第八章 追憶
三十八
医療機器が発する規則正しい電子音と、一定のリズムを刻む人工呼吸器の音。そこに塩野谷洋子は眠っていた。ベッドの脇には、五歳になったばかりの結愛がいた。
洋子の右手を両手で握りしめ、病室から見える水平線に沈む夕日と、眠っている洋子を交互に見ては、ため息をついた。
元気になったら、一緒にこの景色を見てみたい。そんなささやかな夢を描きながら、結愛はいつの間にか、ベッドに顔を伏せ眠っていた。
だから病室のドアがノックされた時は、慌てて飛び起きる羽目になった。
「は、はい」
結愛は母親を起こさないように、そっとドアへと向かい、少しだけドアを開けた。隙間から外を覗きこむと、ドアの前には花を持った四十代くらいの中年の男性が立っていた。
見知らぬ男性に結愛は緊張した。男も結愛を見て、どこか驚いた様子だった。
「君、お名前は?」
「……塩野谷結愛」
「結愛ちゃん?」
少し怯えた表情で結愛は頷いた。
「……そう。あっ、入ってもいいかな? これをお母さんに」
しかし、男性が優しく微笑みながら花束を渡してくれたので、結愛は少し安心して、病室に入れた。
「君はいくつかな?」
「五歳。……おじさん、だれ? ママの友だち?」
「う、うん。僕はママの友だちなんだよ。あの花瓶を使わせてもらっていいかな?」
男がそう言うと、結愛は棚から鋏を取り出してポケットに入れ、花束と花瓶を抱えて病室を出て行こうとした。
「あっ、僕がやるよ」
「ううん、大丈夫。いつもやっているから」
結愛は笑顔で答えると、そのまま病室を出て近くの給湯室に入った。花瓶の水を入れ替え、茎を適当な長さで揃えると花瓶に移した。
落とさないように慎重に花瓶を抱えて病室に戻ると、男はベッドのすぐ脇で立ったまま、どこか悲しむような目で洋子を見ていた。
男が結愛に気付くと、手元の花を見た。
「上手に出来たね」と言って結愛の頭をなでた。
「じゃあね」そう言って男は病室を出て行こうとした。
「あっ、あのう……」
「ん?」男は振り向いて結愛を見た。
「お、お花。ありがとうございました」
「どういたしまして」
男は優しく微笑んで病室を去って行った。ゆっくりと病室のドアが閉められたところで、結愛は目を覚ました。
最初に結愛の目に入ったのは、心配そうに見つめている朱里だった。
「結愛、気が付いたのね。よかったわ。心配したのよ」
「……ここはどこ?」
結愛はゆっくりと上体を起こした。しばらく自分の置かれている状況が理解出来ず、何があったのかを思い出そうとしているようだ。
突然、結愛は強く目を瞑った。鈴子に言われた言葉を思い出したのだ。言い知れない不安に堪えようとしている結愛を、朱里は優しく、そして強く抱きしめた。
「もう大丈夫よ。ここは病院だから。あんな暗い山の中に一人で、恐かったでしょ? いきなり変なこと言われてショックだったのよね。その気持ち、よくわかるわ。私も似たようなものだったから」
不思議そうに見つめる結愛に、朱里は顔を近づけて静かに語った。
「私にはね、お父さんとかお母さんって呼べる人がいないの。まったく記憶にないし、今どこで何をしているのかもわからない」
「え?」結愛は驚いて朱里を見返して言った。
「……寂しくないの?」
朱里はやさしく微笑んだ。
「寂しくないといったら嘘になるかな。でも、もしかしたら止むに止まれない事情があったのかも知れないし。それに私は私。今を精一杯生きていればそれでいいかなって、そう思えるような出会いもあって……まだ結愛には難しいかな?」
「う~ん……」
下を向き考える結愛に、改めて朱里は結愛を正面から見据えた。
「でもね結愛。これだけは覚えておいて。誰だって産まれてくることは選べないの。だけど、生き方は選べるわ。自分の人生なんだから、自分の思うように生きなきゃね。もちろんそれなりの代償……っていうか、努力は必要だけれどね。もう少し大きくなれば、私の言っている意味が分かるようになるから」
結愛は頷くと、堰を切ったように泣き出した。そんな結愛を朱里はもう一度、力いっぱい抱きしめた。
