旅立ち篇16
十一.[この多重宇宙のどこかで]
ソメイヨシノそっくりで、ソメイヨシノより少し細身の花びらが舞っている。木陰。優しい木漏れ日の中。アオイは見送りの人々と一人ずつ握手をした。
村の入り口、石壁の外に村人総出で見送りに来てくれた。既にこれまで幾夜にも渡り壮行会だのお別れ会だの励ます会だの開かれて、言葉を尽くして別れを惜しんでいる。既に交わす言葉は何ひとつないと言って良いくらい。ただ、友人達と握手をして肩をたたき合い、なごり惜しんだ。
「必ず帰ってこい」オニマルは言った。
「もちろんだ。後のことは任せたぞ」村の今後を託した。二人の御子とユタのことを。目を交わすだけで思い伝いあう。
オニマルが下がると研ぎ師のココオリベが前に来て、手にしたキトラをアオイの前につきだし、グッと握りしめて言った。
「必ず帰ってきて、これを受け取れ」
「ああ」
「これはお前のだ。これの使い手はこの世にお前一人だ。ピカピカのまま返してやるから。きっと戻ってこい」
「もちろんだ」
ココと入れ替わりにアオイの前に立ったルルオシヌミは泣きじゃくるばかりで何も言えなかった。
「元気で」アオイが言うと更に泣きじゃくった。優しく肩を叩いてやった。
続いて前に立ったのはリケミチモリ。
リケミチモリはクムラギに住まう。クムラギにてこの村を支援すべく、執政にあたる。が、今日はアオイ出立の日。息子リュウミチモリをともなってこの村まで来ていた。
「アオイセナ殿。実に立派な武者姿。あなたこそは我がクムラギの誇りです」息子を横に従えてアオイの前に立ち、いつもの如くこそばゆいような褒め言葉を言った。
「いえ、俺など……、そんなに褒められては……」
アオイはこそばゆく感じたが、リケの言葉通りのことを皆が感じていた。立派ないでたち。三都一の剣士の名に恥じぬ。
リケに貰った礼服を、裏地を面に着ている。これは本当にリバーシブルだった。降りしきる桜色の花びらが美しい薄紫の絹に映える。
その上に叙任式で貰った胴服を羽織っている。背には勇ましい龍と雷の図柄。贅を尽くした美しい刺繍が若者の武者ぶりを引き立てている。
腰の劍龍冠頭太刀は銀の帯取り金物鈍く光り、美しい毛皮の尻鞘で鞘身包んでいる。毛皮は黄と黒のだんだら模様。劍龍の毛皮。
父親の隣のリュウミチモリは、ニッコリ笑って別れの挨拶をきちんと言って、それから残念そうに附け加えた。「本当は僕もここで暮らしたかったんですけど」
「ユタがクムラギに遊びに行くよ。サラとユウが少し大きくなって一段落ついたら。息抜きさせてやってくれ」
「はい。もちろん。親友ですから」
ミチモリ親子が下がると、ユタがサラハナウラを抱いてアオイの前に立った。前に立っただけで、もう涙ぐんでいた。そんな顔を見せられたら、不覚にもあついものがこみあげた。言葉が出てこない。
サラが言った。不思議そうな顔をして。
「アオイ……? おんも行くの……?」
「うん。そうだ。でも、きっと帰ってくる。少しの間サヨナラするだけだ」
「うん……。さよなな」
「うん」
アオイは右手に持った斬馬刀をユタの前につきだした。リケミチモリに買ってもらい、クムラギ大襲撃の際に活躍した斬馬刀。柄に龍の彫り物がほどこされ、美しい稲穂型の刃持つ手鉾。
「これをやる。俺だと思え」
「はい」
ユタはゴシゴシと袖で目をこすった。抱いていたサラを地面に降ろし、鉾を受け取った。
「必ず。立派に。御子をお護りします」
「うん。お前ならきっとできる。きっと良い兄になれる」
「はい。必ず……、三都一の兄と呼ばれるようにがんばります」
「小さいことを言うな。お前なら世界一の兄になれる」
