第六章 亀裂
二十七
「翼。ちょっといい?」
「ん? なに」
「いいからちょっと」
ナースステーションで一人、電子カルテの入力処理に追われていた翼は、篠田純子に声をかけられ、そのまま隅の書類棚の前まで引っ張り込まれた。
「なに? どうしたのよ?」
純子は周りに誰もいないことを確認し、それでも声を抑えた。
「あ、あのさ、ちょっと言いにくい事なんだけど、私見ちゃたんだよね」
「見たって何を?」
「翼の彼氏」
「あー君?」
「そう」
「それがどうかしたの?」
「そのさ、なんか、女の人と一緒だったわ。それもかなりの美人だった」
「え?」
翼は一瞬頭が真っ白になった。あー君が……浮気? まさか……。
「一昨日の昼頃に私ね、彼氏と鎌ヶ谷を車で通ったのね。そして駅前の交差点で信号待ちしていたとき、何気なくすぐ横のファミレスを見たのよ。お腹すいたよねーって感じで。そしたら店内に見たことのある男の人がいて、それが翼の彼氏さんだったの。見間違いじゃないと思うわ。で、一緒に食事をしていたのが、これも見たことない美人さんだったの……って、翼、大丈夫?」
「え? ううん、だ、だいぶ、大丈夫よ。お、一昨日は、たしか取材で鎌ヶ谷に行ってたはずだから。で、でも、一体誰なんだろうね? 美人さんなんて話、き、聞いてないわ、ははは……」
「まあ、黙っているのもなんだから、一応言っとくね。でも私が見たのはそれだけよ。一緒に食事をしていただけ。信号が変わってその場を離れちゃったから。本当よ」
「う、うん。あ、ありがとうね。教えてくれて」
「じゃあね」
「うん」
この日翼は、終始落ち着かないまま、気が付いたら自分のアパートに帰宅していた。
二十八
「やれやれ、弱った。かなり面倒な話になりそうだ」
予想外の展開に、源次郎も頭を抱える羽目になった。
「珍しく弱音じゃん。敏腕弁護士はどこいった?」
新人の意地の悪い問いにも、源次郎は頭を掻きながら話した。
「普通に親子関係の調査なら何回かやったことはある。法的手段を使って取り寄せた書類とサンプルを元に、しかるべく機関に検査を依頼をして……といった手順でな。しかし先に結果が見えてしまっているだろ」
「依頼を受ける意味ないよね。何で引き受けたの?」
「何かの間違だったという可能性もある。少なくとも、依頼者はそう思いたいのだ。いずれにしても再度検査は必要になる」
「間違いの可能性に賭けるわけだ」
「そもそも、素性のわからない毛髪のDNA鑑定など認められていないし、実際に毛髪からDNAを採取するのは、ドラマのように簡単ではない。あの鑑定書が正しいかどうかも疑わしい。だからどこの機関が、どんな方法で検査をしたのかも調べないとならない」
そこで急に源次郎は沈黙をした。
「どうかした?」
「その事で悩んでいる訳じゃないんだ。もし仮にあのDNA鑑定が正しいと仮定して、その事が今のこのタイミングで、龍一君以外の塩野谷家の誰かに知られてみろ。下手すると、この一連の相続自体が、ただじゃ済まなくなる」
「ど、どういうこと?」
しかし、源次郎はそれ以上答えなかった。
「おっと、もうこんな時間だ。俺は職場に戻るよ。爺ちゃんも気を付けて帰ってね」
「おお、悪かったな。忙しいのに」
「いや、いいよ。じゃあ」
何とも言えないモヤモヤとした気持ちを引きずったまま、新人は職場に戻った。時刻は午後六時を過ぎた頃だった。
「思ったより遅かったわね」
職場では、いちるが一人で仕事をしていた。他の人はもう帰ったようだ。気のせいか、いつも以上にいちるの表情が明るく感じられた。
「三上先輩、すみませんでした。編集長は?」
「明日から急な出張が入って、早く帰ったわ」
「出張ですか?」
壁のスケジュール表を見ると、編集長は明日から二日間、東京に出張となっていた。
「全国記者協会の集まりで、協会に加盟している新聞社の編集長クラスが集まって、報道と倫理についてのシンポジウムがあるらしいわ」
「結構大掛かりなシンポジウムになりますね」
「そうね。……それと話し変わるけど、新人君が出ている間に、卒業アルバムの所有者が見つかってアポも取れたけど、どうする?」
新人は、いちるの言っている事の意味を理解するのに、数秒を要した。しかし結果としてその数秒間、いちるの嬉しそうな顔を見つめることが出来た。
目と目が合っていたのを急に恥ずかしく思った二人は、互いに視線を逸らした。
「え? あ、アルバムの所有者が見付かったんですか? 先輩ってすごいですよ」
「そ、そんなこと無いわよ」
いちるは視線を逸らしたまま続けた。
