冥界篇35
三十八.[クムラギへ]
叫び続けた。骨も折れんばかりに細い体を抱きしめ。はじめのけぞり、暴れ、そののちガクガクと痙攣したその躰。ずっと強く抱きしめていた。
どれほどの時間が経ったのか分からない。気付けば、その人の躰はぐったりと重くなり、腕の中で力なく垂れていた。
嗚咽と悲鳴で言葉にならない言葉を吐きながら、彼は愛しい人の胸から、血濡れたキトラを抜き取った。「お、おおお、うおおお」ブルブル震える手で、愛しい人の体を、そっと地に横たえた。自分の胴服を脱ぎ、かけてやった。見開いた目を震える指で閉じてやり。血濡れた指のせいで顔についた血を、袖で優しく拭ってやり。
彼は立ち上がった。激昂、抑えきれない悲憤、やり場のない、いや、元凶は霧の奥でほくそ笑み彼を見ている。嘲笑の型に歪んだ空間の裂け目ある。
憤激に身を震わせ吼えた。
「畜生おおおお! 悪魔あああああ! 嗤っているのかあああ!」
仄暗い霧の奥。静かな嘲笑。
「悪魔ああ! 俺は! 人間はっ!」
その瞬間。瞋恚の炎、憎しみの炎、変転した。悲しみ、憎しみ、怒り、燃えさかり渦巻くそれらの炎が、まるで正反対の強い意志へと。「人間は」
「貴様らには負けない……」歯を食いしばり告げた。
そして次の瞬間。
彼がそれを感じたのは奇蹟かも知れない。あるいは冥界故感じることが出来たのかも知れない。しかし逆に、全て単なる気のせいで、彼がそう思いたかっただけなのかも知れない。けれど。
彼は自分の側に優しく寄りそう気配を感じた。
「リリナネさん……?」
答えるかのように手に触れた優しい感触。あの日つないだ手の感触。温もりはないが彼女のもの。彼は信じた。彼女がそこにいることを。顔を横向け、優しく語りかけた。
「ここは寒い。もう嫌だね。帰ろう。人間の世界へ。一緒に……。俺たちが出会った街、クムラギへ……」
そして時は少し戻り。
悪魔に襲われたアヅハナウラ。暗闇の中で独りもがく。まるで感覚がない。五感が消え失せた暗闇の中で、悪魔の声を聞いた。低く、怖ろしく轟く。
「くっ」恐怖した。恐れるな、自分に言い聞かせても無駄。潜在意識の底に存在する、人があがらうことの出来ない根源的恐怖。口を開き彼を飲みこもうとする。怖ろしい声。逃げ場がない。逃れようにも、そこは彼の中であり、本来彼の領域であり、本来他者が踏み込めない処。が、今は彼に居場所がない。
その恐怖と戦いながら、更に、マアシナの御子を自覚なく殺めているのではないか、その事にも怯え、神に祈った。
「加護を—」
その時。暗闇の中に仄かな光が灯った。何かが、悪魔以外の何者かが、これもまた彼の中に入ってきたのだ。
悪魔が怖ろしい声をあげて苦しみはじめた。
悪魔の咆吼響き渡る中、聞こえてきた声は、あのキヴァラギの声だった。
「アヅよ。恐るるな。このために我は遣わされた。我が犠牲を乗り越えて行くがよい。見事マアシナの御子を人間界に連れ帰れ」
真実だったか—。最前、キヴァラギを疑ったことを悔やんだ。私が独りになったことを見て降りられたのか—。
「アヅハナウラよ。この法則を憶えておくがいい。光の霊と闇の霊は相殺する。対峙すれば双方消え去る。自然の摂理」
『ではキヴァラギ様も消え—』彼が思うより早く、キヴァラギは答えた。
「我が犠牲で大事成るならば、この存在が消えたとて本望。アヅハナウラよ。この後は汝がキヴァラギを名乗り、そして死した後は真にラギとなって、人々を導け。我が代わりとなれ。約束せよ」
