4.ほんと、もとひめみこ、いくじなし
わたしは、本。
いっさつの本。
私は、一冊の、魔導書。
今は魔女の持ち物。
歪みとは。
大きな魔力のぶつかり合いなどで、時空に生まれるヒビのようなもの。
強くて濃い魔力が集まる場所。吹き溜まり。底なし沼のようなもの。
世界の根幹が揺らいでできた隙間と言えば、まだ分かりやすいかもしれない。
歪みは正常に整えて塞がないといけないのだが、歪みの大きさに比例して、時間と魔力が必要になる。
魔女は「つまり、手間がかかりすぎるの」と言う。
対応できる魔術師は少なく、見つかった場合はよく魔女が呼ばれるのだ。
人が落ちるほどの歪みなど、めったにお目にかかれるものではない。
とはいえ魔力が原因で発生することが多いために、指一本入らないくらいの小さな歪みはよくできるし、小さいからこそ見つかりにくい。
決して、歪みができること自体は珍しくないのだ。
だからこそ、落ちる者が出てくる。
歪みの中で生存できる保証はできず、落ちたら最期と言われる。
ただし運が良ければ――。
どれほど良ければいいのかは分からないが、運が良ければ、別の歪みから外へ出られることもある。
あの時、広間で泣きじゃくっていたキャナルもそうだ。
10歳のときに歪みの中に落ちたキャナルは、別の歪みから、この国へ放り出されてしまった。
あのあとキャナルは自分を保護したグレスディの内弟子となることを認められて、周囲から可愛がられて育っていった。
魔女は「孫ができた気分」と複雑そうに手助けしていたが。
とはいえそれは、可愛さあまってのことだろう。
少女は自分にキャナルと名づけてくれた魔女を母親のように慕っていたから。
良かったな、好意でもおばあちゃんと呼ばれなくて。
――賢明な私は口にしなかったぞ。
まあ、何でそんな今更のように歪みのことを考えていたかというと。
私の前にまたもや歪みから歪みへ移動した、ラッキーの権化がいるからだ。
何だろうこの部屋~とか言っている場合か。
国によって厳重管理されてる場所にあっさりと入るんじゃない。
『……姫巫女サーラ? いや、本物の紗々来か?』
「……グリモ、ワール……えっ! ほんとにあの『魔導書』なのっ!?」
『本当に紗々来なのか……。サーラと似た魂が歪みから落ちてきたのは気がついていたが……まさかお前も歪みに落ちて、しかもその姿のままでやってくるとは思わなかったぞ。……運とは何なのだか……』
「私はわりと確信犯だったつもりだけどね」
ない胸を張ってドヤ顔をする日本人の少女を睥睨する。
数奇な運命とやらは本当にタチが悪い。
姫巫女サーラ。
もとい紗々来は、元姫巫女の少女である。
なぜ『姫神子』でないのかというと、紗々来は魂だけが歪みに落ち、同じく歪みに落ちたこの国の王女の体に宿り、この国へやってきたからだ。
歪みに落ちた時点で王女の魂は消滅し、亡骸だったからこそ抵抗なく紗々来の魂が宿ることができたわけだが、その話は置いておく。
生身の体ではなく、魔を退ける適正があったのは宿った魂だったというわけだ。
騒乱さなかに復活した王女としていきなり崇められた紗々来。
彼女は魔女に助けられながら姫巫女となり、国に平和をもたらし――。
『結局あれは、死んだんじゃなくて日本に戻ったのか?』
「うん、最初と同じく魂だけ戻ったの」
『無事で良かったとは思うが……何だか軽くないか』
「私にとっては数か月前の出来事だもの」
『たった数か月……』
姫巫女サーラは確かに歴史書に語られる活躍をしたが、その最期は悲劇であった。
おいそれと口にするのは憚られるほどの衝撃を受けた者たちの間で、当時は禁句とさえされたのだ。
それをこの小娘。
