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この多重宇宙のどこかで  作者: かべちょろ
冥界篇
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冥界篇25

[二十九.マリコラギ隠形法]


 彼は気附いた。

 マリコラギ隠形法の正体は、摩利支天マリシテン隠形法—。


 悪魔について調べる際、中世のファンタジーを排してルーツを求めたのは正解だ。いや、正確に言うならば、中世に附け加えられた事を附け加えられた事として正しく把握することはおそらく正解。リリスを『人類最初の女』とする中世のファンタジーは知っておいて損はない。今、実物を目睫にして、少しでもその要素が見受けられれば、その正体を理解するため加味して考えればよいだけのこと。

 結論から言えばそれは無いばかりか、伝承をまったく裏切る実態。伝承をはるかに上回る能力。

 霊的存在は成長する。進化するというべきか。

 そしてそもそも、大元となった伝承そのものを、どれほど人類が正確に知り得たのか。

 その正体を知るために、何度も召喚が試みられ、様々な呪法が繰り返され、より成功率の高い呪法が編み出され……。

 そこに思い至ったとき、一致する情報が脳裏に浮かび上がった。洋の東西は違ったが。


 マリコラギ隠形法は摩利支天隠形法—。


 時期も一致する。

 摩利支天信仰が爆発的に広まったのは南北朝、室町、戦国時代。武家の守護神として、多くの武将が崇敬した。隠形の神であるため、忍者もまた熱心に崇拝した。

 現代日本の漫画やテレビアニメで、忍者が印を結び呪文を唱えるとドロンと姿が消える、あれの元ネタが摩利支天隠形法である。


 そんな術がある、その噂だけこちらの世界に伝わったのだ。今からおよそ五百年ほど前に。五百年前は、ちょうど戦国時代のはじめ頃だ。無論、アオイはその術も、その術の文言も知っている。


 摩利支天について理解するには、しばし物語を離れ、密教天部の神々について、伝承を紐解き、そのルーツに遡り知る必要がある。


 密教が成立したのは紀元二百年頃。釈迦の生没は不明だが、紀元前五百年説を信じるならば、釈迦の没後七百年経って密教は誕生した。

 当時インドで、仏教は廃れつつあった。新たに起こったヒンドゥー教や、西から入って来たイスラム教におされ。

 民衆の人気を取るため、それらの信者を獲得するため、民衆に人気の神々を、仏教思想に取り込んで、密教は誕生した。それらの神々は釈迦に諭され仏法の守護神となったと説明して。鬼子母神の説話に代表されるように。(鬼子母神はカリテイモとも呼ばれる。ヒンドゥー教の鬼女神カーリーのこと)。


 密教を乱暴に仕分けすれば、如来、諸菩薩、諸明王、そして天部から成り、この天部が、古代よりインドで崇拝されてきた古い神々。弁財天、吉祥天、韋駄天いだてん、大黒天、日本で広く知られる神々の、最後に『天』と附くモノのほぼ全て。


 キリスト教が悪魔と認識しているモノは、その地域で古来崇拝されていた神々。キリスト教は唯一神であるため、ヤハウエ以外の神、他民族が崇拝している神は全て悪魔として認識した。つまり。

 キリスト教は排除し密教は取りこんだのである。(ソロモン七十二霊で有名なバールは古代セム人の豊穣の神である。アスタロトのルーツを辿ればバビロニアのイシュタル、ギリシャのアフロディーテに辿り着く。つまり、西洋で悪魔と呼ばれる存在は、東洋で神と崇拝される存在を含んでいるのである。逆に、西洋で悪魔と呼ばれておかしくない存在を、東洋の『天』は含んでいるのである)


