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この多重宇宙のどこかで  作者: かべちょろ
導き篇
10/158

葦原国の剣士4

二.[巫術師]


 ユタミツキ少年に案内されて、黒い板張り廊下を歩いた。軽い眩暈がしていた。少し熱っぽい感じも。額の傷の所為だと思った。


 少年はふり返り「大丈夫?」と訊いた。「ああ」アオイは頷いて軽く笑ってみせた。


「ここだよ」と少年が言って、黒い引き戸を引いた。


 そこはかなり広い板の間だった。祭祀場だと思われた。壁の一方に祭壇がある。上から金色の飾りや珠が垂れさげられ、金色の香炉や燭台が並べられた奥に、神像が立っていた。


 雲の意匠の台座の上に、のたうつ太い蛇を踏みつけて立つ、六手の神像。手前の二本の手を胸の前で合わせ、その後ろの手に二本の短い剣を持ち、残る二本の手を天に掲げている。

 見たことある気もしたが、異質な感じもした。


 その祭壇の前に、五十代と思しき一人の人が座っていた。くすんだ苔色の着物を着て、その上に白茶の道服をはおっていた。穏やかな目をした優しそうな初老の男性だった。


「タパタイラさまだよ」ユタ少年が言った。


 アオイが頭をさげると、タパタイラは毛皮の敷き物をすすめた。アオイは座ろうとして、少し迷った。正座するべきだろうか、と。しかし見るとタパタイラも胡坐をかいていた。安心して楽に座った。


 タパタイラは優しい笑みを浮かべ言った。


「アオイ殿。御加減は如何かな」

「ええ。まあまあなんですが……その、憶えていないことが多くて……」

「うむ。記憶を無くしたと聞いておる。何かと困ることもあろうが、何も心配せずここで養生されると良い」

「ありがとうございます……」


 相手の古めかしい口調に戸惑いながらアオイは頭をさげた。もっとも、古めかしいと感じる自分の感覚に自信はない。本当に古めかしいのか、それともこれが普通なのか。


「さて。フィオラパが貴殿の前に現われたと聞いたが……」

「はい。昨日の夜、眠る前に……」

「フィオラパは、貴殿に何を話した?」

「ええっと、定めが既に始まっている、と。それから、その導きが俺をからめとったとか……」

 タパタイラは眉間に皺を寄せた。

「なんと……」


 相手が驚いた顔をしたことで、アオイはさらに戸惑った。

「あの……。何か不味かったですか?」


 タパタイラは難しい顔で考え込んでいたが、我に返ったように「いや、いや」と答えた。


「不味くはない。どころか逆である。吉報ということかも知れぬ。他には何か話さなかったかね?」

「ええ。その……。ケイ? を預かってる、と。今度それをくれると。それから、移動呪を使えるようにしてやるって」


 タパタイラは目を見開いた。隣にいたユタ少年も吃驚した顔でアオイの顔をのぞきこんだ。


「それ、本当っ?」


 アオイは戸惑いながら頷いた。

「あ、ああ。そうなんだけど。そんなに吃驚することなのか?」

「当たり前じゃない。アオイさまはほんとに何も憶えてないんだね。いい? ケイというのは神霊が人間にくれる宝珠で、魔力を宿しているの。元素魔法が使えるようになるの」

「げん……、魔法……? 魔法って使えたっけ……?」


 少年は呆れ顔をしてみせた。

「魔道師はみんな持ってるんだよ。ケイを。しかもフィオラパは移動呪って言ったんでしょ。移動呪が使える魔道師なんて滅多に居ないんだから。確か、今は誰も使えないんじゃないかな。シュスさまだって使えないんだもの」

「移動呪って何が出来るんだ……?」


 タパタイラが説明してくれた。

「移動呪はツフガの用語でプレ・レレと呼ばれる。プレは呪文、レレとは跳躍の意味。つまり、跳躍呪」

(pule[ppn ]呪文・祈り・まじない)

(lele[ppn ]飛ぶ・跳ねる・飛び回る;(流星のように)空中を飛ぶ;跳躍・攻撃)

[ppn 古代ポリネシア語・pnp 古代中核ポリネシア語・pep 古代東部ポリネシア語]


「跳躍……呪文ですか?」

「左様。術者は、自分や任意の人や物の位置を一瞬で変えることができる」

「え? それって、跳躍というよりも……、それ、テレポーテーションですか?」


「てれぽ……?」

 怪訝な顔をしたタパタイラとユタ少年。


「いや……。何でもない」アオイは口ごもった。そういうのって確かテレポーテーションって言わなかったっけ––? 自問自答したが自信は無かった。


「フィオラパはそのケイを何者から預かったか貴殿に話したかね?」タパタイラに訊かれた。

「いえ。それはなにも……」

「うむ。渡される時に訊いてみると良い。「定め」に関わり、その導きが貴殿に及んでいるのならマアシナ様かも知れぬ」

「マアシ、ナ?」


 隣りからユタ少年が口を挟んだ。神像を指差した。

「あれがマアシナさまだよ」

(maasina [ppn]月)


「へぇ……」

「憶えてないの?」

「うん……。憶えてないみたいだ……」


 タパタイラが説明してくれた。

「マアシナはツフガの言葉で月を意味する。月を司る神とも考えられているが、その神の身がラアテアの光を反射している故、ラアテアの月と呼ばれている」

「ラアテア……?」情けないことにそれもまた憶えていない名だった。

「うむ。ラアテアとはこの宇宙を満たす目に見えない光。万物の裡に宿る存在」

「あ、なるほど……」それってマナみたいなものかな……、そう思ったが同時に、マナって何だったっけ……? とも思った。


「思い出した?」笑いながらユタ少年が口を挟んだ。「じゃあ、ウポコポオは? 憶えてる?」

「うぽぽこ?」


 少年はプッと噴き出した。

「ウポコ・ポオだよ」

(‘upoko[pep] 支配者・指導者)

