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  作者: ありしょう
7/9

   第七章 家出

      三十四


 同日夕刻の東京都八王子市。

 東京都で初めて中核都市に移行したこの街は、山地・丘陵と盆地の複合扇状地となっている。江戸時代には甲州街道の宿場町として栄え、現在では、周辺を含めると二十以上の大学がある学園都市としての面と、都心に勤める人達のベッドタウンとしての面がある。

 新人は車窓に写るいちるを見ながら、翼の事を考えていた。今こうして二人で八王子に向かっていることは、翼は知らないし、昨夜の電話以来、ラインのやり取りすらない。

 また誰かに目撃されていたら? そんな不安が顔に出たのか、いちるが新人の顔を覗き込んでいた。

「どうかしたの?」

「い、いえ。一体どんな所だろうって考えてました」 

 咄嗟とは言え、あまり良い返しではなかったようだ。いちるも誤解したようで、ちょっと頬を膨らませた。

「ひどーい。もしかして田舎だと思ってたんでしょ?」

「そ、そ、そんな事ないですよ。いい所じゃないですか。僕は好きです」

「べ、別に、無理しなくてもいいわよ」

 ちょっと気まずい雰囲気になったが、視線を外に向けると八王子はもうすぐだった。都心から離れて、緑が多いというイメージを持っていたのは確かだ。しかし、それは誤りだと気付いた。

 JR八王子駅で降りて辺りを見回すと、巨大な駅ビルやその周辺にある有名電気店などがあり、若者が多く集まる活気ある街だとわかった。

 駅前からタクシーに乗り込み、目的地を告げた。いちるはモバイル端末で、別件の仕事をしている。いちるの横顔を盗み見ながら、新人は入社した当時の事を思い出していた。

 三年前の千葉新聞社本社で行われた入社式。この期は新人を含めて十人が採用となったが、その時の式典で議事進行役を行っていたのが、三上いちるだった。

 見た目は地味な印象を受けたが、その手際の良さは新人でもわかった。それ以降、何となく彼女の存在が気になっていた。そして、配属先の社会部で彼女と会ったとき、新人は勝手に運命かなと妄想を膨らせたものだった。

 そんな当時の事を思い出していたら、もうすぐ目的地ですと運転手に言われた。帰宅時間と重なっていたが、大した渋滞に巻き込まれずに済んだようだ。


 閑静な住宅街にある戸建ての住宅。周囲を囲う壁と立派な門構えは、明らかに上流階級の家庭を思わせた。

 ここですよね? 新人は言葉に出さず、いちるを見た。いちるも新人と同じ事を考えていたのか、黙って頷いた。

 タクシーを降り、新人がインターフォンのボタンを押すと、しばらくの間があってから応答があった。名前と用件を話すと、門が自動で開いた。電動で開閉する門を持つ家など、二人は初めてだったので、顔を見合わせて同時に頷くと、新人が先に門をくぐった。

 手入れの行き届いた庭園を横切るように、石畳の上を歩いて玄関前へと着いた。大きな引き戸タイプの玄関は総檜木造りで、重厚感と高級感を惜しむことなく放っていた。

 さらに数分程待つと、引き戸の内側から音がして戸が開かれた。出迎えてくれたのは、右足を引きずった九十五歳になる日野正臣だった。

「お忙しい中、貴重な時間をいただきまして、ありがとうございます」

 新人といちるは、簡単な自己紹介とアルバムが必要な理由を説明し、それに応じてくれた事に感謝した。

「いやいや。わざわざ遠いところ、こっちの都合でこんな時間にさせてしまって、こちらこそ申し訳ない。さあ、どうぞお入り下さい。わしは足が悪いのでもたつきますが、勘弁して下さい」

「とんでもないですよ。お気になさらずご自身のペースで構いませんから」

 奥のリビングへと通された二人は、進められたソファに納まった。

 ダイニングキッチンと一体化した二十畳ほどの広さのリビングは、アンティーク調の家具で統一され落ち着きのある空間だった。そして目の前のテーブルには、既に一冊のアルバムが置かれていた。