 日本に仏教が伝来したのは紀元六百年。奈良、平安の頃には支配者層に重用されるにとどまったが、鎌倉期に一気に民衆に広まり、仏教は極めて日本的なモノへと変貌する。


 特に天部の神々は、極めて扱いの危険な神々として、長らく民衆の耳目から隠されていた。民衆だけでなく、密教僧でさえも詳しくなかった事が、当時の書物からうかがい知れる。(平安後期から鎌倉室町期にかけて荼吉尼だきに天を本尊とする真言立川流が爆発的にはびこり、密門(真言密教)の僧誓願房心定せいがんぼうしんじょうが『受法用心集』を著し注意を呼びかけるが、彼は真言宗の僧でありながら荼吉尼天についてほとんど知らなかった。世情を憂いて荼吉尼について詳しく調べ、はじめてその正体が鬼神であることを知るのである)。


 つまり、良心的な学問僧はもとより、民衆の殆ど全てが知ることの無かった天部呪法であるが、その秘所がほころび断片的な知識が漏れ伝えられるようになると、推測や憶測が加わり、日本古来の様々な信仰や民間呪術と結びつき、まったく独自の体系へと発展した。神道との習合はもとより、陰陽道、山岳信仰、北辰信仰、稲荷信仰、etcetc……。それは、極めて日本的な信仰母体と融合した。


 ゆえに日本において、摩利支天を祈念する際、弁財天を祈念する際、はたまた荼吉尼天を祈念する際、呼応する神がインド起源の神とは考えづらい。しかし個々の神々の正体に関する考察はここでは省いて、結論を急ぐ。


 平安時代の書『日本霊異記』に修験道の開祖役憂婆塞えんのうばそく役小角えんのおづぬ)が紹介され、『在俗』の僧であり、孔雀経の呪法を修め、仙術を身につけていたとある。また鬼神を使役したともある。(孔雀王くじゃくわうの呪法を修治しゅぢしてめづらししき験力げんりきを得、以て現に仙とりて天を飛びし縁)

 役小角は修験道の開祖と仰がれているが、日本霊異記にあるのは、こういう類い希な人がいたという記録であり、そこには修験道云々の言葉はない。しかし修験道行者から見れば、もっとも古い、偉大な先達ということであろう。

 それでも、役小角の生きた時代に、既に修験道が萌芽としてあったと知れる。そしてそれは時代が下るにつれ、完成されてゆく。


 修験道とは、日本古来の神道の流れである山岳信仰に、雑密ぞうみつ呪術や密教、道教、陰陽道などが習合され成立した、在俗中心の宗教であり、術者は山岳修行により超自然的な験力げんりき獲得を目指す。


 密教内法にも『摩利支天隠形法』はあるが、忍者が用いていたのは、この、修験道の『摩利支天隠形法』である。密教では護摩法ごまほうを行い省略は許されない(護摩とはホーマの音写であり、火を焚き供物をくべながら、真言を唱える。供物にも細かい決まりがある)。

 修験道でのそれは、簡易。かつ素早く詠唱して簡潔。実戦法である。


 アオイには既知の呪法。稲妻の如くきらめき、瞬時に合致した情報、脳裏に舞い降りた。正直に言えば、摩利支天の本当の正体は知らない。分からない。インド起源の神なのか、それとも日本独自の霊的存在なのか。はたまた普遍的な、世界の何処にでも普遍的に存在するモノに修験道が方法編み出したのか。答えは知らない。

 けれどここは冥界。存在するのならば、呪文唱えれば呼応してくれるはず。山岳修行はしていないが、日々瞑想してきた。それも充分修行と言える。

 応えてくれる可能性は、ある—。


 アオイは空中の悪魔にらみ据え、間合い見切った。呪文詠唱する隙を作らなければならない。再び、回し蹴りで空を切り、ふり抜いた足で強烈に地を蹴り、宙に躍り上がった。リリスを袈裟斬りになで斬り、背を向け降り立った。