(poo[ppn ] 闇・夜;神の世界;暗い・暗がりの)


「遠国ではサタンと呼ばれているよ」

「サタン? サタンがいるのか?」

「当たり前じゃないさ。いるに決まってるよ」


 アオイは少なからず眩暈を感じた。


 この人々はそれが実在することを当たり前のように話している。しかし何故自分がそのことにこれほど驚きを感じるのか分からなかった。


 いて当たり前じゃないか……。


「それは万物を闇として支配する神……? 人間が霊的な高みに上ることを妨げる存在……?」

「然様」タパタイラは笑みを含み頷いた。

「なんだ。ちゃんと憶えてるじゃない」ユタ少年が笑顔で言った。

「じゃあルシファーも……? いるのか……?」

「ルシファー? それきっとルシフェルだよ。アオイさまはどこの国のお人だろう? 訛ってるね。ルシフェルも遠国の呼び名で、クムラギの人はノアとかツクツクって呼んでるよ」

(noa[ppn ] 自由;禁忌から放免された・束縛から釈放された)


「ノア……?」それもまたはじめて耳にする名だった。けれど、聞いたことがないという自分の記憶はあてにならない。意味は同じかも知れない。

「それは遠い昔に堕天した光の犠牲神で、宇宙に散らばり人間の内なる個我となっている存在……?」


 タパタイラは小首を傾げ興味深げに言った。


「ふむ。多少意味合いが違うようだが……何故かな……。遠い昔に堕天した光の存在という点は同じ。しかしノアとは宇宙を彷徨う獰猛な光であり、人間の裡に自身の光を送り込んでいる解放の原理神のこと」

「原理……神……?」

「然様。宇宙全体に力を及ぼす神々を原理神という。ノアは解放の原理であり、ウポコ・ポオは闇の原理。名は古くからツフガ達がそう呼んできたもの……」

「あの……」最前から出てくる耳慣れない言葉の意味を訊いた。その言葉も憶えていなかった。

「ツフガって何ですか?」


 タパタイラは頷いて教えてくれた。

「ツフガとは世俗の職業とは厳格に区別された特別職であり、ツフガにはいかなる政治権力も介入できない。ツフガとは魔導師と巫術師ふじゅつしのことを言う」

(tufunga[ppn ] 聖職者・魔術師 tufunga→転訛してtufuga)


「巫術師? 巫祝ふしゆくですか?」その言葉は知っていた。

(巫術は原始的宗教形態であるシャーマニズムであり、巫術師とはシャーマンのこと。巫祝とも呼ばれる。)


 アオイは酷く眩暈がしていた。頭の中が混乱の極みだった。知っている言葉の数々。はじめて耳にする言葉でも名前が違うだけで知っているモノ。それらは存在して当たり前。名が在るのだから。


 でも何で俺はそれが存在することに、こんなに驚いているんだ……? 


「大丈夫? アオイさま。お顔が真っ青だよ」顔をのぞき込んで心配そうにユタ少年が言った。

「うん……、なんだか憶えてないことばかりで、……」


 タパタイラが優しく言った。

「お疲れのご様子。一度、部屋で休まれては如何かな。知りたいことがあれば、その後いくらでもお答えしよう」

「はい……」


 頭をさげて立ち上がろうとしたが足に力が入らなかった。目が廻り、意識が白んだ。そのまま倒れた。


  *  *  *


 目が覚めると、もといた部屋だった。再び布団に寝かされていた。真上にユタ少年の顔があった。心配そうにのぞきこんでいた。目が合うとにっこり笑った。


「良かった。目が覚めたね。急に倒れちゃったんだよ。憶えてる?」

「あ、ああ」笑ってみせたけれど、頭の中は相変わらず霞がかかったようだった。


 少年の隣りにはタパタイラも座っていた。優しい笑みを浮かべて言った。


「アオイ殿。体が回復するまで、先ずはゆっくり休まれることだ。されば心の靄も晴れよう。ただ、少し事情が変わった。貴殿が定めに関係し、ケイを与えられるならば、どうか記憶が戻られてもここに留まり我等に力を貸して欲しい」


 アオイは体を起こして訊いた。


「定めって、なんですか……?」

 フィオラパが言っていた。フィオラパがそう言ったことを話したら、彼らの顔附きが変わった。


 しかし帰って来た答えは多少期待外れだった。


「定めの内容は、我ら人間には明かされておらぬ。その始まりにまつわる話は、また日をあらためてしてあげよう。今日は休まれるが良い。暇つぶしに読む読み物を一冊置いてゆこう。アオイ殿は神霊に興味がある様なので、神霊の位階に関する本を。ひょっとすると記憶が戻る助けになるやも知れぬ」

「ありがとうございます……」


 しかしタパタイラが差し出した本を手にして、アオイは眉をひそめた。


 本は紐で綴じられていた。そこも異質だったが、本当に異質だったのはそこではない。表紙を見て戸惑い、中をパラパラ見て心底弱り果てた。


「どうしたの?」訝しげにユタ少年が訊いた。


 アオイは正直に答えた。泣きたい気分だった。


「文字を憶えてない。字が読めない……」


 渦巻きや丸や三角や四角、それらと点や棒の組み合わせの文字。まったく記憶の中に無かった。


 少年は目を丸くして呆れ顔をしてみせた。

「まったく。アオイさまはしょうがないなぁ。僕が教えてあげるよ」

 言葉と裏腹に嬉しそうな顔だった。


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