「これが昨日お話した、妻の卒業アルバムです」

 昭和十四年度の東京女子高等師範学校卒業アルバム。そのほとんどが時間と共に所在すら分らなくなっていた。だから目の前にあるアルバムは、数少ない貴重な一冊なのだ。


 朱里に依頼された、松子たち姉妹の過去の調査。引き受けたはいいが、新人もまだ駆け出しで、取材のノウハウも知らない。つまり朱里とそれほど差はなかった。

 だが、いちるの協力で、姉妹と同期だったという人の連絡先を聞き出すことができ、こうしてアルバムの所有者に巡り会えた。

 日野は昨年亡くなった奥さんの遺品を整理していて、このアルバムを見付けたそうだ。いちるの電話でその事をすぐに思い出したらしい。

 初めこそ口数の少なかった日野だったが、長年連れ添った伴侶をなくした寂しさからか、それとも新人のような若い世代と話がしたかったのか、一方的に昔話しを語り始めた。

 二人とも立場上、聞き役に徹したほうがいいと判断し、日野の話に合わせて相槌を打った。しかし、余程人恋しかったのか、一通りの昔話を終えるのに二時間近くもかかってしまった。日野は一方的に話をしていたことを詫びた。

「すみませんね。妻を亡くしてから話し相手がいなかったもので、どうでもいい長話をしてしまいました」

「そんなことありませんよ。興味深いお話でした」

「そうですか。あっ、お茶のおかわり用意しますね。ああ、アルバムを見にいらしたんですよね。どうぞ見ていてください」

「有難うございます」

 新人は緊張する手でアルバムを取り、ゆっくりと開いた。最初のページには昭和十四年度の卒業生、三十人の顔写真が五行六列で並んでいた。白黒だが思っていたほど画質は悪くない。

 右上から順に見ていくと、二行目で一組の双子の写真に目が留まった。上下に並んだその顔写真は、同じ人物の顔写真を二枚並べているとしか思えない程そっくりだった。上の写真の名前欄には塩野谷松子、下は塩野谷菊子と書かれていた。

 新人は写真を見つめながら、先日会った大婆ちゃんの事を思い出した。初めて塩野谷家を訪れた日、新人と目が会うとにっこりと笑顔を返してきた大婆ちゃん。そして昨日、塩野谷龍一から相談事があると言われて訪れたときにも、大婆ちゃんと会った。

 新人は率直に、時の流れとは酷だなと思った。

 この写真の塩野谷姉妹と、実際に会った大婆ちゃんとを結び付けてイメージする事が出来なかったからだ。辛うじて目元のあたりが、幸一や啓一にも見て取れるくらいだ。

 そこまで考えて首を振った。誰だって年を取るのだから仕方のないことだ。今はそんなことを考えている場合ではない。このアルバムから二人を見分ける〝手掛かり〟を見付けなければならないのだ。しかし、同じ写真が並んでいるだけでは意味がない。

「やっぱ同級生だった人に直接会って聞かないと駄目かな? 写真だけじゃ見分けられないし」

「諦めるのはまだ早いわよ。昨日も言ったじゃない」

 いちるは新人からアルバムを受け取ると、文集の頁を開いた。そこには『人生の目標』と題された生徒の寄せ書きがあった。

 この時代らしくお堅い題目だったが、東京女子高等師範学校は女性の教職員の養成所だ。だから当然と言えば当然だが、皆の目標は『立派な教師になる』というのがほとんどだった。塩野谷姉妹も『教員になって子供達の明るい来を築き上げたい』と書いてあった。

新しいお茶を運んできた日野に、いちるが尋ねた。

「失礼ですが、亡くなられた奥さんは学生時代の思い出話とか、話されていましたか?」

「ああ、そりゃあるさ」

「それじゃあ、学生時代に同級生だった塩野谷姉妹について、何かお話していませんでしたでしょうか? そっくりな双子の姉妹なのですが」

「塩野谷……そっくりな双子?」

眉間に皺を寄せ考えた後に、思い出したような表情になった。

「ああ、あったあった。そう言えば同級生にそっくりな双子がいたって。そんな話を聞いた事あるよ。みんなよく間違えたって」

「そうですか。もう少し詳しくお聞かせ願えませんか?」

「確か……先生もよく間違えたって言ってたね。だから本人が〝違います。私は誰それですよっ〟て言うと、先生もよく謝っていたって。そんな話をしてたなあ」

「本人の申告だけでしょうか? なにかそれ以外で、双子を見分けるヒントがあったかどうか、そんな話はしていませんでしたか?」

「私が同級生だった訳じゃあないからね」

「ですよねえ」

 しかしわずかな沈黙の後、日野は付け加えた。

「ああ、そう言えば綺麗な双子だったけれど、お転婆な面もあったらしいよ。あまりにもそっくりだったから、時々入れ替わって周りの人たちの反応を楽しんでいたそうですよ。後になってから〝私は誰々でした〟みたいに言っては、周囲を困らせていたとか」

