秀吉論1
豊臣秀吉を知っていますか?
普通、このようなことを言えば、外国人か歴史を知らない人物と思われますが、あれの記録は死後、江戸時代に書かれたものが多く、それも脚色されたものが多いのです。
実際、彼の名前が出るのは、信長の美濃攻略中の手紙、そして信長上洛後に、永禄11年(1568年)10月京都奉行を命じ、京都の治安維持、民政 等を差配させる。「明智光秀」「佐久間信盛」「丹羽長秀」 「村井貞勝」「明院良政」「木下藤吉郎」の6名というのが、正しいでしょう。
秀吉の父母は『木下 弥右衛門』近江浅井氏の分派尾張浅井氏の一流で、浅井重政の次男氏政の末裔、木下国吉に始まる木下氏の当主。木下昌高の弟木下吉高の子。伯父と同じく中村弥助を称した。諱は昌吉。下吉高は織田達勝に仕えていたと、地元に伝わる伝承では広大な田地を有していたと伝わる。関兼員の娘なかと結婚し日吉丸(秀吉との諱は六角義秀よりの拝領、それ以前の諱は「信高」が伝わる)秀吉が7歳の時に没する。その後なかは三河の水野為春の子で織田信秀の同朋衆竹阿弥(水野氏、昌盛)と再婚
竹阿弥(ちくあみ、生没年未詳)は戦国時代の武士。父は三河国にいた水野氏の庶流水野為春。姓は水野、諱は昌盛。なか(大政所)の後夫で、その間に小一郎(のちの豊臣秀長)、娘の末津、智(日秀院)と藤吉郎元吉(のちの豊臣秀吉)姉弟は、継子(義理の息子)竹阿弥の晩年の詳細は不明…というのが豊臣家の伝承とされる。
中々良い感じで記録が出てきました。出てこないからは検索中に何かが邪魔しているようですね。
秀吉本人ではなく、周りの人間から類推してみましょう。
まずは弟の秀長です。兄の天下統一に主に内政と政権内の調整役としての功績が大きく、高位でもおごり高ぶらない誠実な人柄が諸将の信頼を集めていました。天正13年(1585)の四国平定では総大将として四国を平定【医学天正記】によるとヒ素による暗殺説あり。秀吉、三成、家康などの説あり、千利休と徳川家康が秀長の死後二日後にあっている。秀長の死後1月後に千利休も切腹している。利休の死後家康が、利休の家族の助命に動いているが、何故か、(秀吉の)利休切腹命令に対しては「利休の助命嘆願を拒否」しています。
ここで出ている【医学天正記】とは、曲直瀬玄朔(2代道三)が1576年(天正4)から1606年(慶長11)にわたるみずからの診療記録を整理したもの。1607年成立。2巻。〈中風〉より〈麻疹〉に至る60の病名に分類され、患者の実名・年齢・症状、診療の日付と処方例、1607年成立。2巻。〈中風〉より〈麻疹〉に至る60の病名に分類され、患者の実名・年齢・症状,診療の日付と処方例、玄朔の病気に対する考え方、当時の人々がどのような病気にかかっていたかも知ることができる。そういう患者の症状や、その経過について書かれたものです。