「私が守ってあげるからね」朱里も泣きながらそう呟いた。
結愛の衰弱は思った程でもなく怪我も無かったので、睡眠と点滴だけで回復した。また、朱里の捻挫も入院する程ではなかったので、二人とも昼前までには一通りの検査を終えて、退院することができた。
そして今日は遺言で定められた『発表の日』でもあった。
新人は午前中で仕事を切り上げ、塩野谷家にいた。源次郎や塩野谷家の家族と一緒に、もうすぐ帰ってくる二人を出迎えるためだ。
そして一台のタクシーが玄関先に着いた。付き添いの龍一が先に降り、続いて結愛、最後に朱里が降りてきた。親子三人がこっちを見て笑顔になった。
幸一と敬一はタクシーに駆け寄ると、僅かな手荷物を自主的に受け取った。
塩野谷家の面々からは、以前のような刺々しい雰囲気はもう感じられない。結愛の家出騒動が、結果としてバラバラになっていた家族を一つにしたのだ。
鈴子も、結愛に駆け寄って謝った。結愛は笑顔で返している。
そんな塩野谷家の変化を、事情を知らなかった遠藤は不思議そうな表情で眺めていた。
「それでは皆さん、そろそろお時間ですので、始めましょう」
源次郎がみんなを促して、一同は母屋のリビングへと集まった。
「それでは皆さん、先ずは塩野谷家の代表者である塩野谷幸一さんより答えを頂いておりますので、これから読み上げます。これについて異議はございますかな?」
「異議なし」
「ありませんわ」
「異議なしです」
塩野谷家の全員が笑顔でそう答えた。結愛は朱里と大婆ちゃんの間に座っている。大婆ちゃんは大事そうに、まりを抱えながらにっこりとしている。
「それでは皆さん、発表をいたします」
源次郎は咳払いを一つして、上着の内ポケットから封書を取り出すと、仰々しく皆の前で封書を掲げた。
ハサミを使い封書を切り、中から便箋を取り出した。そして大婆ちゃんの近くまで歩み寄ると、姿勢を正した。
「それでは発表します。私達一同は、あなたは菊子大婆ちゃんで、亡くなったのは松子大婆ちゃんだと考えました」
リビングが静まり返った。皆の視線が大婆ちゃんに集中している。
「それではお婆ちゃん、正解をどうぞ」
源次郎に促され、大婆ちゃんはみんなの前で大事に抱いていた手まりを突きながら歌い始めた。
『うさぎの角は、すいとうと。こちらにこんこん、この子にと。赤い子鬼の子、文交わし。ようよう考え、話を聴くよに、したとさ』
三十九
手まり唄を歌い終えた大婆ちゃんは、まりを大事そうに抱えてにっこりとした。
「弁護士先生に、前もって渡していた手紙にも書いてはあるのですが、今日は私の口から直接言わせて下さいね」
大婆ちゃんは、そう前置きをしてから続けた。
「この唄は、わたしら姉妹で作ったということは、以前にもお話しましたね。そしてこの手まり唄は、最後の言葉だけが一番と二番で違っています。一番の〝待つこと〟という言葉には〝松子〟という名を、二番の〝聞くこと〟には〝菊子〟という名を、それぞれ隠し言葉として入れておいたのです。そして私達は、自分の名前が隠し言葉になっている方だけを歌うように、決めていました。そこまで言えばもうお分かりですね。その通りです。私は塩野谷菊子で、亡くなったのは姉の松子です」
言い当てられたにも拘らず、しばらくの沈黙があった。なぜなら、言い当てられたのは単なる偶然だったからだ。
幸一達は昼前まで話し合っていたが、結局、どっちが亡くなったのか分からなかったのだ。だから亡くなったのは松子大婆ちゃんだと告げることにした。それで外れても誰も文句は言わないと、そう決めていたのだ。
源次郎は二人を見た。
「朱里さんと結愛ちゃんは気が付いていたようだね」
結愛は大きく頷いたが、朱里は首を振った。
「私は手まり唄で知っていたという訳ではありません。大婆ちゃんの靴下を繕っていて気が付きました。菊子大婆ちゃんの方は、右足の人差指が他の指より長いから、靴下もそこだけよく穴があきました」
「なるほど。普段からきちんとお世話をしている証拠ですよ」
源次郎が優しい顔で朱里を見た。こんな表情も出来るのかと、新人は今更ながらに驚いた。