「東京女子高等師範学校って、今の御茶ノ水女子大の前身なのよ。それでたまたま私の知り合いの子に、茶水の卒業生がいたから聞いてみたの。そしたら同窓会があることを教えてもらったの。そしその同窓会に問い合わせたら、当時の卒業アルバムを持っていそうな人を教えてもらえたの。それから順に電話をしたら、見つかったの」
「本当に有難うございます。先輩の協力が無かったら、ここまでこれませんでしたよ。ありがとうございます」
「別にいいわよ、礼だなんて……。そ、それよりどうするの? アポは取れたけど、場所は八王子よ。結構遠いし。新人君、行ったことは?」
「ないです」
「じゃあ、一人で行っても分からないわよね」
「普通に電車で行って、スマホで調べますよ」
いちるは一瞬、恥ずかしそうに目を伏せたが、急に新人の方を見た。
「わ、私が案内しようか?」
いちるの顔がちょっと赤い。新人も鼓動が早くなった。
「え? せ、先輩。詳しいんですか?」
いちるは視線を、自分のパソコンに向けてしまった。
「く、詳しいも何も、私は生まれも育ちも八王子よ」
「そうだったんですか? 知りませんでした」
「そ、それにね、ほら、取材って時々想定外の行動が必要になるから、そういう時は土地勘のある人が一緒の方がよくない?」
いちると一緒に行けるなら、断る理由がある訳ない。むしろ歓迎だ。高鳴る鼓動と逸る気持ちを抑えて、ポーカーフェイスを気取るのに必死だった。
「い、言われてみれば、たしかにそうですね」
「で、でしょ? 明日の午後七時頃なら大丈夫だと先方は言ってるけれど、新人君は?」
「ご心配なく。僕なら何時でも空いていますから」
そう言って新人は、両腕を腰にあてると胸を張った。
「ぷっ、何それ。自慢にならないでしょ」
おかしな緊張感が漂っていた空気は消えて、いちるの笑顔も普段通りに戻った。
「ですよねー」
「じゃあ明日は八王子ね」
「分かりました」
新人は弾む気持ちのまま、明日のことを考えていた。
二十九
家に帰った新人は、追憶シリーズの第九巻を手にしたが、ページを開けずにいた。
寝るにはまだ早いので読書でもしようかと思ったのだが、明日の事を考えると妙に心が浮かれた。これではデート前の高校生だ。
しかし結愛ちゃんの事を思い出すと、いつまでも浮かれた気分ではいられなかった。真偽の程は源次郎が確認するだろうが、もし同じ鑑定結果が出たら……。新人は考えを一度リセットするため、ページを開いた。
この巻では、通り魔事件で夫と娘を亡くしたという女性とヒロインが出会うところから始まった。そしてその女性は、人形師だった夫が作った人形に導かれるようにして、一時的ではあるが死んだはずの夫と娘に会える、というファンタジックな展開となっていた。
新人はこの作品を一気に読んで、いつの間にか涙を流していた。そんな時、スターウォーズのテーマが流れた。相手は翼だった。
「ちょっといいかな? 聞きたい事があるんだけれど」
こんな時間に深刻そうな雰囲気が伝わってきたので、新人は姿勢を正した。
「え? なに? どうかしたの?」
「一昨日さ、鎌ヶ谷に行ったよね?」
「一昨日? ああ、太陽の会に取材に行ったよ。それがどうかしたの?」
「あー君、一人で?」
「そうだよ。それがどうかしたの?」
「じゃあ、一緒に食事をしていた綺麗な人って誰かな?」
「な……」
言葉が詰まって、すぐには出てこなかった。いちるとは後から合流し、昼時だったから一緒にランチをした――。ただそれだけだ。
「な、何を言うんだよ急に。何の事だかさっぱり分からないな」
変な間が空いてしまった。しかも明日も、いちると二人で八王子に出かける。その事を楽しみにしている自分がいる。当然、翼には話していないし、話す状況でもない。
なぜ今になって? いったい誰が? 新人は冷静さを取り戻すように努めた。源次郎だろうかと思ったが、そんな軽はずみな事はしないだろうし、今はそれどころではない筈だ。
「とぼけたって無駄よ。私の友達が一昨日、新鎌ヶ谷駅近くのファミレスで、あー君と知らない美人さんが二人で食事をしているのを目撃したの。下手な嘘を付かないで白状しなさい」
「誰だよ、その友達って?」
あの三人の中の誰かか? 新人の脳裏に三人の顔が浮かんだ。
「それは関係ないでしょ。話を逸らさないで」
あの時は源次郎にも目撃されていたが、新人は気が付かなかった。まさか他にも目撃されていたとは……。
新人は自分が一体どんな表情だったのか、急に気になってきた。そしてそれを見られ、どのように翼に伝わったのか?
