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この多重宇宙のどこかで  作者: かべちょろ
旅立ち篇
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旅立ち篇2

二.[喪失]


 温かいお湯につかると、自身の体がどれほど冷え切っていたのか、実感した。あの空間の冷たさは異様だった。気温、肌で感じる温度のことではない。命の温もりが皆無の空間。命と真逆のもので満ちた空間。数時間いただけで体の芯まで凍り付いた。一晩布団にくるまったくらいでは温もらないほど。ゆったりとお湯につかることで、徐々に温もりを取り戻していった。


 が。体は温まっても心は癒されない。


 彼はザブンとお湯の中に沈み込んだ。コポコポという音、耳鳴りのような音、水中に満ちている。

 自然、胎児の格好となる。古代から、生命が原初生物だったころから、聞いていたに違いない水中の音、現実から乖離させてくれた。その音がはじめて、空虚すぎる心に、空っぽで言葉を発しない心に、音を満たした。


 一時ひととき、彼は平穏な心を取り戻した。水中で目を閉じ、音に聞き入った。


 息が続かなくなり顔を出した。呼吸をする。あらためて実感する。戻れないことを。

 時は戻れない。母親の胎内には戻れない。古代の海洋にも戻れない。海で生まれた命が地上にあがり膨大な時の流れの果てに彼は存在し、彼女と出会った。時の流れの中で失われたものは失われたまま。消え去ったものを置き去りに時は流れ続ける。過ちは過ちのまま。後悔は現在するもの。未来も。ずっと、生ある限り後悔し続ける。

 誰一人、彼を責めないだろう。むしろ彼女を助けたのだと慰めるだろう。だが、誰一人、その事を訊かない。たとえ訊かれたとしても、彼はその時のことを言葉にできない。察して慰めてくれたとしても、なんの慰めにもならない。彼は後悔し続ける。


 再びお湯に顔をうずめ、目に滲んだモノを流した。

 あの時彼は霧の奥へ告げた。負けないと。だが。勝ったのはリリスかも知れない。今の彼は全て失っている。


 木枠の格子窓からこぼれる日差しが眩い。さし込む傾き具合を見れば、もう午後。

 いつもとはまるで違う静けさが辛い。人の賑わいで満ちた浴堂とは違う。どころか遠く雑踏の賑わいも聞こえてこない。まるで町全体が喪にふくしているかのよう。アオイはお湯から出た。

 脱衣所で身につけたのは、ここに来てはじめの頃にもらった着物。桃の枝に山鳩の図柄。

 吹き抜けの飲食所へと出た。人一人いない。気をつかってくれていることは百も承知だが、むしろ逆だった。静けさは、静かすぎる心には逆効果。むしろ人であふれてくれていればいい。そして誰も彼にかまってくれなければなおのこと良い。ただ、いてくれるだけで良い。


 アオイは井戸の側に桶が置かれ、飲み物が冷やされていることに気附いた。多分、ルルオシヌミが用意してくれたもの。


 履き物をつっかけて裏庭に降り、桶から一本ジュースを取ると、側にあった栓抜きで栓を抜いて、再び飲食所にあがった。柱にもたれて一口口に含んだ。炭酸がしみた。口の中が火ぶくれだらけだった。

 そういえば今朝の食事でも難儀した。お粥も汁も冷めていたからなんとか食べられた。そもそも食欲なくほとんど口に入らなかった。けれど炭酸は口中にしみた。思わず眉をしかめた。


 頭に浮かんだのは、まるで関係ないこと。今になって気附いた素朴な感想。

 こっちにもソーダあるんだな……。

 昨日までごく当たり前に口にしていたが、記憶が戻った今、あらためて不思議に感じた。これは果物味の炭酸ジュース。綺麗なラベルが瓶に貼られている。

 コーラは見たことないな……。

 黒色の炭酸ジュースは見たことがなかった。

 こっちじゃコーラは売れないだろうな……。慣れれば売れるのかな……。日本でもはじめの頃は、そんな醤油みたいなの飲めるかって、……。何かの映画で見たな……。


 コーラを懐かしく感じた。日本を。陽射しは既に晩秋の色濃い。浴堂の縁側に腰かけ、陽光の中ソーダの瓶片手にもの思いに耽る彼の姿は、傍目には穏やかな時の流れの中にいるように見えた。


 ガタンと下足置き場の方で音がして、ふり返って見ると上がりかまちにアヅハナウラが立っていた。アオイの姿を見ると目を伏せた。目を合わさず黙礼した。穏やかに口の端を上げて笑んでいたが、目を見れば笑っていないことは分かる。目を見なくても、肩に悲痛なものを背負っている。それは互いに同じこと。アオイも黙礼を返した。

