事件5
七.[ルル]
一生懸命信じようとしてくれた。
アオイはそう思うことにしたが、それは思うことにした云々ではなく、それ以外なかった。
彼は女性の心情に疎い。疎いと言うよりもほぼ解っていない。何しろキスを断られたら、それだけで脈がないと諦めてしまう男。しかも解っていない自覚がない。
今朝のこと。
リリナネは自分の部屋で、独り膝を抱えて考え込んでいた。痴漢など普通なら気にも止めない。しかし好意を抱いている相手が実は痴漢をするような奴だった、となると話は別。ただでさえ、自分よりもずっと年下の男の子にときめいてしまったことを気恥ずかしく感じていた。悩みは深く複雑だった。
あいつはそんな奴じゃない―。しかし本人に記憶がないのだから、ひょとしたら何処かの町を追放された犯罪者かも知れない。いくら綺麗な顔をしていても、だから善い人とは限らない。
でも、やっぱりあいつはそんな奴じゃない。知らなかったんだ。何しろ記憶がないんだから。私が大声を出したせいで、すっかり痴漢扱いされてしまった。どうしよう―。
頭を悩ませていると朝一番にやって来た。顔を見る勇気はなかった。尻込みしてどうしても扉を開けれないでいると、手紙を置いていった。
中を読んで「やっぱり」と思った。
あの時、大騒ぎになって逃げるように立ち去ったけれど、種が何とか言っていた。これのことだったんだ。もしもこの種を見つけることが出来たら、みんなに誤解だと説明できるじゃないか―、急いで浴堂へ行った。
しかしどれ程捜しても種なんて何処にも無かった。だんだん腹が立ってきた。一睡もしていない苛々と相まって。
まさかこれも嘘なのか、あいつは嘘つきの犯罪者なのか―。浴堂を出るとそこにいた。箒を手に、いつものように涼しい目をして。爆発した。
嘘かどうかはもう問題ではなかった。理由は自分でも分からなかったが、涼しげな目が問題だった。
そして爆発し終わった今、膝を抱えて後悔している。
私は心が狭い……。痴漢くらい……あの歳の男の子なら仕方ないじゃないか……。
そこまで寛大にならなくても彼は痴漢ではない。
●
掃除を済ませたアオイは、ユタとリュウ少年と一緒にイオワニの道場へ行った。
イオワニは道場にいた。彼が来るのを待っていた。目が笑っていた。
「カタジニから聞いた。リリナネの尻を撫で廻したというのは本当か」
「本当なわけありません……」しかし、撫で廻してはいないが触れたのは事実だった。掠めた、が一番正確な表現だが。言い直した。「故意ではありません……」
「そうか」イオワニは愉快そうに笑った。「まあ、許してやれ。リリナネはあの歳でけっこうウブなんだ」
「はい……。どうすれば故意ではないと説明できるでしょか?」
イオワニは笑顔のまま背を向けた。分からないみたいだった。
そりゃそうだよな―。アオイはため息をつき、悄然と肩を落とした。
しかしイオワニは突き放したわけではなかった。やさぐれたおっさん剣士はこう言いたかった。
青いぞ、坊主。故意かどうかは問題じゃない。問題は相手に恥ずかしい思いをさせてしまったことだ、と。俺の背中を見て悟れ、そう思って背を向けた。
しかし。そんな男の美学的事柄が以心伝心で伝わるほどの余裕は、アオイにはなかった。落胆しただけだった。
稽古を終えて廟堂へ戻る道すがら、ユタとリュウ少年はずっと言っていた。
「昨日のうちに気が附いて梅の種を捜しておけば良かったね。どうして気が附かなかったんだろう」しきりに悔やんでいた。
アオイにはもうどうでもいい事だった。種は。見つかりっこないとあきらめていた。
物憂い顔で廟堂の門をくぐろうとした時、後ろから声をかけられた。
「剣士さま」
ふり返ると、綺麗な赤い着物を着た優しそうな面立ちの女の子がいた。歳は彼と同じくらい。肩くらいまで髪を伸ばし、左耳の横に三つ編みを一つ編んでいた。柔らかそうな栗色の髪の毛先が、可愛らしく少しだけはねていた。
「少しお話しがしたいのですが……」頬を染めて言った。
ユタとリュウ少年が顔を見合わせてニッと笑った。
ユタに袖を引っ張られて、「ん? 何だ?」と顔を近づけると、ユタはアオイの耳に口を寄せて小声で言った。
「きっと恋告ですよ」
彼は小声で聞き返した。「鯉こく?」味噌汁が頭に浮かんだ。
「やだなあ、とぼけちゃって。僕とリュウは先に帰ります」にやにや笑いながら門の内側へ消えていった。
アオイは見知らぬ少女と二人取り残された。
「ええっと……、君は?」
「ルル・オシヌミと言います」にっこり笑って答えた。恥ずかしそうに視線が泳いでいた。
「何処かで……」何処かで会った気がした。すぐに思い出した。「あ、昨日の」
「はい……」
女湯の前でリリナネはもういないと教えてくれた少女だった。
「ええっと……、それで、話って……?」もう何となく分かった。いくら何でも雰囲気が雰囲気だった。
「はい……」女の子は消え入りそうな声で言った。真っ赤な顔をうつむかせて。
「あの……、お慕いしています……お付き合いしてください……」
やっぱり―。アオイは弱った。こんな時どうすれば良いのか記憶にない。どう言えば傷付けずに断れるかな……そればかり考えていた。しかしふと気付いた。
これって、おかしいじゃないか?
「君は気にならないの? 昨日の事」痴漢とつきあいたい女の子、そんなのいるわけがない。
「はい」ルルオシヌミは平然と答えた。「だって、アオイさまは無実ですもの……」
にっこり笑って開いた手の平の上には、あの梅の種が乗っていた。