こうなったら仕方ない。取材に行っていた事は翼も知っている。たった今思い出したような口調で、取材の帰りに職場の先輩記者と合流し、ファミレスでランチを取りながら打ち合わせをした、と話した。もちろんその後、源次郎と一緒に塩野谷家に行っているから、聞いてもらってもいいと付け加えた。
「ああ、昨日電話をしてきた先輩ね。仲いいのね」
仕事だからだと念を押したが、しばらく沈黙のあと、
「そう」たった一言、それだけ言うと翼は一方的に電話を切った。
翼とはそれなりに長い付き合いだからわかる。普段の些細な事なら、さばさばとしているが、恋愛絡みになるとそうはいかない。こうなると事態の収拾にかなりの時間と労力がかかるのだ。
今日はとにかく色々な事があった一日だと、新人はつくづく思い、深い溜息をついた。
三十
翌日の午前十時頃。塩野谷家に来客を知らせるチャイムが鳴った。
「はーい」
朱里は洗濯物を干す手を止め、ベランダから玄関へと向かったが、珍しく幸一が先に応対していた。
「おはようございます。アンティーク山岡の山岡秀哉と言います。本日は御依頼のありました鑑定に参りました」
「ああ、ご苦労さん。ささ、どうぞ上がってください」
どうやら幸一の客らしい。後ろから朱里が尋ねた。
「鑑定って何のことですか?」
幸一は振り向くと、誇らしげに言った。
「なに、大したことじゃない。家にあるものであまり使わなくなった物は、この際だから骨董品屋さんに引き取ってもらおうかと思ってね。熊のはく製など、本来必要ないからな」
「はぁ……。そうですか」
玄関ホールには、大小様々な箱が置かれていた。来客があると幸一が必ず自慢していた熊のはく製や、大型の壺まである。今朝、玄関の掃除をしたときは間違いなくこのような物は無かった。
そこへ啓一夫妻もやって来た。
「ちょっと待てよ。そんな勝手な事していいのかよ? これだって相続の対象だろ?」
「ここに有るのはいいんだ。全部俺が買った物だからな」
「これ全部か?」
「あ、そうだ。離れを整理していて思ったんだ。俺もお袋を見習って、質素倹約に生きようかなって。だから生活に必要ないような物は、こうして引き取ってもらう。ささ、お前らがいる鑑定士さんが仕事出来ないだろ。ほら、行くぞ」
そう言ってみんなを玄関から引き離しながら、振り向き様に言った。
「それでは鑑定士さん、さっそく始めてください。三、四十分ほどしたら来ますので」
「はあ。で、では早速始めさせて頂きます」
山岡は一人鑑定作業に入った。リビングでは幸一が言い寄られていた。
「一体今度は何を企んでる?」
「人聞きの悪い事を言うな。別に何も企んでなんかいない。さっきも言っただろ。お袋を見習おうと思ったと。お袋が、質素倹約っていつも言っていたのを知ってるだろ?」
「た、確かによくそう言っていたな」
「だろ? お前も今からでも遅くないから、やれることやったらどうだ?」
そう言って幸一はリビングを後にして、自分の書斎に入った。
「どう? 上手くいきそうかしら?」
時子がソファにもたれかかっていた。
「ああ。際どかったが、今のところは予定通りだ。誰にも気付かれていない」
「そう。結構大胆な作戦よね。貴方がこれまで買った物の中に、お母さんの所持品を忍ばせて、一緒に売ってしうなんて」
「こういう事はコソコソとした小細工はいらない。大胆にやった方が成功するんだよ」
「大胆かどうかはともかく、上手くいくといいわね」
やがて四十分程が過ぎた頃、幸一は辺りを警戒して玄関へと向かった。
「ああ、塩野谷さん。たった今、鑑定の方は終了しました」
「ほう、そうか。で、どれくらいになった?」
幸一に言われて山岡は電卓をたたき、表示された数字を幸一に見せた。幸一はその数字を見ると、首を傾げて聞いた。
「桁が間違ってないか?」
「間違いではありません。そこに表示された数字のままです」
「一、十、百、千、万……。全部合わせて五万九千円だと?」
みるみる幸一の顔が赤らんでいく。
「き、貴様、ふ、ふざけているのかっ」
「い、いえ。私は至って真面目に査定させて頂きました」