「え? そうなんですか?」

 新人は鎌ヶ谷のお弁当屋『手作り弁当・ありの実』の店主婦人の話を思い出した。

 お互いに入れ替わって周りを困らせる、なんていう悪戯しなかったのかなあ? と言った新人に対して、あの真面目な二人がそんな悪戯をするはずがない、と断言していた。

「どうかしたの?」

 新人は二人に、ありの実の店主婦人の話をした。

「戦争を体験したことで、きっと人生観が変わったのかも」

「私の経験から言わせてもらっても、おそらくそうだと思いますよ」

 日野は実際の戦場で足を負傷した。あの戦争が何もかも変えたのだと、悔しがった。

「そうですよね。でも結局、そこまでして誰にも気付かれなかったと言うことは、つまり見分けるヒントはないって事ですね?」

「おそらくね。まあ、周りを困らせる事もあったようだけれど、いつも学友たちの中心にいて、頼りにされる存在だったとも言ってたかなぁ」

 と、そこで新人の鞄からスターウォーズの曲が流れ出した。

「あっ、すみません。ちょっと失礼します」

 新人が出ると、珍しく慌てた感じの源次郎だった。

「新人。すまないが、ちょっと手を貸せ」

「どうしたんだよ。今俺、八王子なんだけど」

「八王子だと?」

「ああ、そうだよ」

「そうか。実は結愛ちゃんが、家を出たっきり帰って来ない」

「結愛ちゃんが?」

 新人は時計を見た。その時リビングの柱時計が午後九時の時報を告げた。


      三十五


「よかった。今日も断られるんじゃないかと思ってたから、こうして吉岡さんと食事が出来るだなんて、夢のようだ」

「そんな、大げさですよ。駿河先生」

 千葉市内のイタリアンレストランに翼と駿河はいた。

「ここはワインがとても美味しい店だから、遠慮なく飲んでね」

「はぁ……」

「あれ? ワイン好きなんだよね?」

「え?」

「あ、ごめん。うちの病院でワインに詳しい人は誰かなって聞いたら、みんな君の事を言うものだから」

「あっ、そうなんですか。そ、そんなに詳しいという訳じゃないです。ただ好きなだけでして……」

「好きならいいんだ。これはね、1959年物のイタリアはプーリアの甘口ワインなんだ」

「え? それって超レア物じゃないですか?」

「そうなんだよ……なんて偉そうに言うけれど、実を言うと僕も今日、初めて飲むんだ」

「え? そうなんですか? なんか駿河さんて面白い人ですね」

「そ、そうかい。君に喜んでもらえると、ますます嬉しいな」

 そこそこのワイン好きである翼に対して、見栄を張らない正直な駿河の態度は、ワインと共に確実に翼の心に入り込んでいった。

「ここのイタリアンは知り合いが経営していてね、料理の味もバッチリ保障するよ」

「そうなんですか。確かにお料理もおいしいです、って言いたいのですが、私こういう高級レストランって初めてで、緊張しすぎてまだ味のほうが堪能できていません」

「ははは、そうなんだ。実は僕も緊張してる」

「あれ? 先生はここのオーナーと知り合いで、よく知ってるって言いませんでした?」

「僕が緊張しているのは、目の前に君がいるからなんだよ」

「ま、また。お上手ですね」

 さり気無くかわしたつもりだったが、翼の鼓動早くなっていた。

「でもそろそろ慣れてきたんじゃないかな。メインディッシュは堪能していってよ」

「はい」


      三十六


 塩野谷家総出による結愛の捜索が始まった。しかし、自宅周辺や立ち寄りそうな同級生の家などに電話をかけても見付からず、一時間ほどで警察へ捜索願が出された。

 警察に事情を訊かれた啓一と鈴子には、かなりの注意があったようだ。事情聴取後の二人が、げっそりとしていた事がそれを物語っていた。