「それを知っていて、どうして黙っていたのですか?」
少し意地の悪い質問が遠藤の口から出た。
「私は大婆ちゃん達がどうして今回、このような相続を考えたのかが知りたかったのです。だからすぐには言いませんでした。どちらかを言い当てること以上に、何かがあると思ったものですから……」
「この相続に何か特別な意味があると?」
源次郎は朱里に尋ねた。
「それはバラバラだった俺達、家族みんなを団結させたかったからだろうな」
幸一は感慨深そうに言うと、小さく何度も頷いた。
「勿論それもあると思います。でも、それ以外にも何か、塩野谷家にとって重要な何かが……いえ、やっぱり私の考え過ぎです。ごめんなさい」
大婆ちゃんが、朱里をやさしく見つめてほほ笑んだ。そんな様子を眺めていた源次郎は、軽い咳払いを一つしてその場を改めた。
「まあ、代表者である幸一さんが正解したということで、これから遺言に従い手続きを進めていきたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
誰も異論などなかった。遠藤もこの結果には納得したようで、仕事に戻りますと言って帰った。
新人と源次郎も、帰る支度をして玄関先まで来た時、朱里が声を掛けてきた。
「あの、もしよろしかったら一緒にお昼でもいかがですか?」
朱里に誘われ新人は、是非とも、と言おうとしたが、それより早く源次郎が断った。
「これからやる事がございますので、私たちは失礼します」
「そうですか、残念ですわ。今度はお時間のある時に、ご招待させて下さいね」
「その時はお言葉に甘えさせて頂きます。おい、新人、行くぞ」
「あ、う、うん。でも今日は、会社休んでもいいって言われているんだよなぁ」
「甘えるんじゃない。昨日、八王子に出張したっきりで、まだ職場に戻ってないんだろ?」
「いや。今朝、職場に顔を出して午前中に少し仕事してきたさ」
「八王子?」
朱里が興味を示した。
「ええ、そうなんですよ。大婆ちゃん達の卒業アルバムを持っている人が、八王子にいることが分かったので、行って来ました」
「アルバム……」
朱里の表情が変わった。
「それって今どこに?」
「持ってますよ。ご覧になりますか? 女性にこう言うのは失礼ですけれど、二人とも美しい方でしたよ」
「過去形にするな。本当に失礼な奴だ」
源次郎に軽く叱られながらも、鞄からアルバムを取り出し、簡単な経緯を話しながら朱里に手渡した。
朱里はアルバムを受け取ると緊張の面持ちで開き、卒業生の顔写真を眺めた。そしてある一点を見て、驚いた表情を一瞬だけ見せた後、そっと目を閉じた。
「ど、どうかしたんですか?」
新人が聞くと、朱里は首を小さく横に振って俯き、涙声で言った。
「い、いえ。本当に綺麗な人だったんだなって……ごめんなさい」
「え? 朱里さん?」
朱里の頬を涙がこぼれ落ちた。戸惑った新人は源次郎を見たが、源次郎もまた困惑していた。とっさに新人は、この場を笑いで納めようとした。
「あ、朱里さん、今過去形になってましたよ。今だって、とてもチャーミングなお婆ちゃんじゃないですか」
朱里は泣きながら頷いた。
「とても貴重な物でしょうから、早く返された方がいいと思います。私の方からも感謝していますと、お伝えください」
「はい、わかりました」
敬礼をして答える新人に、涙を拭った朱里は、微笑み一礼をした。
「私、お昼ご飯の準備始めないと。今日は本当に有難うございました」
朱里の様子が気になったが、新人は源次郎と共に塩野谷家を後にした。
リビングに戻った朱里に、幸一が声を掛けた。
「朱里さん、それと他の皆も提案があるんじゃが聞いてくれないか?」
皆が幸一に注目した。
「どうだろ? 今日から食卓は家族全員で取らないか? 勿論仕事とかで全員が揃わないこともあるかもしれないけれども……。どうだろうか?」
「異議なーし」
真っ先に大声で言ったのは結愛だった。一同はどっと笑った。
「じゃあ支度しますね」
「私もやるわ」
「私にも手伝わせて下さい」
時子と鈴子が申し出た。朱里も笑顔で頷くと、三人でキッチンへと向かった。
