秀吉論3
なぜこんなことを始めたというと、信長、秀吉の時代を『安土桃山時代』と言いますが、桃山とは何だろうというのが、疑問でした。信長の死後(1582)以降、秀吉は多くの城を建てています。
大阪城に伏見城、対大陸戦の拠点名護野城、聚楽第もそうでしょうか。その中で、伏見城は秀吉時代に、2度、そのあと家康によって1度作り直されています。
最初の指月伏見城、築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、2年後の1596年(文禄5年)に完成。慶長伏見地震によって倒壊します。桃山丘陵の麓、巨椋池が広がる湿地帯のすぐ側にある小さな丘で地盤が弱かったのが理由だそうですが、それを公家は知らないことはないでしょう。知っていて黙っていたというのが正解でしょう。
次に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城個々の地名から『桃山時代』なのでしょうか?前身の指月伏見城、木幡山伏見城あわせても、『4年ほどしかいないんです』けどねえ。
今のドラマは大阪城の事ばかりで、聚楽第についてはほとんど触れられず。伏見城も関ヶ原の前哨戦で落とされた城としか認識されていません。
まず秀吉の性格ですが、『上に弱く下に厳しい性格が見えます。』それをカバーするのが弟秀長と、蜂須賀正勝だった気がします。
秀吉が他の大名に大身を与えたのは、気前の良さではなく、『大身を与えないと信用のない彼』について来てくれなかったと見えます。ですが、彼より先に秀長、正勝を失った彼は、暴走し始めます。
実際、小早川も島津も七本槍と言われた脇坂 安治でさえ、戦前に家康側に着きたがっていました。ですが伏見城を守る鳥居元忠が、全て話を断り討ち死にしています。
元忠が生き残れば、長期戦になり、損得でついていた武将たち、東北、九州で動いていた、武将たちによって、政局は変わっていたでしょう。
最後に太閤記で出ていた、母が願掛けをした『日吉神社』は元々は『日枝神社』でした。祖先が、近江出身ならわざわざ日枝神社に言った理由もわかりますし、信長の妹市の方が、秀吉を嫌った理由も浅井の庶家の出身でありながら、浅井を滅ぼしたのだから当然でしょうね。