 さらに、結愛の通っていた小学校のPTAや地元の消防団から、参加出来そうな人が数十人集まり、自宅周辺から市街地を中心に捜索が始まった。

 新人と共に八王子で事態を知ったいちるは、人を探すなら数は一人でも多い方がいいからと、一緒に鎌ヶ谷までやって来た。

 鎌ヶ谷市中沢一丁目の集会場。時刻は夜の十一時を過ぎた頃、数十人もの人達が集まっていた中で、新人は源次郎の姿を見付けた。

「爺ちゃん、結愛ちゃんは見付かったの?」

「おお、新人、やっと来た―― そちらは?」

「同じ職場の三上いちる先輩。こっちは僕の祖父の周防源次郎。一応弁護士」

一応は余計だと言ってから、二人は互いに簡単な挨拶を済ませた。

「駅周辺や立ち寄りそうな場所は既に隈無く捜索したが、まだ見付からん」

 新人は周囲を気にしながら訊いた。

「まさか、例のDNA鑑定が関係しているの?」

 源次郎は軽く頷くと、付け足した。

「だが龍一君ではない。他にもDNA鑑定を勝手にされていたようだ」

「それじゃあ結愛ちゃんは本当に……。で、結愛ちゃんはその事も?」

 源次郎は深く頷いた。新人は込み上げる怒りを辛うじて押さえた。

「一体誰が?」

 しかし、今はそんなことより結愛ちゃんの安否の方が大事だ。

「他には何の目撃情報もないの?」

「ない。だから残りはあの裏山って事になった」

「裏山って……」

「ちょうど今から捜索隊を編成するところだ。わしみたいな年寄だと、かえって足手まといにしかならん。だから頼む」

「ああ。わかった」

 既に三、四人のグループが十組程編成されていた。消防団の団長が指揮を取っている。

「ここ最近、あの山の付近で野犬の群れが目撃されています。近くの養鶏場でも野犬と思われる被害が出ているから、くれぐれも気を付けて下さい」

「マジかよ……もし野良犬の群れが結愛ちゃんを襲いでもしたら」

 そのとき、急に辺りがざわつき始めた。

「え? もう誰か入っただと?」

 消防団員の動きが急に慌ただしくなった。既に誰かが単独で山へ入ったらしい。

「そう言えば、さっきから朱里さんの姿が見当たらないな。もしかして彼女か?」

 源次郎が不安そうな顔になった。

「そうなの? いつからいないの?」

「いや、分からん。来た時はいたんだが……」

「朱里さんって、こないだの人でしょ?」

 いちるを見て新人は頷いた。

「とにかくすぐに探し出すぞ」団長の掛け声と共に一斉に山へと入っていった。


     三十七


 四十人程の捜索隊だったので、発見は時間の問題と思われたが、予想に反して捜索は難航した。高さは然程でもないが、かなりの広さを有している上に足元が悪く、なかなか先に進めないのだ。

 そんな場所に八歳の女の子が本当にいるのだろうか? 新人は疑問に思ったが、話によれば、結愛ちゃんかどうかは別として、最近までこの山は、近所の子供達の遊び場になっていたようだった。

 外で遊ぶなんて今時の子供達にしては珍しいが、奥にまで入らなければさほど危険でもないらしい。

 しかし、それも最近までの話で、今ではこの山で遊ぶこと自体、学校から禁止されている。何故なら、この山で遊んでいた小学生が足を滑らせ落下し大怪我をする、という事故が起きたためだった。

 たしかに初めのうちは、何てことのない山道だったが、少し分け入ると急に足場が悪くなった。

 そんな山中を新人は捜索隊と共に入り、一時間程が経って日付が変わった頃だった。聞きなれたスターウォーズの曲が流れた。足場の良いところで立ち止まり、顔の汗を拭きながらスマホを取り出した。