「こ、この真珠のネックレスはどうなんだ? お袋が冠婚葬祭の時には必ず身に付けていた物だぞ」
「そ、それは真珠じゃなくて模造品です。他にも宝石類が数点ございましたが、全て模造品でした。なので値は付いてません」
「そ、そんな馬鹿な」
騒ぎを聞きつけ、龍一や啓一達がやって来た。そしてあっさりと、幸一の目論見は露見した。
「どさくさに紛れて何を考えているんだよ。普段のお袋達の質素倹約ぶりを考えたら、高値で売れるような物を持っているわけないだろ」
ここぞとばかりに非難する啓一に、さすがの龍一も止める気力が起きず、ただ呆れるだけだった。これ以上騒ぎが大きくなる前に、幸一は書斎へと逃げ込んだ。
三十一
「おはようございま~す。検温の時間です」
「おはよー、翼ちゃん。今日も可愛いね」
大野は、寂しくなった頭頂部を叩きながら言った。この仕草は彼の癖のようだ。
「あら、大野さんも今日は一段と男前ですよー」
いつも軽く流されていたのに、今日は返しがあったので、大野と幸田は顔を見合わせた。
「おお、珍しく返してきたね。彼氏と喧嘩でもしたの?」
幸田が恐る恐る尋ねた。
「もう、幸田さんったら、何を馬鹿な事を言ってるんですか? はい、検温です」
「あれ? もしかして当り?」
大野と幸田が意味ありげな目線を交わす。
「け・ん・お・ん、ですよ。大野さんに幸田さんっ」
翼の顔は笑顔を保っているが、目は完全に怒っていた。
「あっ、はい、やります」
「自分も、やらせて頂きます」
さらに、二人に体温計と記録用紙を押し付けた。
「じゃあ、終わったらここに記録しといて。数分で戻るから。いいわね?」
「はい、書いておきます」
「自分も、書かせて頂きます」
翼はそう言って病室を出て行ったが、そこで駿河とばったり会った。
「あっ、駿河先生……」
「吉岡君? どうかしたの?」
「い、いいえ。別に、な、何もないです」
慌てて笑顔を繕った翼に、やや怪訝そうな顔をした駿河だったが、すぐに真剣な眼差しになった。
「そう、ちょっといいかな?」
「はい。何でしょうか?」
翼は聞こえてしまうのでは? と心配するほど鼓動が大きくなったのを自覚した。
「今日、夕飯一緒にどうかな? ま、予定があるならなら別に無理にとは言わないけれど……」
「いいですよ。私、今日は暇なんですよ」
意外にもあっさりと言葉が出てきた。駿河も理解するのに数秒を要した。
「そ、そうなの? それはよかった。じゃあ六時にロビーで」
「はい、わかりました」
軽い足取りで去っていく駿河の後ろ姿を見送る翼は、簡単に受けてしまった自分に驚きながらも、後ろめたい気持ちが入り交じり、困惑していた。
三十二
太陽の会の会長室。遠藤道徳はデスクの上の写真立てを手にした。今年の新年会で職員全員で撮影した記念写真だった。
遠藤は写真立ての裏蓋を外した。表の記念写真の裏にもう一枚、一人の女性が微笑んでいる写真が隠されていた。
「洋子……」
遠藤は写真の上からそっと触れた。その時、部屋の扉がノックされた。慌てて写真を戻し、返事をする。
「どうぞ」
「失礼します」
久留米美香だった。
「先日の件について、調査が纏まりました。もしお時間がよろしければ、今からでも報告を致しますが?」
そう言いながら久留米は遠藤に、A4サイズで数ページほどの書類を手渡した。
「よし、聞こうか」
遠藤はソファ席に移り、久留米にも席を進めた。
「失礼します」
久留米がソファに腰掛けると、遠藤は書類に目を通した。
「会長が仰っていた、名誉会長と新田先生との接点ですが、童話コンクール以前からの知り合いだった、という事を裏付ける証拠は見付かりませんでした」
「じゃあ、やはりコンクールの入賞がきっかけだと?」
「繋がりを示す、確たる証拠はありませんでした」
「そうか……。コンクールは今年で二十回を数えるのに、入賞者を会へ引き入れたのは、後にも先にも新田洋子ただ一人だ。てっきり知り合いだったと思ったんだがな」
「会長。私は〝確たる証拠はありませんでした〟と言っただけなのですが?」