四十
「取り敢えず一連の騒動は終わったかな」
「お疲れ様。今回は結構活躍したじゃない?」
「今回ってところが余計だよ」
夜になって、翼は新人のアパートを訪れていた。
いちると昼食をしていた件については、取材の打合せという事で翼は納得した。いちると直接会い、人柄が理解出来たようだ。そして結愛ちゃんの捜索で、懸命な姿の新人を見て、少し見直したのだ。
駿河とディナーを共にした翼だったが、終始新人の事が頭から離れず、その事を駿河に悟られると、食事だけで何事もなく終わったのだ。
「それにしても、色々あったわね」
「全くだよ。おかしな相続から始まって、新聞記者というより探偵みたいな仕事もしたし。でも、結愛ちゃんが家出をしたって聞いた時は、本当に驚いたよ」
「そう言えば知っていたの? 結愛ちゃんの事」
「つい先日、龍一さん本人からDNA鑑定について聞かされたばっかりだったから。だから家出の原因には、すぐに思い当たったよ」
「でも結愛ちゃんのお父さんが誰なのか、結局わからず終いだったわね。家族で一人だけ血の繋が無いなんて……」
「家族にとって血の繋がりは大事なことだけれど、それが全てという訳じゃないよ。血が繋がった親子同士でも殺人は起きるし、血の繋がらない者同士が協力し合って生活している場合もあるからね」
「そうね……」
「だから本当の家族って何だろうって、ずっと考えていた」
「へえ、そうなの? それで?」
「何て言うかな……。今回こんな事があったから言えるのかもしれないけれど、家族って血の繋がりは絶対条件じゃなくて、構成要件の一つにすぎないと思うよ。だから、基本的には一緒にいるけれど、例え一緒にいられない事情があったとしても、お互いに気遣い合えるような、そんな気持ちで繋がっていれば、それが家族のような気がするんだ」
「なーんか大人になったね、あー君」
「茶化すな」
「ふふふ」
「でも、結愛ちゃんは間違いなく、龍一さんと朱里さんの子だよ」
「うん。そうね」
翼はテーフルの上に伏されたままの本を見て、新人が追憶シリーズ最終巻を読んでいる途中だった事に気が付いた。
「もしかして途中だった?」
「ああそうだった。あと少しだった」
「ごめん、いいところ邪魔しちゃった?」
「いや、切りがよかったから大丈夫」
新人に続きを読むように促した。翼はその間どうしようかと部屋を見渡すと、見慣れない本が有ることに気が付いた。
ジョージの切り絵だった。翼は手に取り読みだした。
新人が読み終えて、一通りの感想を互いに交わしたところで、翼は絵本の事を話した。
「これってなんだか不思議な絵本よね?」
「そうなの? どの辺が?」
「んー、何て言うかな。この絵本の作者は切り絵を使って、誰かの人生を重ねようとしているような気がするの」
「誰かの人生を?」
「うん、そんな気がする」
「あっ、そういえばまだ言ってなかった。その絵本の作者、名前は新田洋子になっているけれど、結婚して苗字が変わっているんだ。正しくは塩野谷洋子さん」
「え? 塩野谷って……」
「そう。その人が結愛ちゃんの本当のお母さん。三年前に病気で亡くなっているけれど」
「……」
「どうかした?」
「だとしたらこれ、洋子さん自身かな?」
「何が?」
「この絵本に登場する切り絵よ。この絵本は、切り絵という媒体を借りることで、洋子さんが見届ける事が出来なかった、結愛ちゃんの成長していく様を思い描いているのよ。私の勝手な想像だけど」
「見届ける事が出来なかった結愛ちゃんの成長?」
「うん、なんかそんな気がするわ。だってほら。この切り絵が風に飛ばされることで、冒険が始まるでしょ?」
「うん、そうだよ」
「切り絵を最初に拾ったのは妊婦さんだけど、赤ちゃんが生まれるわ。その次はもうすぐ幼稚園に入園する女の子で、次が小学校に入学する女の子。そしてその次は少し年齢が上がって思春期の女の子。で、その次は結婚を間近に控えた女性。切り絵が出会った人達は、一人の女性の人生と重ねることが出来るでしょ?」
「そう言われてみれば、確かにそうだね」
