秀吉論2
次に蜂須賀正勝についてです。蜂須賀正勝大永6年(1526年) - 天正14年5月22日(1586年7月8日)羽柴秀吉との出会いも、秀吉と矢矧川の橋(矢作橋)で出会った逸話が特に有名であるが、室町期の紀行文を見ても矢矧川には橋がなかったこと、渡し船が用いられていたことで嘘であるとされている。(橋での出会いは)寛政9年(1797年)に刊行され始めた同作由来の話であるとして、その著者の「竹内確斎の創作」としており、一説では、秀吉が織田信長に仕える以前に正勝に仕えていたともいわれている。
秀吉の謀臣としては、『通常ならば先任の正勝が両名の上位に立つはず』であるが、『正勝は黙って立案した作戦の実行にあたっている』。
永禄12年(1569年)5月、二条城が火災に見舞われた際には速やかに鎮火したので、『足利義昭は正勝に桐の紋の入った羽織を褒美として与え、家紋としての使用を許した。』後年、秀吉も桐の紋(太閤桐)を用いることが許されるので、これを憚って(正勝の死後の)蜂須賀家では柏紋(抱き柏紋)に改めている。
この理由は彼の父の経歴で分かります。蜂須賀 正利は、戦国時代の武将。尾張国に力を持つ国人領主であった。蜂須賀正成の次男、子供に正勝大永6年(1526年) - 天正14年5月22日(1586年7月8日)蜂須賀氏は斯波氏の支流として清和源氏の末裔を称し、尾張守護の斯波義重に従って尾張国に入り、海東郡蜂須賀村(現在のあま市)を代々領した。『蜂須賀家記』では初めは濱姓を名乗り、次に斎藤姓を、蜂須賀村に二百貫の知行を得て、蜂須賀姓にしたとある。
斯波氏の凋落後は、正利の家族は美濃国の戦国大名斎藤道三に従った。小和田哲男氏は『豊臣秀吉』で、豊臣秀吉の父木下弥右衛門は正利に仕えたとし、その縁で秀吉は少年時代に正利の子である正勝に仕えたという。『太閤記』で少年時代の秀吉が「小六おじさん」と呼ぶ人物は、定説とされた正勝ではなく正利のことを指す、と小和田氏は主張しています。
小和田哲男氏は最近の方は知らないでしょうが20年ほど前までは日本の歴史研究の大家の一人でした。私も以前は彼の監修した本をよく読んだ経験があります。
では竹中半兵衛はどうでしょう?竹中 重治半兵衛の活躍は江戸時代の軍記物などによって誇張された部分が多く、実際はさほどの活躍もせずに死亡したようだ。
これは、なかなか手厳しいですね。実際の活躍は実子の書いた『豊鑑』や脚色された『太閤記』がほとんどですから、虚飾を除くとこうなります。