「なに? どういう意味だ?」
「はい。新田先生の母親、輝子さんについても調べてみました。輝子さんは戦時中の浅草で生まれています」
「浅草? 浅草と言えば……」
「はい、名誉会長もその当時、浅草に住んでいたと聞いています」
「そうすると、母親と顔見知りだったのか?」
「申し訳ありません。七十年も前の事ですから、これ以上はかなり難しいかと」
「そうか……」
「でも、例の新聞記者さんが、色々と調べてくれるかもしれません」
「あの若者が?」
「はい、どうやら彼は、名誉会長の事を調べているようです」
「何のために?」
「わかりません。ただ、二人を見分ける方法を探しているようでした」
「見分ける方法って、俺達ばかりか、家族でさえもでも無理と知っているはずなのに。それに分かったところで、彼に何のメリットが……まさか塩野谷幸一が?」
「それも分かりません。ただ、身近にいた人は、どうやって二人を区別していたのかを知りたがっていました。だから、手助けになるかと思い、松戸の喫茶店を教えておきました」
「あの喫茶店か?」
「はい」
「それでも、無理じゃないのか? あそこのマスターは目が見えないし、そもそも健在なのか?」
「一昨日立ち寄らせてもらいましたら、ご健在でした」
「一昨日って、君という人は……。で、あの若者は取材出来たのか?」
「まだ聞いていませんが、何かわかったら報告します」
「頼む」
三十三
夕食の準備をしている塩野谷家。
朱里は調味料を切らしたので、近所のスーパーに買い物に出かけ、各々はリビングで寛いでいた。
幸一夫妻は定位置のソファに収まり、スポーツ番組を見ている。中央の大型テーブルでは、龍一が結愛の宿題を見ていた。そのテーブルを挟んだ反対側では、啓一達が音楽番組を見ていた。
大婆ちゃんは鈴子に言われ、食事の用意が出来るまで、離れで処分しては困るものがないかどうかを、確認するように言われていた。
そんな具合に皆が寛いでいると、急に鈴子が立ち上がり、笑顔でこう言った。
「皆さん、これから大事な話があります。そのままで構いませんから聞いて下さい」
突然の鈴子の発言に、幸一は驚きの形相で振り返った。先日、太陽の会での一件が脳裏に浮かんだからだ。あの時以来、全く話題に出なかったので、かえって不気味でもあった。
一方の啓一は、逸る気持ちを押さえようと茶をすすっていたが、その態度が余計に幸一を焦らせた。
結愛は宿題をやっていた手を止め、龍一を見た。龍一も、さあというジェスチャーをして、成り行きを見守るだけだった。
「な、何なんだ? 急に話があるなんて」
幸一が動揺しながら訊いた。
「とても大事な話です。皆さんが揃っている今、話すのがちょうどいいかと思いまして」
「そ、そんなに大事なことか? それなら婆さんと朱里がいないぞ」
動揺しながら、それでも毅然と振る舞おうとする幸一に、鈴子が言った。
「大婆ちゃんには敢えて席を外させてもらってます。朱里さんはお買いものとかで同席してもらえずに残念ですわ」
そしていつの間にか手に持っていたA4判の封筒を開け、中からファイルを取り出した。
「ここには、ある調査に関する報告書がございます。私の知り合いの方に頼んで、調べて頂きました。皆様にも実に興味深い内容ですので、お知らせしたいと思います」
「調査? 報告? 何の事だ?」
幸一が上ずった声で慌てたのを、時子が横目で睨んだ。
「あんた、さっきから何をそんなに狼狽えているの?」
「え? 俺が? い、いや。そんな事は無いさ」
いよいよ抜け駆けが暴露されてしまう。幸一は覚悟を決めたのか、腕を組み目を閉じた。
「これはある親子のDNA鑑定の結果です」
鈴子は龍一と結愛を見て言った。結愛は何のことか分かっていないが、龍一の顔から見る見る血の気が失せていくのが誰の目からも明らかだった。
「ディ、ディーエヌエー?」
全く見当違いの事を考えていた幸一には、何の事だか分からなかったが、鈴子は龍一と結愛の前に来ると、龍一の鼻先に報告書を突き付けた。
「龍一さん、あなたと結愛ちゃんの毛髪から、こんな結果が出ましたけど、どういうことなのか説明して頂けますか?」
