旅立ち篇1
第五章 旅立ち
一.[帰還]
『既に月が竜頭を越えた。つまり印を結ぶなら龍尾だ。お前は素人か』
『あ……、ありがとうございます……』
『……気にするな』
『お付き合いしてあげたらいいじゃない』
『いえ、そういうわけには……』
『どうして? 他に好きな人がいるの?』
『はい……』
『あら。誰かしら?』
『ええっと……。俺の龍翅の数珠と似てますけど、全然そんな、色違いのお揃いとか、全然そんなつもりじゃないですから、気にしないで下さい。……気に入ってもらえましたか?』
『うん。とっても……。輝赤石が入ってるの?』
『あ、はい』
『何を、お願いしたの……?』
大粒の涙がポロポロと、閉じた瞼から零れ落ちた。眠りの中で、その人がもういないことを思いだして。
深夜、彼は目を覚ました。目を擦り身を起こした。静まり返った廟堂、自分の部屋。時計の針は丸二つ、つまり午前二時を指している。帰ってきたことを思いだし、眠りの中の夢が現実だったことを思い出した。
今も腕にありありと残っている。もがき、暴れる躰を、必死で抱きしめた。今も胸にありありと残っている。その人の温かい血でぐっしょりと濡れた着物の感触。
もう涙にはならなかった。悲痛なため息がこぼれた。寝返りをうった。夜明けまではまだ時間がある。夜明けが遠い。
そのあとはまったく眠れなかった。暗闇の奥を見つめ。眠ろうとして眠れず、しかし精も根も尽き果てた状態、うつらうつらと、眠りと覚醒の狭間を行き来し、あの時のことを思いだし悲痛なため息をもらす、その繰り返し。明け方、ほんのわずかな時間、まどろんだ。
静かに動く人の気配に、浅い眠りはさえぎられた。
「ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
「いや」ユタの声を聞いた時、救われた思いだった。
朝の訪れ。夜の静けさは、耐えられない。
食事を済ませ、マアシナの部屋に行った。考え事をしたくて来たのだが、マアシナの神像を前に座ってみれば、何を考えたものか皆目見当もつかなかった。虚ろな心持て余すばかり。
トタトタと足音がして、顔をのぞかせたのはサラハナウラだった。母親を捜していた。「マナ、は?」彼が手招くと側に来て膝の上に座った。
「ごめんよ」
「マナ、は? ろこにいるの?」まめらない舌で訊かれた。
「側にいるよ。見えなくても」
「みえない、やだ」
「そうだね……」
「かなしそう……」
「え? 俺のこと?」
「うん……。だれ?」
「俺? 俺はアオイ」
「アオイ、も?」
「ん……」
「みえない?」
「うん。そう……」
柔らかい髪に、滲んだ涙をうずめた。でもきっと側にいてくれているから、そう言おうとして嗚咽が漏れそうになり、唇を閉じた。ここにいれば自然思い出す。その人とここで過ごした日々を。交わしたたわいない会話の数々を。
あの時、冥界で確かに感じた感覚、優しく寄り添う感覚、手に触れた感覚、今はもう感じることが出来ない。
ガラッと引き戸が開いた。顔を出したユタとリュウ少年。
「ここにいたのですか、サラハナウラ様」
「いなくなって心配しましたよ」
「さあ、行きましょう。アオイ様の邪魔をしては駄目ですよ」
むしろ慰められていた彼は、別にかまわないよ、そう言おうとした。
ユタは言った。「アオイ様、お風呂の支度が出来ました。ゆっくり入られてください。今日は町の人はいませんから」
「あ……。うん、ありがとう……」気を使ってくれていることは、口調から分かった。リュウ少年も。
誰も彼に訊かない。帰ってこなかった人のことを。
「あーあ、こいつはもう駄目かな」
鞘を割り開いて、ココオリベは呟いた。
アオイのキトラニケを預かり、抜こうとして抜けず、血濡れたまま鞘に入れたと分かった。血が固まりこびりつき抜けなかった。鞘を包む錦の布を裂き、鞘を割り開いて、刀を取り出した。既に刀身にサビ。
刀は研げばいい。けれど鞘は。
「新しい鞘を注文するしかないかな……」
誰の血を吸った鞘か。想像は想像でしかない。当人には訊かない。けれど。
影日干ししてキレイに乾燥させれば大丈夫かも知れない……。紙ヤスリで表面を綺麗に落としてやって……。幸い接着面は綺麗にはがれたし、欠けたトコは埋めてやって––。
帰ってこなかった人がどうなったのか、訊かない。クムラギの人々の暗黙の了解。こうなることは分かりきっていた。むろん、全員無事で帰ってくることを、みな願っていたが。そうではなかった。ならば、帰ってきた者が、帰ってきていない者を殺めて生きのびてきたのだ。
「新しい鞘にしたら文句を言われるだろうな……」
こみあげた熱いモノが、頬を伝い落ち、鞘を濡らした。




