかわからないけれど、無償で孤児院を建て直してもらえることになりました。私設孤児院は政府からの支援は望めないはずなのですが、どうしたんでしょうね。まぁ、無償だし、今後一切金銭の要求はしないという契約書も交わしたので、乗っかることにしました。ただ仮住まいは、かなり離れた場所で、かつキノコが見当たらない比較的街中だから、あんたはもうしばらく王都でお仕事を頑張りなさい。─── じゃあ、また手紙を書きます】
予想だにしなかったロキの手紙に、ノアはまるで猛毒のフクロツルタケを食してしまったかのように全身がしびれて嫌な汗が額に浮かぶ。
(まさかこんなタイミングで、ロキ院長からこんな報告を受けるなんて……)
この手紙があと1日でも早く自分の元に届いていたら、こんな冷や汗ダラダラ状態になることなんてなかった。なんと間の悪い事か。
「ねえノア、手紙に何か良くないことでも書いてあったのかい?」
誰がどう見ても切羽詰まった態度を取っている自覚があるノアは、再び「ははは」と乾いた笑い声を上げることで返事としたかった。
しかし、無理だった。
アシェルは、ノアの頬を両手で包むとぐいっと顔を近づけた。
「困ったことがあるんだね。ちゃんと私に言いなさい」
その言葉を受けてノアはぴきっと固まった。
ちょっとでも動いたらアシェルの唇に自分の唇がくっついてしまう恐れがあったのもさることながら、これまで一度も彼から命令口調で何かを言われたことなんてなかったから。
いつでもアシェルは、「~してくれると嬉しい」とか「~をしてみよう」とか「~をお願いできるかな」という提案とか、お願いという形でノアに接してきた。
もちろん今だってアシェルは穏やかな物言いだった。側近達に向けるような厳しさはどこにもない。
でも、断れない何かを含んでいる。
「ノア、言いなさい」
「……でも」
「”でも”じゃない。ちゃんと言うんだ」
ノアがまごつくたびに、アシェルの口調はどんどん尖っていく。
至近距離で、かつピリピリ混じりの吐息を頬に受けているノアは、たまったもんじゃなかった。
そんなわけで、あっという間に白旗を上げたノアは、覚悟を決めて口を開く。
「実は、今の手紙に書いてあったんですが、政府のご厚意で孤児院を建て直してもらえることになったんです。でもロキ……いえ、孤児院長が”仮住まいの家が狭いから帰ってくんな”って……その言われちゃって……だから───」
「あははっ、なんだそんなことか」
だんだん尻すぼみになっていくノアの言葉を、アシェルは笑いながら遮った。
そしてノアが死んでも口にできないことを、さらりと告げた。
「つまりノアは、もうちょっとここに居てくれるってことだよね?……違う?」
「違いません……でも」
「良かった。嬉しいよ。じゃあ、改めてよろしくね、ノア」
アシェルはノアの頬を両手で挟んだままそう言うと、こつんと額を当てた。
(ぅうわぁぁぁー。くっついてる。くっついちゃってるよ)
あっさり退職撤回をしてくれたことより、今の彼との触れ合いのほうが何倍もインパクトが強すぎて、ノアはぴしゃんと更に固まる。
***
そぉーんな二人のいちゃつきを盲目王子側近1は、気配を消して傍観していた。
余談であるが、アシェルが行う政務は、やらかしてしまった官僚の尻拭いがメイン。ただつい最近では、盲目というハンデを活かして国内の福祉事業─── 主に教育施設の充実や孤児院の支援などを請け負っている。
福祉事業は、外交や、貿易、また財務などといった華々しさや、議会での発言力も得られない無いどちらかというと地味な政務であるため、盲目王子が担当することに誰も異を唱える者はいなかった。
そんな地味政務を嬉々として行っているアシェルに、何かメリットはあるのかどうかは……ご想像にお任せする。