龍一は焦点の定まらないような表情で、突き出された報告書を見た。そしてある文言で焦点が合い、絶望的な表情へと変わった。
「一体何なんだ? さっぱりわからんぞ。ちゃんと説明しろ」
振り返りみんなを見渡した鈴子は、声を大きくして言った。
「さっきも言った通り、これは龍一さんと結愛ちゃんの毛髪から、DNA鑑定を行った結果の報告書です。ここには、こうあります。この両者が親子関係にある確率は〝0.00%〟であると」
そう言って鈴子は、皆の前に報告書を高らかと掲げた。その背後で龍一は、苦悶の表情のまま床に座り込んだ。誰一人言葉を発するものはいなかった。鈴子は振り返り、今度は結愛を軽蔑する眼差しで見た。
「あなたは一体、誰の子なのかしら?」
更なる沈黙が続いた。結愛はおろおろするばかりで、今にも泣きそうだ。
「親子関係にないだと?」
幸一は鈴子の手にした報告書をひったくった。そして何度か読み返してから顔を上げた。
「龍一、これは一体どういうことだ?」
龍一は座り込んだきり、黙って項垂れたままだ。結愛には話の内容は理解出来なかったが、龍一の姿を見て、怯えていた。
そんな結愛に対して、鈴子はさらに追い打ちをかけた。
「やあねぇ。この子にはどこの誰とも分からない、汚らわしい血が混ざっているのよ」
時子も青ざめた表情になった。
「龍一さん、ど、どうしてさっきから黙っているの? まさか本当なの?」
「あら? その様子だと、もしかしたら龍一さんも気が付いていたのかしら? でも、何か言ってくれないと、今にも結愛ちゃんが泣き出しそうよ」
「どうなんだ、龍一? 本当なのか?」
龍一は何も答えず、ただリビングの床を見つめるだけだった。
そんな中、結愛がついに泣き出してしまった。状況はよくわからないが、自分と父親が責められている事ぐらいは理解出来た。そして泣きながらリビングを出て行き、そのまま家を飛び出して行った。
「おい、龍一。黙っていたらわからないだろ。はっきりしろ。結愛はお前の子じゃなかったのか?」
「そうよ。龍一さん。お父さんの言う通りよ。本当なの?」
龍一の表情はますます強張った。
何かの間違いであってほしかった。きっと手違いがあって、間違った結果が出てしまったのだろうと。誰にでも間違いはある。そう龍一は自分に言い聞かせ、かろうじて平静を装っていられた。しかしそんな矢先に、同じ結果を突き付けられた。
現実は残酷にも、僅かな希望すら断ち切った。
冷たい重石が圧し掛かかり、さらに沈んでいく気分に襲われた。報告書の様式が全く異なる。全く別の機関による鑑定だったのだろう。これで認めたくもなかった事実が確定してしまった。
「となると、結愛はいったい誰の子だ?」
ここで様子を見ていた啓一が、わざとらしく会話に加わってきた。この場の主導権は自分達夫妻にある。そう確信した鈴子はさらに続けた。
「私、思うんだけれど、太陽の会の遠藤代表って、以前は洋子さんに相当お熱だって聞いたことがあるのよ。だからひょっとしたら結愛ちゃんは……」
「それなら俺も聞いたことあるな。待てよ。そうなると認知させて、何らかの誠意を見せてもらわないといかんだろ?」
「だ、だとしても、八年も前の事だろ。無理なんじゃないか?」
これまでほとんど会話に加わらなかった正夫の発言に、周りは静まり返った。
「あ、いや、ほら時効とかってあるのかなぁと思って」
その静寂を最初に破ったのは啓一だった。
「親子関係に、時効なんてある訳ないだろ。よし、結愛の父親が誰なのか、はっきりさせようじゃないか」
「どうかしたの? 正夫。何か他に心当たりでもあるの?」
鈴子の問に下を向いてしまった。
「いや、別に……」
普段から無口な正夫だが、明らかに動揺していた。
――正夫は洋子に気があった。洋子が太陽の会の職員だったことから面識があり、正夫は洋子に一目惚れした。
しかし、何度か言葉を交わしたことはあったが社交的なもので、二人が特別な関係になることはなく、松子と菊子の力添えで、洋子は龍一と結婚した。