 アヅハナウラは湯殿へ向かいかけたが、思い返したように立ち止まり、

「今、少し良いかな?」アオイに訊いた。

「はい……」

 断る理由はなかった。むしろ歓迎した。歓迎と言えば語弊があるだろうか。救われた思いがした、そう表現した方が近い。同じ悲しみを共有している。この地上で、たった二人。


 アヅハナウラはアオイの側まで来て、同じように縁側に腰掛けた。裏庭に目をやって言った。

「君が眠っている間にいくつかのことが決まった。簡単に説明しておこう」


 そう前置きして、今後のことを話した。それは政治堂やツフガの人々の合議で決まったことのようだった。アオイはいちいち納得して聞きながらも、腑におちない思いでいっぱいだった。彼の記憶では、冥界から戻りタパにサラを渡して気を失った。夜半目を覚ました。昨日の午後と今朝の午前、それだけの時間でこれだけのことが話し合われたのか……。


「明日、この廟堂で会議がある。その席で正式に決まる。良いかな?」

「はい。勿論、異存ありませんが……」

 怪訝な顔をしているアオイを見て察しがついたのか、アヅハナウラは微笑んで教えてくれた。

「君は二日間眠っていたのだ」

「え、二日も……」

「うむ」

「それは……。申し訳ありませんでした」人々に大事を任せ一人眠っていたとは申し訳ないと、そう感じたのだが。


 アヅハナウラはそんなアオイを優しく諭した。

「自分を責め、自分一人で背負い込むのは良くない性分だ。それくらいならば、人に責任転嫁できる性格の方がまだ良い」

「いや……、それは」いくらなんでもそれは感心しないと思ったアオイ。それに今の受け答えにたいする返答にしては大袈裟すぎると感じた。が。

「経験による。その人の」その人の過去の経験、それが悲痛な過去なればなるほど、他者に責任転嫁できるくらいの性分の方が良い。アヅは言外にそう言いたかったのだ。


 黙り込み目を伏せたアオイ。アヅは続けた。

「ニシヌタ老婆が君に会いたがっていた」

「ニシヌタ様が……?」

「うむ。病床に伏せっている。延命術を用いていても此度は危ういかも知れぬ。会っても良いと思うのなら、急いだ方が良い」

「そうですか……」


 悪魔の言葉が脳裏に蘇った。『その時貴様は何を呪う? 我らか。運命か。それともはっきり言わなかったニシヌタを恨むか。違うな。アオイセナよ。呪うべきは非力な人間に過ぎぬ貴様自身』


 ニシヌタは知っていた。こうなることを。





「アオイさまの邪魔をしては駄目ですよ、サラハナウラさま」

 女房衆が集まってユウハナウラの世話をしている。サラとユウにあてがわれた部屋。そこへ連れてきてユタは小脇に抱えていた分厚い本をサラの前に置いた。

「さあ、ユタミツキと一緒にご本を読みましょう。リュウミチモリも一緒ですよ」

「ごほん?」

「ええ。こういう本はとっても高いんです。いろんな生き物がたくさん載っています。この世界にはたくさんの生き物が住んでいるのですよ」

 ユタはサラハナウラの前に動物図鑑を広げた。極彩色の図鑑。綺麗な絵がサラの目を惹いた様だった。

「これは帆トカゲといって、遠い森の中に住んでいる獣です」

 意味はちんぷんかんぷんみたいだったが、帆トカゲの綺麗な帆の模様、蝶の羽に似た模様に目を輝かせたサラ。

「綺麗でしょう」ユタはサラをもっと喜ばせようと思ってページをめくった。出てきたのは地味な色の大きな鳥だった。ユタは大きいことを強調した。


「これは太首竜鳥といって、とってもとおっても大きな鳥です」


 不思議そうにユタの顔を見上げたサラ。ユタはどのくらい大きいのか両手を大きく広げて説明した。「人間が三人肩車したくらい大きいのです」

「サラ、ふと……おおきいといさんみたい」

「太首竜鳥はとっても高い山の上に住んでいるので簡単には見れません」

「みえない、やだ」


 ふいに涙があふれたサラの目を見てユタとリュウは慌てた。


「いつかきっと見れますよ、サラハナウラさま」

「そうですとも。大きくなったらきっと」

 口々に慰める優しいお兄ちゃん二人だった。サラは涙を小さな手でこすった。

「おおきくなっら、ら……?」

「ええ。きっと。大きくなったらサラハナウラさまは世界中を冒険できるのですよ。その時はこのユタミツキも一緒です」


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