『混乱を遺しておいて数か月前とは……』
「私だって悲劇になりたくてなったわけじゃないわよ」
『それはそうだろうとも』
げんなりとした顔に溜息をつく。
『あの最期のせいで、小僧の荒れ模様はひどかったんだからな。そのままあいつが次の魔王になるのではないかと、総出で警戒していたぐらいだぞ?』
「え、そこまで……?」
『そこまでだ』
「……まだ付き合ってもいなかったんだけど……」
『秒読みだったろうが』
サーラと良い雰囲気であった仲間の少年について触れると、紗々来は気まずそうに目を反らす。
ほのぼのと見守るだけにしていたのが悪かったのかは分からない。
サーラより年下ではあったが、能力と才能が突出し、姫巫女の仲間となった少年がいた。
少年はサーラをよく助け、サーラもまた年の近い少年を頼りにしていた。
とても仲が良くいつも傍にいて、旅を通して互いに想いを寄せるようになるのも、また必然のことのように思われた。
しかし、あまりにも傍にいたための悲劇だった。
サーラの最期を、誰よりも間近で見て、救うことができなかった少年。
周囲の負の感情を全て吸い寄せるかのごとく荒れに荒れた。
結局、少年は警戒したように魔王とはならなかった。
しかしそれまでの人当りの良さなどはすっかり消え失せて、ほとんどの者を周囲に寄せ付けようとせず、頑なな態度をとるようになってしまった。
それは今なお続いている。
『知っているか』
「な、なにを?」
『あいつ、サーラの肖像画が入ってる懐中時計、今でも肌身離さないぞ』
「……………………。」
なにも知りませんよ、という顔をするが冷や汗かきまくりだ。
これは絶対知っていたな。だから逃げているのだ。
『あいつは勘が鋭いからな、紗々来がいると気づいてるんじゃないか』
「そうかな……体が違うから顔が違うし、会ってすらいないけど」
『中身はそのままだろう?』
「だって向こうはだいぶ年上になってるし、恋人とか」
『いないの分かって言ってるだろう。兄にくっついて諜報部にいるくせに』
「……こ、個人情報は調べないし……」
往生際の悪い少女に、さてどこまで逃げ切れるかと考える。
対象が消えたことで爆発した執着心に行き場などなく、大人になった男の中で今も強く強く渦巻いたまま。
荒れた執着心は『魔導書』の魔力に影響を与えかねず、むしろ『魔導書』を欲っしでもしたら国が終わる。
魔王軍に対する以上の警戒を強めて、この部屋の存在は、より厳重に秘匿されるに至った。
――のだが、紗々来がここに来てしまったとなると。
『いつまで持つやらだ』
独り言ちながら、どうしたものかと考える。
早急に魔女と対策をとらねば。
簡単なのは、紗々来が早く捕まればいいのではないか?
紗々来が捕まれば、さすがに『魔導書』を使おうとは思わないだろう。
この国が滅ぶだなんて、私にとっても最大な悲劇になってしまう。
歪みの調査は今でこそ魔術師団の重要な仕事のひとつなのだが、そもそもサーラが最期に歪みに落ちたからこそ、あの男は魔術師団から優秀な者たちを抜擢し、歪みを調べる専門家チームを作りあげたのだ。
歪みから落ちてきた者について、あの男が知らないはずがない。
きっとサーラと紗々来が結びつくのも時間の問題だろう。
紗々来にしても、この国に戻ってきたのは確信犯だと言っていた。
悪い気はしていないはず。
ここまで悩むということは、どうせ今でもあの男が気になっているのだろうし。
全て丸く収まる良い手じゃないか。
頭を抱える少女を見下ろし、私は納得した。
『これが……人身御供』
「それって『魔導書』が嫌いなやつでしょ!?」
『きっと紗々来なら大丈夫だ』
「人のこと言えないくせにーっ!!」