 ぎりぎり圏内である事を示す一本のアンテナが表示され、翼の名前が着信欄にあった。

「もしもし、あたしだけど……」

 まだお互いに昨日の事を引きずっている。

「おお、ど、どうかした?」

「昨日はちょっと言い過ぎたかなって思ったから……」

 あれから翼はずっと考えていたらしい。しかし自分はどうだったか。

「もしかして寝てた?」

「いや、実は今――」

 簡単に事情を説明した。話を聞いて驚いた翼は深夜にも拘わらず、結愛捜索隊の連絡場所である集会場にタクシーで乗り付けて、源次郎と合流した。

「お爺ちゃん、あー君から聞きました。結愛ちゃんって子が家を出ちゃって、まだ帰ってないんですって?」

「おお、翼ちゃんか。こんな時間なのにわざわざ来てくれたのか」

「私も探します。この先の山ですか?」

「いやいや、気持ちは嬉しいがそれはダメだ」

「どうしてですか?」

「それほど高くない山だけど、真っ暗で道らしい道がない上に、野犬も目撃されてる。それに、その格好で入れるような山じゃないよ」

 翼は遅番の勤務が明けた後、駿河と食事をしてから帰宅した。帰宅してすぐに新人に電話をして事情を知り、そのまま駆けつけたのだ。服装はマキシマム丈のワンピースに、踵が高めのパンプスという格好だった。

「しまった……」

 翼は後悔したが、源次郎は優しく言った。

「捜索の方は男達に任せておこう。翼ちゃんは結愛ちゃんが見付かったときに、健康状態を確認してもらえないだろうか? 今ここには医療関係者が一人もいないんだよ」

「わかりました」

 翼はすぐに集会場の中を見て回り、発見後にどう対処するべきかを、何パターンかイメージした。

 その頃新人は、小型のペンライトの明かりを頼りに、暗闇の中を進んでいた。

 新人の捜索隊は四人一組の構成だったが、他の三人もこの山に不慣れで、何処をどう進んでいいのか分からず、進展もかなり遅かった。更にこのあと、雨が降る可能性が高いらしく、それが余計に新人を焦らせた。

「結愛ちゃーん」

 大声で叫んだが返事はない。そして道なき道をわけ入って行くうちに、新人自身も班からはぐれてしまった。しかし新人は、躊躇わずに更に奥へと進んだ。新人の肩に水滴が落ちてきた。雨が降り始めたのだ。

「畜生!」

 気温も下がってきた。結愛ちゃんはどこかで雨宿りでも出来ているのだろうか? そうでなければ雨に濡れて体温が奪われ、命の危険にさらされる可能性も有る。

「結愛ちゃーん、いたら返事をしてー。もう誰も君を傷つけたりしないから。もう大丈夫だからー」

 声が擦れてきても、構わずに叫び続けた。

 結愛ちゃんがどういう形で、血の繋がりがないという事実を突き付けられたのかは分からないが、知ってしまった以上、どう受け止めたのだろうか?

 新人は幼少期に両親を亡くし、祖父の源次郎に育てられてきた。そして源次郎は精一杯の愛情を注いでくれた。だから両親がいないということを、余り寂しいとは感じなかった。

 いや、正直に言うと少しはあった。同級生が家族旅行の話をしたときなどだ。

 でも、寂しい思いを抱いていた事を、源二郎には話さなかった。周防家はこういう家族なんだと自分に言い聞かせるようにしてきた。源次郎のおかげで、そう思うことが出来たというのが正しいのかもしれない。源次郎なりの愛情で守られていたのだ。

 だが結愛ちゃんの場合は違う。まったく血の繋がりがないという事実を、守ってもらえるはずの家族から突き付けられたのだ。

 だからもう、誰にも守ってもらえないと感じてしまったのではないか? そんな現実をまだ八歳の小さな心で、どう受け止めたのか。考えただけで胸が張り裂けそうになった。

 そんな事を考えていたら、新人はいつの間にか山頂に辿り着いていた。

 辺りに人影はない。まだ捜索隊も着いていないようだ。その頃になって雨が本格的に降りだし、霧も出てきた。このままだと、捜索自体が打ち切られる可能性もある。

 そう思ったとき、新人の耳に雨音に紛れて、かすかな人の声らしきものが聞こえた。

「……結愛ちゃん?」

 少しずつ強くなる雨音に、かき消されそうな微かな声。辺りは霧で視界が悪い。新人は、声のする方へと慎重に進んで行った。

「あっ」

 ぬかるみに足を取られ、そのまま二、三メートルほど斜面を滑り落ちてしまった。

「痛っ……」

 泥だらけの体を起こした。体の痛み具合から大した怪我は無いようだが、膝だけ強い痛みを感じた。それでも動くことを確認すると、新人は滑り落ちた斜面を何とかよじ登り、そして再び大声で叫んだ。