次の瞬間、満ち満ちた光。全身の細胞の隅々にまで満ちた。光にひたされたその身。一瞬で全てが消え去った。彼を覆っていた闇、断末魔の悪魔の叫び。
五感が戻り、音があふれ、手の感触が蘇り……。くらむ目を押し開いた。今浴びた眩い光でちらついている。それは目で見た光ではなかった。しかし眩かった。
離れたところに立っているサラを見つけた。ユウを抱きかかえ、怯えた顔で不安げにこちらを見ている。
アヅは微笑んで見せた。
「もう、心配ない……」
ヨタヨタと歩いてくるサラに歩み寄り、しゃがんで小さな体を抱き寄せた。
「えらかったな」小さな頭を撫でてやり、その腕からユウを抱き取った。
二人を抱き、目を閉じた。自分の中で散った光の霊に誓った。
『必ずや。これより以後、いつ如何なる時も、この命は我がものにあらず。この二人を護るために、定めのために、捧げることを—。そしてこの命尽きた後も—』
サラが顔を上げた。その時にはアヅの耳にも聞こえていた。駆けてくる一つの足音。
霧の中から現れたのは。
「アオイ君。無事だったか」
銀の着物の前を血に染めたアオイセナ。無言。ただ、頷いた。
「私も無事だ。たった今悪魔に憑依されたが、キヴァラギという善霊に救われた」リリナネのことは聞けなかった。いないことが答え。
「だがもう私の石は砕かれている。先を急ごう。もしも私が再び憑依されれば、あとは君に頼む」
「はい」動揺も見せず、静かな声で答えた若き剣士アオイ。「方角は……?」
「うむ」霧の奥を指差し、「大きく間違ってはいないと思うが……。ハッキリしない」自信がないことを明かしたアヅ。
アオイはうつむき暫時考え、小さな声でこう呟いた。
「妙音助けたまえ……」
なぜその言葉が出たのか、彼にも分からなかった。ただ、咄嗟にその言葉が口から出た。昔読んだ神霊に関する本の何かのくだりで、その言葉を知っていたのだろう。彼自身もその言葉が何に助力を願うものなのか、既に記憶になかった。ふいに口から出ただけだった。
妙音。言葉通り美しい音の意味でもあるが、弁財天をこう呼ぶ。
訝しげに眉を寄せたアヅ。が、アオイは何かに気付いて目を閉じ耳をすましている。
「聞こえませんか?」
「いや……、何も……」この若者には、何が聞こえるというのか。アヅハナウラには何も聞こえていなかった。
アオイの耳には届いていた。霧の奥微かに。友が叩く太鼓の音。
召喚の岩の前、かつて森だった場所。大都邑クムラギの北の焼け野原を埋め尽くした人々。目を閉じ、一心に祈っている。蒼天に太鼓の音のみ響き渡る。
突如前方から悲鳴が上がり太鼓の音が止まった。悲鳴をあげたのは召喚の岩を取りかこんでいる人々。後方の人々には理由が分からない。嫌な予感にどよめいた。
腕の筋肉が痙攣を起こしそうになっても、ただひたすら太鼓を叩き続けていたココオリベ。人々の悲鳴に思わずバチを止め、召喚の岩をふり返り、ヴェセプタの光を見た。
光が急激に小さくなっていっていた。岩の前に立つ巫術師タパの顔が険しい。
どよめきに包まれた荒原。
しかし。
収縮した光が人型に収束し、そこに現れたのは二人の男。サラハナウラを抱いたアオイセナと、ユウハナウラを抱いたアヅハナウラ。
悲鳴が歓声に変わった。ココオリベも太鼓を打ち鳴らして人々に教えた。荒原埋め尽くした人々は皆成功を知った。歓声に蒼天が揺らいだ。
憔悴しきった様子で召喚の岩を降りたアオイセナ。腕の中のサラハナウラをタパに渡した。その途端力尽きたように倒れた。友人のオニマルサザキベが咄嗟に支えた。
第四章 冥界篇完