一瞬吃驚した顔をした少年。あふれ出た涙を拳でこすり「はい」と口を歪めて答えた。「必ず」
「約束しろ」
「はい。世界一の兄になります」
涙あふれる歪んだ目が彼を見上げている。彼も泣いてしまいそうだった。この世界で記憶なく目覚めてから今日まで、ずっと一緒だった。『お客様は異国の方? 何処から来たの?』『暦を憶えてないの?』昨日の事のように感じる。
「ユタ。ありがとう」
ユタはギュッと唇を噛んで下を向いた。首をふった。ポトポトと地面に涙落ちた。
タパが来てユタの頭に優しく手を乗せ、アオイに言った。
「我らこそ礼を言う。あの日感じたとおりの事となった。やはり貴殿は神秘の定めにより、我らを導くため、貴殿も知らず、ここに来られたに違いない。全ての事はアオイセナ殿。貴殿の力なくして成し得なかった。今また、貴殿に大役を託す。本当に礼を言わねばならぬのは我らの方」
「いえ、俺など……」俺という言い方はないと思った。アオイは深々と頭をさげた。
「私の方こそ、本当にお世話になりました」
今、タパは意識せず神秘の定めという言葉を使ったが、神の秘密の定めとは言い得て妙と感じた。自分は定めの駒としてここに運ばれたに過ぎないが、この人は定めの道しるべ、道標としてここに在るのだろう。本人も知らず。
「サラとユウを、ユタをお願いします」
「うむ。後のことは心配ない。アオイ殿。行かれよ。別れを惜しむ気持ちはつきぬ。今ぞ、時。そう思い旅立たれよ」言った初老の巫術師の目にも、涙にじんでいた。
「はい」
アオイは見送りに来てくれた人すべてに向き直り、深々と頭をさげた。立ち去りがたい思い。強く彼を縛る。
足もとに置いていた背嚢を手に取り、左肩にかけた。背嚢の中には旅支度と呪文材料目録。樹に立てかけていた鈴附きの杖を右手に持った。杖の鈴は劍竜などの獣除け。彼の世界の行者の錫杖に似る。トンとひとつ、杖で地を突き。意を決して背を向けた。
途端に漏れる女性達の嗚咽、方々で。友人達の別れの言葉。背中で聞いた。
人々の様子敏感に感じ取り、サラまで泣きだした。別れを予感して怯え。この子は別れを、喪失を知っている。
ラギとなったマナハナウラは、今、俺の背中を、サラに寄り添い見ているのだろうか—。
歩こうとしたが、しかし歩けない。意志に反してまったく足が動かない。足に根が生えたようだった。
こいつは。マジで凄い呪文になるな……。これほど足が動かないとは……。タパの言葉が思い出された。『その歩みの一歩一歩が、成し得た呪文の強さとなる。術者が呪文唱えたとき、灯る光の強さとなる』。
雫、ポトリと顎から落ちた。マズい、泣いているのがバレる、と思った。
右でも左でも良い。まずは一歩踏み出せ。そうすれば自然と反対側の足が出る。そうして進んで行けば良いだけだ。そう自分に言い聞かせ、足踏み出そうとしても微動だにしない。万感の思い、彼を捕らえていた。
『闇の器に光を入れて、我らは生まれくる。アオイセナ殿。今は哀しみ尽きねども、光に戻った仲間達は貴殿の裡にも宿っている筈』タパの言葉、脳裏に蘇る。
リリナネさん、見てくれていますか—。
心の中で呟くと、当たり前のように聞こえた。耳元に、軽く戯けた調子の彼女の声。
小さく答えた。
「うん。一緒に行こう」
行く手、草原の中に細い道。行く手遙か、空の下方に鋭い山の稜線、蜃気楼のように浮かぶ。抜けるように蒼い空に、はぐれ雲一つ。
孤雲、定まれる処無くもとより高峰を愛す。
アオイは一歩踏み出した。途端にわき起こる惜別の声。涙まじりの別れの言葉。女性達の嗚咽、すすり泣き。背中で聞いた。振り返らず右手をあげてサヨナラした。
今、振り返れない。
この多重宇宙のどこかで
アオイセナ篇 完