「結愛ちゃーん、いたら返事してー」

「……」

 また微かな声が聞こえた。間違いなく近くにいる。しかしペンライトを照らしても、霧が邪魔をして視界は当てに出来ない。

 足元に注意しながら、ゆっくりと声がした方向へと歩みを進めた。そして、霧の中で結愛を抱いている朱里の姿を見付けた。

「結愛ちゃん、朱里さんも、無事ですか?」

 急いで二人に駆け寄った。結愛は朱里の上着を羽織っていたが顔が青白い。

「お願い、早く救急車を呼んで」

 新人は慌ててスマホを取り出したが、そこは圏外だった。

「圏外です。僕が背負いますから」

「じゃあ、この子だけでもお願い。私はここで待っているから」

「え?」

「私、足をやっちゃたの。だからこの子だけでも助けて」

 見ると、朱里の右足首が不自然な程腫れていた。更に結愛に自分の上着を羽織らせていたので、朱里のブラウスはびっしょりと濡れ、血の気が失せたように真っ青な顔だった。

「一緒に行きましょう」

 新人は、衰弱してぐったりとした結愛を背負うと、朱里には肩を貸して、来た道を戻った。さっき電波が入った場所へ移動することにしたのだ。

 来た道を十数分程歩くと、さっき翼と話をした場所に出た。そこでGPS機能を使い、現在地を確認してから救援を求めると、すぐに数人の消防団員が駆け付けてくれた。

 新人に背負われた結愛達が集会場に戻ってきたのは、深夜の二時を過ぎた頃だった。

「新人君、結愛ちゃんと朱里さん――」

「あー君、結愛ちゃんとお母さん――」

 二人を連れ帰った新人は、目の前のツーショットに一瞬、動きが止まった。

 集会場前の人だかりの中から、別々に新人達に歩み寄ったいちると翼。お互い言葉が途中で止まり、互いを見た。

 いちると翼の初対面だった。

 しかし、すぐに二人とも我に帰った。翼は結愛と朱里の様子を見て、直ぐに集会場の奥の部屋に連れて行くよう、新人に促した。

「私も手伝うわ。結愛ちゃん、ぐったりいているけど大丈夫なの?」

 いちるも結愛を気遣いながら、翼と二人で朱里を両脇から支えた。

「う、うん、大丈夫だと思う。それより翼、救急車が来るまで、結愛ちゃんと結愛ちゃんのお母さんを頼む」

 いちるは、新人が翼を呼び捨てにしたことに表情を僅かに曇らせたが、すぐに気を取り直すと、翼と一緒に朱里を集会場奥の和室へ連れて行った。

 翼は二人を寝かせると、容態のチェックをはじめた。しかし、聴診器があるわけでもないので、話し掛けて反応を見たり、耳を直接胸に当てて呼吸音を確認するという程度だ。

「結愛ちゃんは呼吸音が大分荒いわね。肺炎になりかけているかも。衰弱も心配ね。すぐに着替えましょうね。お母さんの方は簡単な固定をして、あとはきちんと病院での処置が必要ですね。まずは二人とも着替えないと……」

 翼は朱里の足を触りながら言った。

「お湯はさっき沸かしたから、ぬるま湯にしてタオルと一緒に持ってきて。それと暖房の温度をもう少し上げて」

 翼は新人に言ったつもりだった。だが返事をしたのは新人ではなく、いちるだった。

「ぬるま湯とタオルに暖房ね。わかったわ」

「えっ?」

 翼は一瞬躊躇い新人を見た。新人は結愛にかかりっきりだった。

 いちるはエアコンの温度を上げ、和室の横の給湯室に駆け込み、まだ熱いお湯を洗面器に入れ水を加えると、タオルと一緒に翼の所に持ってきた。

「他にやることは?」いちるが翼に聞いた。

「と、取り合えず、着替えるのを手伝って下さい」

 翼は動揺したまま、今度は新人に向かって言った。

「ほ、ほら、これから着替えるから、男の人は出てって。着替えたら朱里さんの足を応急的に固定するから……」

 一旦新人を追い出すと、翼はいちるが持ってきた白湯にタオルを浸した。熱くもなく温くもない。体を拭くには適温だった。

 この女性は今何が必要なのか、きちんと理解できてると翼は思った。その上で自分の取るべき行動を迷わず選べる女性だ。

 自己紹介はしていないが直感でわかった。以前、あー君に仕事の進捗具合を確認してきた女性。鎌ヶ谷で、あー君と一緒に食事をした女性だ。美人で頭が良い。おそらく後輩の面倒見もいいのだろう。