そして洋子が塩野谷家に嫁いで間もないある日。遠藤の自宅マンションから出て来る洋子を、偶然にも正夫は目撃した。
洋子が遠藤に言い寄られているという噂は、正夫も知っていた。だが、これまで何も出来ずに、ただ洋子を遠くから見ているだけで、この時もそうする筈だった。
しかしこの時の正夫は、話があるからと言って洋子を人気のない山道まで車で連れ出すと、遠藤との関係について問いただした。洋子は仕事の打ち合わせだったと言ったのだが、正夫は聞く耳を待たず、車内で洋子を無理矢理――。
本当に仕事の打ち合わせだったのかもしれないし、そうでなかったかもしれない。しかし正夫自身、そんな行為に及んだ事を後悔していた。だからその後すぐに家を出たのだ。
しかし、うつ向く正夫にはもう誰も興味を持っていなかった。
遠藤会長が父親だとしたら、それをどうやって確かめるのか? という話になっていた。
「た、確かにこんな状況は良くないな。結愛の父親が誰なのかをハッキリさせないと」
幸一が動揺しながらも、話を自分ペースにしようとした。
「ちょっと待てよ。なに勝手に仕切ろうとしてるんだ」
啓一が幸一に言い寄った。
「と、当然だろ。結愛は俺の孫だ。その結愛の父親が誰かは、当然俺が――」
「結愛の父親がどうかしましたか?」
突然、リビングの入口から声がした。そこには朱里がいた。
「あら、朱里さん。今お帰り? ちょうどよかったわ。今ね、結愛ちゃんの事で家族会議を開いていたところなのよ」
朱里は項垂れている龍一の姿と、リビング全体の異様な空気を感じ取り、警戒の目で鈴子を見た。
「……結愛の事で?」
「そうよ。あなたもこれを見てごらんなさい。龍一さんと結愛ちゃんのDNA鑑定をしてもらったのよ」
「DNA?」
鈴子は、DNAの鑑定報告書を朱里に手渡した。それを見た朱里は、たちまち戸惑いを隠せなかった。
「何よ、これ。どういうこと?」
「どうもこうもないわよ。その通りよ。龍一さんと結愛ちゃんの間には、血の繋がりがないの。親子じゃないのよ」
龍一は一人、項垂れたままだ。リビングを見渡して朱里は言った。
「結愛は?」
その問いに初めて龍一が反応した。
「……そう言えば、さっき出ていった……」
力なく答える龍一は答えた。朱里が時計を見ると、午後七時を過ぎていた。
「さっき〝お前は誰の子だ〟って言われて、泣きながら出て行ったよ。けどまあ、腹がすいたらそのうち帰ってくるだろ」
啓一はそう言って、今度はリビングの鈴子に言った。
「それより遠藤が結愛の父親の場合、一体どうなる?」
「さっきも言ったけど、先ずはそれなりの誠意を見せていただきたいわね。そして太陽の会とは今まで以上に、お付き合いが大切になるんじゃないかしら?」
「まぁこの事実を掴んだのは俺達だ。だから太陽の会とは俺達が――」
その時、テーブルを強く叩く音がリビングに響き渡った。
啓一は口を開いたまま言葉を無くし、みんなはテーブルの傍らにいる朱里を見た。
「あなた達、一体何を考えてるの!」
これまでに見たこともない朱里の剣幕に、リビングの空気は凍りついた。
「な、何よ。事実を言ったまででしょ」
鈴子がたどたどしく反論したが、朱里の怒りは完全に限界を超え、箍が外れた。
「うるさい。みんなの前で〝お前は誰の子だ〟なんて言われた結愛の気持ちを少しは考えたの? そんな事も分からずに財産の行方ばかり気にして、馬鹿じゃないの!」
「な、なによ。そもそもあんた何を母親気取りでいるの? わ、私知っているのよ。あなたまだ結愛に〝お母さん〟って言われていないでしょ」
鈴子の言葉に朱里の表情が一瞬だけ曇ったが、すぐにその瞳に怒りの虹彩が満ち溢れて、猛禽類のごとき鋭い眼光で鈴子を睨んだ。
「……確かに、私はまだ結愛に母親として認められていない。でもそれは当然よ。私は洋子さんじゃないし、誰にも洋子さんの代わりは出来ないのだから。だからすぐに認めてもらおうとは思っていないわ。でもね、今の私は龍一さんの妻であり、結愛の母親よ。だから結愛の実の父親が誰かなんて関係ない。結愛は龍一さんと私の子よ」