 仄暗い霧の中、無残な姿で浮いているリリス。

 アオイは聖杖地に突き立て、刀印を結んだ右手で宙を切り『九字』を唱えた。


 九字は修験道を代表する術である。魔除け、護身法であり、悪魔怨霊降伏呪である。刀印で宙を切りながら一文字ずつ唱える方法と、一文字ずつ諸印契を結び唱える方法とある。

 後者は(流派による違いあるものの)、『臨』で独鈷印、『兵』で大金剛輪印、『闘』で外獅子印、『者』内獅子印、『皆』外縛印―、と結印してゆく方法。しかしこの方法では印を一つずつ結ぶため時間がかかる。多少と言えど、そのわずかな時間の差が命取りとなる場合もある。しかし。修験道は、融通無碍ゆうづうむげ

 刀印とういん結び空中縦横に切りながら一文字ずつ唱える方法があり、これを早九字という。


 アオイは口早に一文字ずつ唱えながら刀印で宙を斬った。「りんびょうとうじゃかいじんれつざいぜん


 その間に復元を終えたリリス。大蛇がアオイめがけて襲い来る。


 アオイは背を向けたまま。続けて摩利支天の印(右手を開いて上向け、握った左拳を乗せる)を結び、摩利支天隠形呪を唱えた。


「オン・アニチマリシエイ・ソワカ」


 無音に近い蛇の威嚇音、後頭部に聴いた。牙を剥き首筋に食らいつかんとしている。ふり返ることもせず、気配だけで見切り、紙一重でかわした。


 失敗したか—。

 応えてくれなかったのか、そもそもマリコラギ隠形法が摩利支天隠形法という推理は間違いだったか、そう思いながらふり返ると。


 空中でリリスは彼を見失い目を泳がせ、蛇はあらぬ処を出鱈目に噛んでいた。


 摩利支天は存在する—! 加護が—、与えられている—!

 クッと漏れそうになる喜びの声を噛み殺した。音は聞こえるかも知れない。彼自身には自分が消えているようには見えない。摩利支天隠形法は、悪霊・悪魔・敵から姿を隠す呪法。つまり、彼が消えているわけではなく、悪魔が彼を見失っているのである。


 フッと空中のリリスが笑った。「何の術を使った? グラカラポロと真逆の術か? やはり貴様はあなどれぬ」


 グラカラポロは聞き覚えがある。それは確か、悪龍誕生の際、タパが召喚した悪魔。タパから真実の名も聞いていた。グラシャラボラス!

 思い出した。彼はその名を知っている。それはソロモン七十二霊の一柱であり、多くの異称(グラキア・ラボラス、カールクリノラースなど)を持ち、その能力のうちに不可視の術もある。


「よかろう。アオイセナよ。我がもとから逃れるが良い。仲間のもとへ帰れ」底知れぬ不気味な笑みを浮かべ、リリスは言った。「貴様の仲間はこの方角にいる」霧の奥を指差した。


 信じて良いのか? アオイは眉をしかめた。しかし根拠はないが、嘘は言ってないように感じた。偽りであったとしても、彼には仲間のいる方角が分からない。騙されたと思って向かっても損はない。


 背を向け静かにその場を離れた。リリスの指差した方角へ向かった。後ろでリリスが笑い、予言めいた呪いの言葉を吐いた。


「その時お前は何を憎む? 我らか。運命か。それともはっきり言わなかったニシヌタを恨むか」高々と笑った。空気が轟と震え風となり、彼の髪を巻きあげた。ふり返ると、霧の中朧にリリスの影が見えた。宙に浮いている。朧な影。はじめに現れたときのように嘲笑が霧を歪め嘲笑の形に霧を裂き。底知れぬ闇をのぞかせている。

「違うな。アオイセナよ。責めるべきは、非力な人間に過ぎぬ貴様自身だ。何の力もない貴様だ。己を呪い責めさいなむがいい。貴様のような英雄気取りの若僧が壊れゆく様を見るのは愉悦の極みよ」


 アオイは足を止めしばし悪魔の言葉の意味を考えたが、分からなかった。振り払うように踵返し、霧の奥へ進んだ。


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