「六冊目の終わり方がちょっと不自然なのは、何か事情があったのかな? それと、四冊目辺りから、作風も少し変わってきているわね」
「そうなんだよ。四冊目で確かに作風が……あれ? そう言えば翼から借りてた小説も、途中で作風が変わってなかったっけ?」
「ああ、それなら私も疑問に思ったけど、次の話に続く伏線だったらしいわよ」
新人は、切り絵が印刷されている頁を開いて並べた。一冊目はジョージが作ったという切り絵だが、四冊目から六冊目の三冊にあった切り絵には、何か不自然さを感じた。
「どうかした?」
新人は翼の問いに答えず、じっと三冊の絵を見比べていた。そして突然大声で言った。
「見届ける事が出来なかった結愛ちゃんの成長……。それに重なる人生と別の生き方……。そうか、わかったぞ!」
翼は驚いて新人を見た。
「な、何がわかったのよ?」
「明日の葬儀には、間違いなく結愛ちゃんの本当のお父さんが来る」
鎌ヶ谷市にある葬儀場の一室。ひんやりとした室内は厚着をしていても寒い程だ。その部屋の中央には棺が置かれていた。塩野谷松子の亡骸が収められているのだ。棺の小窓を開けた塩野谷菊子は、覗き込みながら語りかけた。
「さてさて、後は明日のお葬式を済ませるだけですよ。一時はどうなるかと思いましたが、結愛の事も塩野谷家の事も、もう大丈夫でしょう。安心して下さいね。私もすぐに逝きますからね。またみんなで集まって、今度は時間を気にすることなく語り合いましょうね。何せ、七十年分も話すことがありますから……」
言葉に詰まった菊子は、顔を覆い静かに泣いた。
四十一
翌日。雲ひとつない晴れ渡った空の下で、塩野谷松子の葬儀が営まれた。
生前二人は、葬儀関係者及び檀家となっている寺の住職に対して『どちらかが亡くなった場合、すぐに名前はわからないだろうが、親族が名を告げるまでの間でも、準備だけは進めておいて欲しい』と頼んでいたことがわかった。
普段の人柄のお陰か、そんな願いでも関係者たちは受け入れ、何一つ滞ることなく今日の葬儀を迎えることが出来た。
近所の人々や太陽の会の関係者、それに個人的に付き合いのあった人達や、会ったことは無いが、親子で姉妹の作った作品のファンだという人まで、実に様々な人達が訪れ、別れを惜しんだ。
その中には、あの喫茶店『憩いのひととき』の初代マスターも、ひ孫に付き添われてやって来ていた。
外門から入ってすぐ左手には弔問者用の受付が設けられ、今は朱里が担当していた。朱里は源次郎と新人の二人に気が付くと、深々と頭を下げた。源次郎達も会釈をし、一言二言ことばを交わしてから記帳した。
ふと新人は、受付横にある張り紙に目をとめた。
『塩野谷姉妹の作業場はこちらです。生前のままですので、見学はご自由にどうぞ』と書かれていたのだ。
新人は朱里に尋ねた。
「大婆ちゃん自身が童話作家だったでしょ。だから二人の仕事場を見学したい、という人もいるかなと思ってね」
「なるほど。僕も後で見学させてもらってもいいですか?」
「どうぞどうぞ。まあここだけの話、本当はドタバタしてて、片付けに手が回らなかった事を、誤魔化しただけなんだけれどね」
おどけて舌を出した朱里だったが、すぐに真顔になった。
「それに、自分の中で区切りを付けなきゃいけない人もいるから……」
新人にもその意味は理解できた。
「そうですよね」
軽く会釈をして母屋へと向かう新人の後ろ姿を、少し意外そうな表情で朱里は見ていた。
喪主の幸一による挨拶で葬儀が始まった。住職による読経が終わると、近しい親族より故人を偲びながらの焼香となった。
源次郎と新人は、親族席の末席に着席していた。新人は自分の焼香の番がまわってくると、一度遺影を見据えてから合掌した。
「大婆ちゃんの考えた通り、塩野谷家は一つになりました。結愛ちゃんが家族を一つに結んだのかもしれませんね。これで塩野谷家はもう大丈夫ですよ」と小さく呟いた。
塩野谷家の母屋では、葬儀に参加した人たちに昼食が振る舞われていた。火葬場から遺骨となって戻ってきた松子大婆ちゃんを前に、各々が昔話に酔しれ、話し声が絶える事のない賑やかな席だった。