 そんな嫉妬をしている自分に気が付き、首を横に振った。そんな事を考えている場合ではない。

 いちると一緒に、結愛の濡れた服を脱がした。冷たくなった体に暖かいタオルを当てると、結愛は目を開けた。

「結愛ちゃん、初めまして。今から濡れちゃったお洋服交換しますね」

 翼が優しく言うと、結愛は頷いた。体を拭き着替えを済ませると、そのまま布団に寝かせた。朱里は自分で着替えを済ませていたので、翼が手際良く朱里の捻挫した足を固定したところで、救急車が到着した。

 結愛は担架に乗せられ、朱里は救急隊員に付き添われて、二人が救急車に乗り込もうとしたとき、結愛発見の知らせを聞いた大婆ちゃんが姿を見せた。

 そして担架に横たわる結愛に歩み寄ると、覆い被さるようにして泣き出した。

「ごめんよ、本当にごめんよ。こんなことになるなんて、思いもよらなかったんだよ」

 結愛はうっすらと目を開けると、大婆ちゃんの頭を優しく撫でた。

「早く病院で手当てをしませんと」

 救急隊員に促され、二人は救急車に乗せられた。ハッチが閉じる前、朱里は大婆ちゃんや翼達に言った。

「大婆ちゃん、もう大丈夫ですから。みなさんもありがとうございました。おかげで結愛が助かりました」

「いいえ。とんでもございません」

「大したことは出来ませんでしたから。お大事に」

 朱里が微笑み軽くお辞儀をすると、ハッチが閉じられ、サイレンとともに救急車は去って行った。

 捜索隊に参加した人達が帰る準備をしている中、いちると翼の間には気まずい空気が生じていた。

「あ、あのぅ、まだ自己紹介してなかったわね。私、三上いちると言います。千葉新聞社に勤めてます」

 いちるから翼に話しかけてきた。

「あっ、私の方こそ、し、失礼しました。わ、私は吉岡翼です。看護師をやってます。よろしくお願いします」

 何をよろしくなんだ? と翼は思ったが、いちるは笑顔で答えた。

「こちらこそ、よろしくね。やっぱり看護師さんだったか。手際よかったから」

「いいえ、そんなことないですよ。三上さんも行動が機敏で、何て言うか……、か、格好いい人だなぁって思いました。あっ、さっきはすみませんでした」

「さっき?」

「結愛ちゃん達を集会場に連れて来たあと、タオルを取ってきてみたいな事を言っちゃったでしょ? あれって、あー君……、隣にいた周防君に言ったんですよ。彼は気が付かなかったみたいで……」

「ああ、いいわよそんなこと。それより、彼にこんな可愛くて仕事が出来る看護師の彼女がいただなんて、ちょっとビックリしたわ」

「わ、私なんかまだまだです」

「またまた」

 それ以上の会話を続けるのが難しくなったようで、二人は辺りを見回した。

「何だか空が明るくなってきたわ」

「そ、そうですね。も、もうすぐ夜明けですかね」

 ぎこちない態度のまま、いちるは腕時計を見た。

「さて、私はこれで引き上げようかな。実は取材の帰りだったの」

「そ、そうだったんですか? ああ、それなら周防君も起こさないと」

 いつの間にか新人は、集会場前のベンチで眠っていた。

「ぐっすり寝てるわ。いいわ、彼はこのまま寝かせてあげて。それじゃあ」

「え? 歩いて帰るんですか?」

「駅までよ。近いし、始発に乗れればいいから。じゃあ、お疲れ様」

「お、おつかれさまでした」

 翼はいちるの後ろ姿を見送ったあと、ベンチで寝ている新人の横に座った。

「風邪引くぞ」そう言って、そっと毛布を掛けてあげた。


「始発に乗れればいいから……ね」いちるはそう呟いて、徐々に明るさを増していく空を仰いだ。少し霧がかかった空を仰いだまま、大きくため息をついた。

「彼女いたんだ……」



  続く

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