困惑した空気がリビングに漂い始めた。朱里は呼吸を整えた。
「だいたい結愛が何をしたの? あの子は最も信用できて守ってもらえるはずの家族から、こんな仕打ちを受けるような事をしたの?」
「だからそれが怪しいって……」
朱里は一度目を閉じると下を向き、そして、ゆっくりと顔を上げた。その顔からは怒りの感情は消えていた。
「私にはね、お父さんとかお母さんと呼べる存在がいないの。物心ついた頃からそうだったわ。家族という枠に収まらない存在だったの。成長するに連れて、それが周りと異なることだということに気付かされたわ」
自らを落ち着かせるためか、朱里は一度大きく深呼吸をした。
「頼れる人が居ないって、どれだけ寂しくてどれだけ不安か分かる? それもまだ八歳の子供よ? 自分達が子供だった頃を思い出してみなさいよ。親の庇護のもとで何の不安もなく、ぬくぬくと育てられていたでしょ? 想像してみてなさいよ。守ってくれる親がいない状況を。血の繋がり? そりゃあ大事かもしれないわ。でもだから何なの? 血のつながりだけが家族なの? 違うでしょ。私にはどう言ったらいいか分からないけれど、家族ってそんな特定の繋がりだけじゃないって、それぐらいは分かっているつもりよ」
全員が俯いて聞いている。とくに啓一夫妻、いや、鈴子は完全に居心地を悪くしていた。
「こんな事だから、大婆ちゃん達がどうしてあんな奇妙な相続を考えたのか、それすらも分かってないのでしょうね」
「何だと? そ、それはどういう事だ?」
幸一の問いを無視してリビングを出て行こうとした朱里に、龍一が声をかけた。
「朱里、どこに行くんだ?」
立ち止まった朱里は、振り返らずに答えた。
「決まってるでしょ。結愛を探しに行くのよ。あなたも父親なんだからしっかりしてよ、龍一さん」
朱里はその場でリビングの外を向いたまま、しかし今度は声のトーンが優しい口調に変わった。
「結愛ちゃんは必ず探しますから、ここで待っていて下さいね」
その言葉に続いて、リビングに狼狽した大婆ちゃんが入ってきた。今にも倒れそうな足取りだが、しっかりと目は見開き、皆を見据えていた。
「私らはなんて愚かなことを……。これではただ結愛を苦しめただけだ……」
幸一が立ち上がった。
「一体なんが何だかさっぱりわからん。亡くなったのがお袋なのかどうかも分からねえし、今度は結愛が龍一の子じゃねえだと。一体何が起きているんだよ、この塩野谷家に」
龍一は、結愛が産まれてから今までの事を思い出していた。
――千葉県の大平洋を望む海岸沿いの産婦人科。生まれたての赤ん坊は洋子の隣でぐっすりと寝ている。そんな赤ん坊に、松子と菊子からの最初のプレゼントとして『結愛』という名前が贈られた。
幼稚園の運動会では、いつも最下位の徒競走だったが、一生懸命に最後まで走った。
小学校に入り、勉強と音楽では周りより頭ひとつ出ていた。しかし、得手不得手に関係なく、何でも一生懸命に取り組む様は、父親としても自慢の娘だった。
父親として自慢の娘――。
今になって、泣きながら飛び出して行った結愛の姿が、とてつもない悲しみと後悔の感情と共に甦ってきた。ふらつきながらも立ち上がった。
「結愛、そうだ。俺は結愛の父親だ!」
龍一は大声で叫んだ。その一言で、皆の表情も変わった。
「そうだ。結愛は間違いなく俺達の孫だ。こんな所で時間を無駄には出来ない。俺達は駅の方を探しに行く。時子、お前は結愛が立ち寄りそうな友達の家に、片っ端から電話しろ。もうこんな時間だ。急げ」
そんな中、自分の愚かさを悟った啓一が、幸一に向かって言った。
「お、俺達にも手伝わせてくれよ」
啓一は罰が悪そうな顔だった。そんな啓一を幸一が睨んだ。しかし悪気のある表情ではない。
「何を寝ぼけたことを言っている。当たり前だろ。数は一人でも多い方がいい。お前らもさっさと支度して行くぞ」
幸一は啓一ばかりでなく、鈴子や正夫にも声をかけた。結愛を追い込んだ鈴子は、どうしたらいいのか分からずにいたが、幸一に言われると頷き、啓一と正夫と一緒に結愛の捜索に動き出した。
続く