その喧騒は、今は誰もいなくなった外門脇の受付近くにまで聞こえていた。その受付近くで躊躇ったように周りを見渡しながら、足早に『離れ』へと向かう一人の男がいた。
離れの中に誰もいない事を確かめた男は、二人の作業部屋に入ると、これまで太陽の会から出版された書籍が収まった棚を順に眺めて、ある本のところで視線を止めた。
それは『ジョージの切り絵』だった。
男はゆっくり絵本を棚から引き出した。表紙を撫でるように触ってから開くと、浸るような悲しい表情で読み始めた。そして男が何頁目かの頁をめくったところで、新人は背後から声をかけた。
「やっぱりあなたが、結愛ちゃんの本当のお父さんだったのですね」
男は本をめくる手を止めたが、振り向くことはしなかった。新人は構わず続けた。
「今あなたが手にしているその絵本。私も全部読ませて頂きました。不思議な話の絵本ですよね?」
男は目線を上げ窓越しに外を眺め、遠い記憶を辿るような目をした。
「切り絵が命を宿して冒険するという、ファンタスティックな話ですからね」
しかし、新人は首を横に振った。
「いえ、僕が不思議だと言ったのは、そういう意味ではありません。その絵本はまるで、誰かに対してメッセージを送っているように思えたから、不思議だと言ったのです」
男の体がピクッとした。しかしまだ振り向く気はないらしい。
「もちろん、あなたの書かれた小説も、全て読ませて頂きました」
その言葉で男はゆっくりと振り向いた。日本のミステリー作家2015大賞を受賞した、高村和人。
「驚きましたよ。小説と絵本という異なる出版物を通して、お互いの近況を知らせたり、悩みを打ち明けたりしていたのですね。意識して二つの作品を読み比べないと分かりませんでしたけれど」
「何の事ですか?」
「では、新田洋子さんの事もご存知ではないと?」
高村は一瞬、苦悶の表情を覗かせた。
「名前くらいは……」
「なら、これはどうでしょうか?」
新人は翼から借りていた追憶シリーズの第三巻を鞄から取り出した。
「新田洋子さんと塩野谷龍一さんがご結婚された後に、あなたはこの追憶シリーズの第三巻を書かれましたよね? 相手を思いやるが故に別れたカップルの話を軸にした作品です。そして洋子さんは、この第三巻が出版された後に、ジョージの切り絵の一冊目を出版しています。それには産まれたばかりの赤ちゃんを登場させています。これは絵本を通じて、結愛ちゃんのことを知らせたのではないでしょうか?」
「ただの偶然ですよ」
完全否定ではない。しかし、高村の表情は読み取れない。
「では追憶シリーズ第四巻はどうでしょうか? この巻は〝もしもあのとき、違う選択をしていたら〟という話ですよね? それに対して、洋子さんは二冊目の絵本で、幼稚園に入園する前の女の子を登場させました。成長していく娘を通して〝もしも〟 という事を考えるよりも〝今を行きましょう〟 と伝えているように思えます」
高村は沈黙したままだった。
「そしてこれ以降、絵本に登場する女性は、少しずつ年齢が上がっていきます。洋子さん自身、結愛ちゃんの成長が楽しみだったのでしょうね……」
新人はここから少し慎重に言葉を選ぶことにした。
「しかし、四冊目の絵本から、少し作風が変わりましたね」
高村の表情が明らかに険しくなた。
「おそらくその頃に洋子さんは、ご自身の病気のことを知ったのですね」
これ以上続けていいのだろうか? 自分はただ、この人を追い込んでいるだけなのではないか? 新人は自問自答した。
しかしすぐに、別の感情が湧いてきた。気付いて貰わないといけない。朱里さんの用意したこの舞台で、本当の父親を知らない結愛ちゃんのためにも。そして実の父親である高村自身のためにも。
新人はゆっくりと語った。
「結愛ちゃんの成長を見届ける事が出来ないと悟った洋子さんは、絵本に結愛ちゃんの将来像を重ね、切り絵の様に見届けたかったのかも知れません。貴方にも、結愛ちゃんの成長を見守っていて欲しいと、そう願ったのかもしれませんね」
高村の表情が、見る見る悲壮感を現してきた。
その姿を見た新人の心を、戸惑いが支配した。これは他人が得意気になって、土足で踏み込んでいいような領域ではない。今自分がやろうとしているのは自己満足に過ぎない。ようやくまとまりかけた塩野谷家にとっても、なんのメリットもない。
「……すみません。僕の思い過ごしでした」
もうこの話題は終わりにしようとしたとき、高村は首を横に振って、堰を切ったように話し始めた。
「最初はちょっとした思い付きだったんです。もし洋子が私の小説を手にしたら――と考え、洋子になら分るだろうという内容で書いてみました。編集者からは、話の流れがおかしいと言われたのですが、続編に続く伏線だからと、そのまま出版してもらいました」
高村はちょっとおどけて見せた。
「でも驚いたのはその後です。今度は洋子が絵本で返事をしたのですから。だからそれ以降、互いの出版物を通して、問いかけたり返事をしたりしていました。まあ返事といっても、一年くらい待つことになりましたけれどね」
高村は一度俯いてから顔を上げると、背を向けて縁側の方に歩み寄り外を眺めた。
「私達は互いの出版物を通して、意思の疎通が出来ていたのだと思っていました。しかしそれは私の都合の良い、身勝手な思い込みでした。だから私は、洋子が病に犯され、もう長くは生きられないと知ったとき、まったく知らなかった自分が許せなかった。自分は彼女の支えになれなかった最低の男だ」
「元気の素だと言っていたそうです」
「え?」
高村は振り返った。
「あなたの書いた小説から、元気をもらっていたようです。どんな困難でも、逃げる事なく正面から受け止めて成長していくヒロインの姿に、勇気付けられたと。洋子さんは結愛ちゃんにそう話していたそうです。今はまだ難しいだろうけど、大人になったら絶対に読んでねと、言われていたそうです」
「洋子が結愛にそんな事を?」
新人は黙って頷いた。高村は力なく下を見た。
「それでも私には、父親を名乗る資格なんてありません。それに龍一君や新しいお母さんは本当にすばらしい人です。今はまだ彼もショックだと思いますが、結愛がどれだけ愛され、大事に育てられているのか、見ていて分りました」
「それでもあなたは父親なんです。だから知っておいてもらいたいんです。洋子さんの叶えられなかったもう一つの未来を」
「洋子の? もう一つの未来?」
「やはり、お気付きになっていませんね」
「何をですか?」
「洋子さんの絵本ですよ」
「絵本?」
「はい」
新人は自分の鞄から、三冊の本を取り出した。
「それは……」
ジョージの切り絵の四冊目から六冊目だった。その中から一冊を手にし、ページをめくるといきなり、その一枚を手で切り破った。
「なっ、何をする気だ」
しかし、新人は別の絵本を手にして、同じように中の1ページを切り破いた。
「やめろ。物書きとして、そんな行為は許さんぞ!」
しかし、新人は高村を無視して、三冊目も同じように1ページだけ破って、ようやく手を止めた。
「これが洋子さんの叶えられなかった、もう一つの未来です」
新人は切り破った三枚を重ねると、テーブルの上で整えてから高村に手渡した。
高村はその意味が分からなかったが、その切り破られ重ねられたページを見て、急に目の色を変えると、外の明かりで透かして見た。
「これは……」
高村が手にした三枚の切り破られたページの正体。それは絵本の絵だけのページを三枚重て透かすと、一枚の絵が現れるというものだった。
浜辺と思われる場所で女の人と女の子が、手を挙げている男性に向かって、駆け寄って行くという、そんな絵だった。
この浜辺は、二人でよくデートをした九十九里浜の海岸に違いない。あの時は二人だったが、この絵には女の子がいる。紛れもなく結愛だ。
「洋子さんは童話の中で、あなたの小説に受け答えするだけではなく、叶わなかったもう一つの未来を切り絵に託していたのですよ。親子三人が一緒に暮らすという、もう一つの未来をね」
「洋子……」
高村は床に膝を付き、声を圧し殺して泣いた。彼も気が付かなかった愛する人の思いが、一気に切り絵から伝わったようだ。
そんな高村に新人は一礼をすると、静かにその場を後にした。
続く